【頭文字Eから始まるピアノブランド】


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ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

E. GREIG




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イー・グリーグ

発売元:(株)クニユキピアノ商会(東京都神田須田町)
製造元:六郷ピアノ(製造)など
神田須田町にあったピアノ店の国行重槌氏(明治41年生)が六郷ピアノなどに作らせていたピアノ。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

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EARL WINDSOR

EARL WINDSOR

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アール・ウィンザー
フローラピアノ製造(株) 浜松市白鳥町792番地(当時)

音色、作りは、まさにTHEフローラピアノといった感じです。

アールウインザーのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  アールウィンザー(フローラ)の保証書 →★

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EASTEIN




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EASTEIN イースタイン
製造:東京ピアノ工業株式会社(宇都宮市) 本社:東京都(深川)※当時

松尾新一氏(明治35年生)が社長で、松本ピアノ系の技術者を集めて、
戦後、栃木県の宇都宮で念入りに製作したピアノとのこと。
特に、当時グランドピアノは特徴のある小型の良品であった。
ピアノ製造の大部分が浜松に集中する中、イースタインは関東のピアノ工業の一大勢力であった。
機種バリエーション:U型・N型・C型・E型・B型・T型(掲載の画像はT型)

イースタインのキーカバー →★  イースタインのアクション →★  イースタインピアノ内部 →★

<補足:Wikipediaより引用抜粋>
東京ピアノ工業株式会社(とうきょうピアノこうぎょう)は、かつて存在したピアノ製造業者である。
1949年創業。イースタイン (EASTEIN) ブランドのピアノを生産していたことで知られる。
その他、東京ピアノ工業のブランドとしては、森健氏の初期ブランド、UNIVERSAL(ユニバーサル)もある。
当時、本社は東京都(深川)、ピアノ製造工場は栃木県(宇都宮市)にあった。
■沿革
1949年4月発足。発足時の社長は松尾新一、工場長は瀬島利四夫。
1964年、ピアノ調律師の杵淵直知を技術顧問に迎えた。
1973年3月4日倒産。
1973年7月10日社員有志により、自主生産組織東京ピアノ親和会として再発足。
1990年6月15日廃業。

EASTEINというブランド名は、東京ピアノ工業の浜松より東側という意味からの「EAST」と、
スタインウェイ・アンド・サンズ(STEINWAY & SONS)を連想させるSTEINを組み合わせて作られた。
イースタインのブランドは、アップライトピアノではブリュートナーのコピーのB型、
ベーゼンドルファーのコピーのT型などがある。
グランドピアノも製作しており、円形支柱など構造と音色に特徴があるとされる。
→UNIVERSAL(ユニバーサル)の項目も参照

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EASTERN イースタン 日本 詳細不明
EAVESTAFF
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W.G.EAVESTAFF & SONS イーベスタッフ イギリス(ロンドン)
アクションやチューニングピンが鍵盤の下にあるという珍しいピアノも製造
その他詳細不明

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ECHO
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エコー 新東海楽器(浜松) 詳細不明
ED SEILER 本当のザイラーは”SEILER”の項目参照
ED SEILER エド・ザイラー フィリピン 詳細不明
EDELSTEIN


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エーデルスタイン(EDELSTEIN)  シンハイ(SHINGHAI)の輸出向けピアノに付けられたブランド名称
※シンハイ(SHINGHAI)の項目参照

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EDELTON


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エデルトン

富士楽器(外国ピアノ輸入商会・東京ピアノ商会)、(周ピアノ)

東京ピアノ商会(外国ピアノ輸入商会改称)で取り扱った国産ピアノの高級品。
周ピアノに発注して輸入部品を使用させていた。
パネルに彫刻のあるものが多かった。 

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EHRBER エルバー オーストリア 詳細不明
EKSTEIN
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エクスタイン ロシア(旧ソ連製)
チャイコフスキーというピアノと同様のピアノだと思われますが詳細は不明
ELEGANT
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エレガント 浜松の中部楽器製造(株) 詳細不明 
ELINGTON
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エリントン 渡辺商店(浜松) 大成ピアノ製造 その他詳細不明
アメリカ製の”ELLINGTON”と似た名前なので注意(Lが2個)

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ELISEN & SONS



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エリーゼン・アンド・サンズ
東洋ピアノが小売店様向けブランドをつけて中国で製造し卸販売を行ったピアノ。

機種:J110C、J110CW、U116C等
その他詳細不明

※「EREIZEN」という伊藤ピアノ技研(浜松市)のピアノもあります (スペルが”L”ではなく”R”)
ELIZABETH
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エリザベス 小出一三氏 詳細不明
ELLINGTON



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エリントン ELLINGTON
アメリカ ボールドウィン社(オハイオ州シンシナティ市) その他詳細不明

日本の大成ピアノが作っていたエリントン(ELINGTON)とはスペルが違います。こちらはLが1個です。

<参考資料>
広島市が運営する平和記念公園のレストハウス内に常設展示されている「被爆ピアノ」がこのメーカーです。
このピアノを愛用していた河本明子さんは広島に投下された原爆により19歳という若さで亡くなります。
当時明子さんは学徒動員中で、爆心地から約1Kmの場所で被爆しました。
廃墟と化した町からなんとか自宅に戻るも、その翌日、両親の目の前で息を引き取ります。

明子さんは戦前、両親が暮らすアメリカで生まれ、その後6歳で日本に帰国する際もこのピアノを
大事に日本に持ち帰りました。明子さんは生前、このピアノをこよなく愛していたようです。
爆心地から約2.5Kmの距離にあった河本さんの自宅(三滝町、現在西区)にあったこのピアノの親板には
原子爆弾による強烈な爆風によって割れたガラスの破片が今でも突き刺ささり残っています。
「ELLINGTON CINCINNATI USA」と内部に刻印された明子さんのピアノは、
製造番号から1926年に作られたことが分かっているとのこと。
米オハイオ州シンシナティ市に本社があった、米国を代表するピアノメーカーの、
ボールドウィン社の「エリントン」という製品です。
明子さんのピアノは、シンプルな外見から家庭用に販売されていたと思われます。
この被爆ピアノを通じて、世界に原爆の悲惨さを末永く伝えていってくれたらと心から願います。

写真提供:HOPEプロジェクト様
ELSNER






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ELSNER エルスナー

クラウス商事株式会社
→大成ピアノ製造?(販売元:協立楽器)→その後東洋? 詳細不明

トレードマークには「KRAUS PIANO SALES」と書いてあり、タカ(ワシ)のマークが印象的です。
トレードマーク画像は4枚とも「Atelier Sonorite」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

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ELSTE エルステ イタリア 詳細不明
ELUZE
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ELUZE エルゼ 製造:SAMIC社(サミック) 韓国 象嵌外装が特徴的なピアノ その他詳細不明
 ELYSIAN

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Elysian チャペルピアノ製造

イギリス(ロンドン) その他詳細不明

EMERSON

EMERSON

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エマーソン

製造元・販売元
中部楽器製造(株)、フローラピアノ製造(株) 1930年~

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EMERSON
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エマーソン アメリカ ウイリアム・エマーソン作

1849年にウイリアム・エマーソンによって作り出されたピアノで、
「ピアノの音は、その音量より音質が大切である」という理念のもとに
完成された最も美しいピアノの一つとして有名である。
このピアノは「甘い音のエマーソン」として知られ、その後
エオリアン・コーポレーションの製品になりました。

EMPEROR

EMPEROR ピアノ

EMPEROR PIANO

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エンペラー

製造:河合楽器製作所(株)
カワイのセカンドブランドで音色は非常にまろやかな印象。
メルヘンピアノと同様なピアノです。
私自身、とても好きな音色のピアノで調律もしやすいです。
エンブレムはメルヘンピアノとは違い、カワイピアノと同じです。

エンペラー外装の最大の特徴は、まくり(鍵盤蓋)がグランドピアノと同じ形状です →★

■機種バリエーション
MY202、MY303、MY606、MY707、MY808など

<附録>
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1951年~1988年) →★

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

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ERARD


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エラール ERARD

フランス 創業1780年 言わずと知れた伝統あるピアノです。

1820年から1830年にかけてセバスチャンエラールと
セバスチャンピエールは現代のグランドピアノの原型となる
レペティション機構であるダブル・エスケープメント・アクションの
特許を取得するなど数々の画期的なピアノの改良を共同で成し遂げています。

アルフレッド・ドルジはエラールについてこう述べている
「セバスチャン・エラールはその精巧な発明によってピアノを高いレベルへ引き上げ、ピアノはすべての
偉大な作曲家が音の詩を表現するために好んで用いる楽器になった」
※アルフレッド・ドルジはツィンマーマン社を買取り、1890年代中頃まで週に3000台のオートハープを製造。

<歴史>
セバスチャン・エラール/セバスティアン・エラール(1752~1831)はストラスブールに生まれた。
父はドイツ系の指物師エールハルト(Ehrhard)で、セバスチャンも1877年に刊行されたメンデルの
百科事典にはまだドイツ人として出ていたという。
セバスチャンは、子供の頃から父の工場を手伝いながら、職人としての腕を磨くことが出来た。
だが、彼はもともと機械いじりが好きで、学校では幾何が得意な科目だったという。
父を早くに失って、1768年にパリに行き、チェンバロ工場に勤めることになったが、そこの工場では
学ぶことがなかったので、その後他のチェンバロ工場に移り、そこの主人からは彼の才能をはじめから
認めてくれたおかげで、設計から製作まで全てを任せてくれて作ったチェンバロが大成功となった。
このチェンバロはフラジオレットのレジスターとペダルを備えたもので、それがブランシェリー家の
珍品収集館に納められて、パリで評判となり、それに関する1776年の「ジュルナル・ド・パリ」誌の記事は、
そのまま1780年の年鑑にも転載されて、彼の名は一躍注目されるようになった。
そんなことから彼はヴァレロイ候爵の信頼を得て、その宮殿の中に工場を構えて、1777年には当時
フランスに輸入されていたドイツとイギリスのピアノを手本にして、5オクターヴの突き上げ式の
スクエアピアノを完成させる。これがフランスにおける最初のピアノとなった。
エラールの仕事はその後もますます調子ずいて、1780年頃にはストラスブールから兄弟のひとりである
ジャン・パブティストを呼び寄せて、サン・ジェルマンのブルボン街に本格的な店を出すまでに至った。
しかしその後、ピアノを作ろうとするエラールに対し、営業妨害になると考えたチェンバロ製作者たちが
抗議をしたが、エラールはルイ16世から支援を受け、営業権や資材調達などピアノ製作の許可を受けた。
エラールがマリー・アントワネット妃のために「ピアノ・オルガニゼ」を製作したのはこの頃であった。
それは2面の鍵盤を持ったピアノとオルガン兼用の楽器で、切り替えによってオルガンにもピアノにもなった。
1789年、フランス革命によって店は破壊されてしまい、1792年、エラールは拠点をロンドンへ移し、
1796年までパリに戻らなかった。
1800年代の初めに、エラールはグランドピアノの設計の改良を始める。
独立したハンマーフレンジやアグラフ、レペティション・アクションなど、業界で広く使われるようになる
特許を次々に取得していき、1838年にはハーモニックバーの特許を取得した。
19世紀を通して、エラールは絶えずピアノの実験を行い続け、響板の設計やハンマーのサイズの改良、
打弦位置などを改良していった。その他、音色に関する実験も行い、エラールピアノは音楽上の質に対し、
計り知れない良い影響をもたらした。
1831年、セバスチャン・エラールが結石病で亡くなると、甥のピエールが会社を引き継ぎ、
エラールのピアノを有名人や著名な音楽家が使用する楽器として定着させていった。
例えば、エラールを使用していた人物としては、ヴィクトリア女王や、メンデルスゾーン、リストなどが
使っており、ヨーロッパの資産家や音楽家にとって、エラールは入手できるピアノの中では最高の楽器と
見なされていた。1870年代にアラール社は最も洗練されたコンサートグランドピアノを製作した。
そのピアノはかなり力強く響き渡る音を作り出すことが出来て、しかもエラールユーザーが慣れ親しんでいた
エラールの多彩な音色を兼ね備えたピアノであったという。
1914年以降、エラール社の歴史は下降線をたどる。それは2つの世界大戦と大恐慌の影響ばかりでなく、
ドイツとアメリカのピアノがピアノ製作における新たな理想を確立していったからでもあった。
ドイツやアメリカの分厚い音はエラールのクリアな音よりも演奏の粗が目立たないため、アマチュアの
ピアニストにとってはむしろ弾きやすかったためであろうと言われている。
フランス市場が開放されると、エラール社のピアノはドイツやアメリカのピアノに圧倒された。
20世紀を通して、エラールのピアノはErard et Cie(エラール・エ・コンパニー)、
Guichard et Cie(ギリシャール・エ・コンパニー)、Erard et Blondel(エラール・エ・プロンデル)など、
さまざまな異なるブランド名で生産され、1960年にエラール社はガヴォー社と合併した。
1961年にはこの共同企業体にもうひとつの偉大なフランスのメーカー、プレイエルが加わる。
そして1971年には、シンメル・カンパニーが、エラール、ガヴォー、プレイエルのブランド名を買収した。

<エラール社の特徴>
1808年に、エラールはアグラフと、最初のレペティション・アクションを開発した。
この機構により鍵盤が完全に元に戻らなくとも次の打鍵が可能になった。このアクションはさらに
1821年に改良され、現代広く使われるグランドピアノアクションの基礎となったと言われている。
1838年、エラール社は高音弦をしっかり支えるためのハーモニックバーの特許を取得した。
これは現代の多くのピアノが備えているカポダストロ・バーの開発にインスピレーションを与えた。
当初、エラールのピアノは鍵盤が重いとされていたが、その音色は力強くクリアで、コンサート用としては
理想的だった。そのクリアな音色はアマチュアのピアニストが弾くと粗が目立つことが良くあったが、
熟達した奏者なら自分の音を作ることが出来るため、プロの音楽家には好まれた。
1870年代中頃に最初に製作されたコンサートグランドは、GGGからc5まで合計90鍵あった。
ダイナミックレンジは格別に広く、かなり強い音が鳴り、それでいてエラール独特なクリアな音色は
損なわれることなかったといいます。
エラールは、作曲家で有名な、ガブリエル・フォーレと、モーリス・ラベルが実際にエラールピアノを所有し、
クロード・ドビュッシーもその響きに慣れ親しんでいたと伝えられています。

<附録>
エラールピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1800年~1988年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エラール(仏: Érard)は、ピアノとハープを含む楽器のブランドである。
名称は創業者のセバスチャン・エラール(1752-1831年)と、
その甥のピエール・エラール(1796-1855年)に由来。
セバスチャン・エラールによって作られた最初のフォルテピアノは1777年に遡る。
その後、セバスチャンはアクション機構に関する多数の特許を取得してピアノ自身を発明した。
「ダブルエスケープメント」と呼ばれているこのシステム(1821年)によって、
鍵盤が完全に上がりきるのを待たずに音を出すことができ、より速い演奏が可能となる。
すぐに全てのグランドピアノがこの機構を採用した。
セバスチャンはまた1808年に弦を留めるためのフレーム上のアグラフを考案した。
1810年には、グランドピアノのペダルを考案した。
エラールはまた1810年にダブルアクションのペダルハープを考案した。
これによって全ての音、全ての調が演奏できるようになった。
ブランドは19世紀末に頂点に達したが、20世紀の始めにはエラールのピアノは衰退していった。
何度かの名称の変更があり(Blondel & Cie、Guichard & Cieなど)、1960年に工房はガヴォーと合併した。
1800年製のNo. 28はハイドンが所有し、1803年製のNo. 133はベートーヴェン、
1867年製のNo. 33932(38932に番号が付け直された)はヴェルディが所有した。
リストやラヴェルといったその他の作曲家もエラールを所有していた。
<エラール家>
ペール・ラシェーズ墓地にあるエラール家の墓
セバスチャン・エラール(1752年4月5日ストラスブール生まれ)
チェンバロの技師として1777年に最初のピアノ(スクエア・ピアノ)を製造
創業のために兄のジャン・バティストと協力した
最初のチェンバロ形のピアノを1790年に製造
革命時にはロンドンへ移住
1796年にパリで新会社を設立
1831年没
ジャン・バティスト・エラール(1750年-1826年)、セバスチャンの兄
ピエール・エラール(1796年-1855年)、セバスチャンの甥、ロンドン工房の長
1823年に「ダブルエスケープメント」の特許を取得

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ERARD

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エラール/エラード? 東洋ピアノ製造
機種:D-1、D-3等 詳細不明


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ERARD
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エラール 韓国 詳細不明
EREIZEN



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エリーゼン
伊藤ピアノ技研(浜松市) 詳細不明

EREIZENのトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
トレードマークを見ると、内部にはHAMAMATU ITO PIANOと入っていますね。


※「ELIZEN & SONS」という中国製ピアノ(東洋ピアノ販売)のピアノもあります (スペルが”R”ではなく”L”)
ERNST KAPS


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エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック
(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)

1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)は、
1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社であり、
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。
エルンスト・カプス・ピアノフォルテファブリックはエルンスト・カール・ヴィルヘルム・カプス
(Ernst Karl Wilhelm Kaps)によってドイツ・ドレスデンで創業された。
エルンスト・カプスは1826年12月6日にデーベルンで生まれ、1887年にドレスデンで死去した。
カプスは1879年にスウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に任命された。
息子のエルンスト・オイゲンは1864年に生まれ、1910年の初頭にドレスデンで死去した。
報告は、会社が破産管財人の管理下に置かれることになった結果、自らの命を絶った可能性を示唆した。
彼の次男のヴィルヘルム・カールは1872年に生まれ、1943年にトルケヴィッツで死去した。
しかしながら、1912年のザクセン王国における大富豪の財産と収入の年鑑はカプス家の2名、
ヴィルヘルムとゲルトルート・カプスがそれぞれ130万マルクの財産と
11万マルクの年収を得ていたことが記されている。
1876年、カプス社はフィラデルフィア万国博覧会に出品した。1922年、1874年にドレスデンでヨハン・クーゼ
(Johann Kuhse)によって創業されたピアノ製造会社と合併し、
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリックAGとなった。
1925年、カプス/クーゼ・ピアノフォルテAGと呼ばれていた工場は隣り合わせで両方のピアノブランドを作った。
ドレスデン工場は1930年に閉鎖し、この時点で会社の最終製造番号は37500と報告されていた。
ドレスデン工場は1885年以来37,500台のアップライトピアノおよびグランドピアノを生産し、
安定して年間1000台のピアノを製造。ドレスデンのAltmarkt13番地とSchloss通り18番地には展示室があり、
パリ、ロンドン、ロシアのイルクーツク州とサンクトペテルブルクにも支店があった。
エルンスト・カプスブランドのピアノの生産はオーストラリア企業の所有の下で2012年に再開した。
ピアノに高張力鋼鉄弦と銅巻き弦のシステムを考案し使用し始めたのはカール・ベヒシュタインの教師であった
ジャン=アンリ・パップ(1789年–1875年)である。
パップは、1826年に交差張弦も発明し、その他多くの成功を収めた発明とあまり成功しなかった発明を残した。
また、ヒッチピンとブリッジ(駒)の間に位置する追加のプレッシャーバーの設計を発明した。
(同様のシステムは後の1972年にC・F・セオドア・スタインウェイによって特許が取られた)
現在は「デュープレックス・スケーリング」と呼ばれている。
パップはハンマーのための圧縮フェルトの使用も導入した。これらのうちかなりの数が今日も使用されている。
パップのより成功を収めた発明の一部は、エラール、シュタインヴェーク、スタインウェイ、
そしてエルンスト・カプスといったピアノ製作史のかなり初期の少数の製造業者によって採用された。
パップと議論し、エルンスト・カプスはパップの設計を拡張して、1865年に二重交差張弦方式を考案した。
この設計は低音、中音、高音の3種類の高さのブリッジを用い、それ以前は問題を抱えていたベビーグランドピアノの
生産を可能にした。これによってピアノ製作史の初期に全長154 cmのピアノの生産が可能となった。
この発明やアップライトピアノにおける「パンツァーシステム」と呼ばれるものを含むその他の
効果的な発明の結果として、カプス社は1930年のドレスデン工場の閉業まで長年の商業的成功を収め、
この工場では37,500台のピアノが生産された。
エルンスト・カプスは様々な興味深い発明について数多くの特許を取得した。
これらのうちの一つが「共鳴体(resonator)」である。これは上面に響孔が開けられた共鳴胴から構成される。
これらは、ブリッジの配置に沿って中音および高音のブリッジの真下に固定された。
この目的は、より大きな振動体と追加の同時に発生する倍音を作り出そうとするもので、
より豊かでより色鮮かな音を生み出そうとする手間のかかる努力であった。
共鳴体とベビーグランドピアノ(二重交差配弦グランドピアノ)を含むカプスの発明と
開発はしばしば特許が取られた。
グランドピアノの蓋に響板を拡張する装置といったその他類似の独創的な発明がエルンスト・カプスによって
特許取得された。革命的であったものの、ほとんどは経済的に実用的ではなく、商業的には生産されなかった。
パーシー・グレインジャーはドレスデンのエルンスト・カップスによって作られて母のローズ・グレインジャーに
提供されたウォルナット合板と象牙鍵盤のアップライトパーラーピアノで演奏を学んだ。
グレインジャーの隣には母が教師として座り、1日に2時間ピアノを練習したと伝えられている。
1895年、グレインジャー家はドイツに渡り 、ピアノはローズがピアノを教えにいっていた
Thomas P. Husband夫妻の家に売却された。
Husband夫妻はこのピアノを40年間保有し、1935年にメルボルン大学のグレインジャー博物館へ寄贈した。
ピアノは現在修復され、「Percy Grainger Museum Melbourne Australia」に展示されている。
 ERNST HOMEYER
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HOMEYER/ERNST HOMEYER ホーマイヤー ドイツ(ライプツィヒ) 旧東ドイツ その他詳細不明

ESCHENBACH

ESCHENBACH



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エッシェンバッハ

韓国製です。ワインバーガー(WB110)や、ローゼンストック(RS101)等と同系のピアノです。
当時の販売は協立楽器/協立インターナショナル(別名:全日本ピアノ卸センター株式会社)

初期製品の作りは本当に酷かったですが、徐々に良くはなってきました。
当時販売価格30万円ほどのスピネットタイプの小ぶりな機種(U-1)が一番人気。
U-122は一般的なサイズのアップライト。音色はTHE韓国製。

エッシェンバッハのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★

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ESSEX


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ESSEX エセックス 韓国  製造:ユンチャン社

2001年、ユンチャン社はスタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズとのコラボレーションで、
スタインウェイ社が設計したエセックス・ピアノ(ESSEX)の生産を開始しました。

<広告から抜粋>
エセックスはスタインウェイのピアノづくりの伝統と現代テクノロジーを駆使した研究開発から誕生。
固有の設計、大規模な生産システム、慎重に考慮した生産環境などにより、高い品質を保ちながら、
以前では考えられなかった価格帯を実現させました。
音楽とその才能の開花の歓びを享受する機会はあらゆる方々のものと信じるスタインウェイにとって、
大きな喜びとなりました。
そしてエセックスピアノのもう一つの特徴はその姿の美しさとデザイン・バラエティーの豊かさです。

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ESTEY


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エスティ/(エステー) ESTEY PIANO CORPORATION
アメリカ(インディアナ州) 1869年創業

エスティのピアノ工場はインディアナ州のブルッフトンという小さな町にあって、
1869年に創立以来、代々優れた技術が受け継がれてピアノが製造されました。
このブルッフトンは一時期、ピアノの町として世界的に知られていたといいます。
あらゆる種類のピアノを製造しこれらは過去の世界各国の博覧会に於いて、
連続の賞を受賞するなど、極めて性能の良いピアノとされています。
さらにそのピアノの外装にいたっては非常に美麗で芸術的なものが多いのが特徴。
エスティピアノの突出すべき特徴としては、バイオリンブリッジ機構と呼ばれる
ピアノに重大な改良を加えたことが挙げられる。
これはバイオリンの駒のような形のブリッジを付けることにより、音質や音量、
そしてサスティンの音も驚くほど良く改良されたと言われています。
この方法はさほど複雑な仕組みではなく、高音部のブリッジに溝(くぼみ)を付け、
これによりブリッジ本体の容積と重みを減らすことにより、音の振動を容易に
響板へと伝えることが可能にするという工夫です。
さらに、エスティのダイレクト・ブロー・アクション(特許)は普通の
エリミネーティング・アクションに比べ、トラブルが少なく、タッチも確実で、
音量・音質ともに優れ、さらにはレスポンスが良いとされています。
1964年以来、エスティピアノはイギリスのナイトピアノと提携し、
ナイトピアノの優れた技術もそのロイヤルシリーズに取り入れたとのことです。
尚、リッペンやリンドナーなどと同様にプラスチックアクション機構を採用し、
熱帯地方や多湿地帯へのピアノの輸出を可能にしたとも伝えられています。

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ESTONIA


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エストニア ロシア(ソ連)
ソビエト連邦当時、最も優れた性能のブランドと称される

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エストニアピアノ工房(エストニア語: Estonia Klaverivabrik)は、1950年にエストニア・タリンで
エルンスト・ヒース(ドイツ語版)によって創業されたピアノ製造業者である。
エストニアピアノの大半は現在アメリカ合衆国で販売されている。
エルンスト・ヒースは1893年に自身の会社E. A. Ihseを設立した。
1915年、ヒースは事業を売却し、他の会社で働いた。
1923年、ヒースはAstron社の第一人者と経営者になった。
第二次世界大戦とそれに続くソビエト連邦によるエストニアの占領によってエストニアにおける
ピアノ生産は停止した。工場は破壊された。エルンスト・ヒースのみがグランドピアノ生産を続けた。
1950年、ヨシフ・スターリンの命令によって、人民家具工場を基にして、タリンピアノ工房が設立され、
新たなピアノはエストニアと呼ばれた。1951年4月、初のエストニアグランドピアノが国家委員会に贈呈された。
1950年から1990年までは国営企業であり、2種類のグランドピアノモデル(190cmおよび273 cm)を製造し、
ソビエト連邦のあらゆる場所に供給していた。
会社は1991年のソビエト連邦の崩壊(英語版)とエストニアの独立回復後に衰退し、
1993年に工場は私営化された。
ソビエト連邦の崩壊により1990年代初頭に工場が下り坂になった後、工場はインドレク・ラウルによって
再生された。ラウルは会社に投資し、アメリカ合衆国へ製品を紹介した。
1995年、会社はラウルに売却され(当時はニューヨークにあるジュリアード音楽院の
ピアノ専攻の博士課程の学生)、ラウルが会社の経営を引き継いだ。
必要な部品および材料(ドイツのレンナー社のアクションとハンマーなど)は現在輸入されている。
2003年、新工場建物が完成した。
ソビエト連邦が存在していた間に製造されたエストニアピアノは驚くほど強く、優れた安定性、速い機構、
壮大なシンギングトーンを示す。この時期のピアノが今日見付かるのは極めてまれであり、
ほぼ消滅したブランドである。
ソビエト連邦の崩壊後、1990年代初期に製造された新たなピアノは製造欠陥に悩まされたが、
2002年頃以降に製造されたピアノは素晴らしい品質とユニークで甘いシンギングトーンを示す。
2003年ー2005年に行われた追加に改善によってエストニアグランドピアノは最高峰の品質を持つピアノとして
格付けされている。
コンサートピアニストのマルカンドレ・アムランはエストニアピアノを自分のために選んだ後、
「エストニアピアノの職人の技能は最大の尊敬の念を抱かせることができ、私はこのピアノが繊細な音楽家にとって
不可欠なものであり続けると確信している」と述べた。

ETERNA

ETERNA

ETERNA TENRYUGAKKI


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エテルナ 天竜楽器製造 ※正式には「天龍楽器製造株式会社」のようです  竜× 龍○
当時の天龍楽器の住所:浜松市和田町534-2

日本楽器の系列に入ったとき、社長小倉太郎氏が
日本の第二のメーカーを目指して販売に力を入れました。
後に日本楽器で製造したもので、後に紹介するカイザーやミキと同様のピアノです。
発売元は神戸市生田区の国際楽器。

アクション本体はヤマハ製を使っていて、ヤマハのロゴが入っているものが多くあります。→★
このピアノはチューニングピンが緩くなる現象(通称ピンズル)が多く発生します(天龍楽器時代)
もちろんチューニングピンの打ち替え修理でトルクは戻ります。
日本楽器の製造になってからは、雰囲気的にほとんどヤマハに近い感じになっています。

■機種/モデル バリエーション
アップライトピアノ E1B、E10BL、EB30BL等
グランドピアノ EG430B、EG530B 等

画像の上2枚は天龍楽器時代のもので、下2枚は日本楽器製造になってからのものです。
※天龍楽器時代のトレードマークではTENRYU GAKKIになっており、
日本楽器製造になってからのトレードマークでは、NIPPON GAKKIになっているところに注目。

日本楽器の製造になってからのエテルナのキーカバー →★  エテルナのまくり部分の銘柄部分 →★

エテルナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

ETYDE

RAZNO ピアノ

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エチュード ロシア(旧ソ連製)

ピアノ本体に書かれているブランド銘柄マークの部分の「Y」が「U」に見えて、
一見すると「ETUDE」かと思ってしまいますが、正しいスペルは「ETYDE」です。

ピアノの作りは正直酷かった印象です。その他詳細不明。

エチュードのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EUTERPE

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EUTERPE

オイテルペ ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
EVERETT


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
EVERETT エベレット(エヴェレット))・ピアノ・カンパニー/Everett Piano Company
創業1883年 アメリカ 工場:ミシガン州サウスヘブン

1883年に創業でアメリカのピアノメーカーのうちで最も古いものの1つに数えられる。
工場はミシガン州のサウスヘブンにあり、近代的な設備を誇る。
エベレットのグランドピアノの特徴としては、背面に木材を使わずダイナテンションという
独特な鉄製レバーで組み立てられていることにある。
この特殊な構造により弦の張力とケースの耐久性が増し、強大で素晴らしい音色が得られるとのこと。
一時はヤマハの資本傘下になったこともあります。
※現在エベレット・ピアノは、中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー、アートフィールド・ピアノ、
マカオ・ピアノカンパニーが生産している。

<歴史>
1883年、楽器小売店のジョン・チャーチ・カンパニーが、エベレットのブランド名で少数のアップライトと、
グランドピアノの生産を、ボストンで始めたのが始まり。19世紀当時、ボストンはピアノ製作の中心地だった。
最初の頃は、大衆向けのピアノを生産していたが、フランク・L・リーが社長になると、会社は方針を変え、
最上位品質のピアノで評判を得るようになる。
エベレット・ピアノ・カンパニーが高品質のピアノメーカーとして認められるまでには何年もかかったが、
スウェーデン人のピアノ設計家ジョン・アンダーソンの力を借りて、エベレット・ピアノは20世紀初めには
一流の演奏家たちに選ばれる楽器となった。
しかし、エベレット社は自社製品の質を全面的に信頼し、比較的小規模な会社に留まったために、
競争が激化していくピアノ市場に於いて、地位を確立出来なくなっていった。
1926年、ケーブル・ネルソン・カンパニーがエベレット・ピアノ・カンパニーを買収する。
そして、自動演奏ピアノの生産生産に手を出してみたものの、1920年代後半から1930年代にかけての
戦争と不況により、生産と売り上げはさらに落ち込んだ。
第二次世界大戦後、会社の売り上げは伸び、エベレットのスタジオ・アップライトは特に学校で人気を獲得し、
1956年には増大する需要に応えるためにミシガン州のサウスヘブンに新工場が建設された。
1962年、ピアノ市場への参入を望んでいたハモンド・オルガン・カンパニーがエベレット社を買収するが、
ピアノ業界でそれほどの利益が見込めないとわかると、エベレット社は投資家グループ、ユナイテッド・
インダストリアル・シンジケートに売り渡された。
その後、1973年にエベレット社は現ヤマハ株式会社(当時:日本楽器株式会社)に売却される。
そして、サウスヘブン工場は近代化され、エベレットとヤマハの両方のピアノが生産されるようになった。
その後、1986年にヤマハがアメリカ工場をジョージア州へ移転したのに伴い、エベレットの工場での
生産は中止された。それ以降、エベレットのブランド名ライセンスは、1989年まではボールドウィン社が
保有していた。そして1995年からはライトウッド・エンタープライジス・インコーポレイテッドがエベレットの
ブランド名を使用し、現在は中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー(東北鋼琴)がエベレットを生産している。

<附録>
エベレットピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1885年~1989年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エヴェレット・ピアノ・カンパニー(Everett Piano Company)(単にエヴェレット・ピアノとも)は、
ジョン・チャーチ・カンパニーによって創業されたピアノ製造会社である。
以前は日本の会社であるヤマハによって所有されていた。
1883年にジョン・チャーチ・カンパニーによってマサチューセッツ州ボストンで創業された。
当時はピアノ産業のトップ企業の一つであった。1926年6月、エヴェレットはCable-Nelson Pianoと合併し、
ボストンからミシガン州サウスヘイヴンへ移転した。
多くの作曲家がエヴェレットのピアノを使用したが、小型のピアノに対する需要が増した。
それに応えて、エヴェレットはグランドピアノの製造から離れ、1946年に小型ピアノのみを作った。
エヴェレットは静電リードオルガンも開発し、1935年から1941年までOrgatronブランドを製造した。
第二次世界大戦によって生産が休止する前に、この事業はルドルフ・ウーリッツァー・カンパニーに売却され、
ピアノに焦点を再び合わせた。
1949年、John A. Hensがdyna-tensionスケールを開発した。
これはより良い音を可能にするためにピアノの弦をより高い張力の下に置く。
Balanced Tension Backを持つエヴェレットピアノのみがこの特徴を有していた。
1962年、ハモンドオルガン・カンパニーがピアノ産業に参入するためにエヴェレット・ピアノ・カンパニーを買収。
その後の1973年、ヤマハがエヴェレット・ピアノ・カンパニーを購入し、サウスヘイヴンでヤマハピアノと
エヴェレットピアノを共に製造した。
ヤマハが1986年にジョージア州トーマストン(英語版)の工場にピアノ生産を移した時、
エヴェレットピアノはヤマハとの契約によってボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーによって
サウスヘイヴンでの製造が続けられた。
しかしながら、この契約はその後に打ち切られ、エヴェレット社は最終的に1989年に終わった。

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