【頭文字Yから始まるピアノブランド】
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ピアノ銘柄ブランド トレードマーク 紹介 & 知名度ランキング ![]() |
メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 |
Y. HIROTA![]() このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
Y.HIROTA Y・ヒロタ 製造:東洋楽器製造KK(広島) 製造?発売元?:ヒロタピアノ(広田ピアノ)(東京都大田区大森) 広田米太郎氏によって大田区大森に創立されたヒロタピアノのブランド。 ブルッツナーをコピーしたもので、音色は極めて美しかったというが、 工場は終戦とともに消失した。広島の東洋楽器でも作られていた。 ※HIROTA ヒロタ 広田ピアノ(川崎市)、東洋楽器製造(浜松) 広田米太郎氏は、当時最高の技術を持つ調律師で、1923年の関東大震災の翌年に 東京楽器研究所を離れて、約6~7年の間ヒロタピアノを作っていた。 従業員24~25人で、年間約100台を製造していたという。 ヒロタピアノはアップライト600台、グランド70~80台が作られたと推定されており、 アクションやワイヤーhはドイツ製を使い、グランドはブルッツナーをコピーしたもので、 音色は極めて美しく、ブランドとしてはY・ヒロタが用いられていた。 この米太郎氏の長男の広田武雄氏が広島で屋代千里氏と合同して 東洋楽器製造株式会社を作り、ワグナーピアノを作り出しました。 ヒロタのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
Y. OTTO このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
Y.OTTO Y・オットー 昭和初期、山野楽器の輸入したピアノにオットーというドイツ製のピアノがあったが、 このオットーとは違うピアノ。これは国産品です。その他詳細不明 |
YAESU 画像クリックでHPへ戻る |
ヤエス 販売:八重洲ピアノ社 製造:東洋楽器(アポロ) 東京駅八重洲口近くにあった八重洲ピアノ社が、昭和40年ころに 東洋楽器(アポロ)に命じて特製したピアノです。アポロピアノ同様、鍵盤奥に石川社長直筆サインも。 美しい木目肌のマホガニー塗りは、アポロの初期の入念さを再現しています。 音符をモチーフにしたトレードマークが印象的です。 ■機種バリエーション YU1、YU2、YU3、YU5の4機種 ヤエスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
YAMAHA 画像クリックでHPへ戻る |
ヤマハ株式会社 旧社名:日本楽器製造KK(浜松市) 創業1900年(明治33年) 住所:静岡県浜松市中区中沢町10-1 言わずと知れたピアノメーカーですね。創業100年を超える日本で最も古いメーカーです。 世界最大級の楽器工場を持ち、創設者は山葉寅楠(やまはとらぐす)氏。 山葉氏の生い立ちや創業までの足跡は下記歴史を参照。 ヤマハピアノの製造累積台数としては世界第一位です (ちなみに河合楽器/カワイピアノが世界第二位) 川上嘉市社長の時今日のヤマハの基礎を作り上げ、川上源一氏の独創的な経営法により、 社業は伸びヤマハピアノは世界的な評価を受けている。創業は1900年。 グランドピアノのフレームにSINCE1887とあるものがありますが、これは創業者の山葉寅楠がアメリカ製の リードオルガンの修理を頼まれたのがこの年なので、SINCE1887年としている場合があります。 正式なヤマハピアノの創業は1900年とするのが一般的です。 尚、1902年よりグランドピアノの製造も開始しています。 ヤマハのトレードマークは3つの音叉が重なったデザインが印象的です。 ちなみにヤマハ発動機製のオートバイ(バイク)やモーターボートなどもこのマークですね! (正確には若干違いますので、この一番下の豆知識を見て下さい) 一番上のトレードマークは終戦直後製造のピアノで、上から2番目は昭和38年製造のピアノ、 そして上から3番目は近年製造のものです。鋳造技術の違いが見て取れます。 上から9番目のマークは一般的なグランドピアノについているマークで、SINCE1887とあります。 下から3番目のマークはヤマハグランドピアノのSシリーズ(写真はS6B)のもので、 下から2番目のマークはヤマハの最高級フルコン(フルコンサートグランドピアノ)のCF3-S(CFⅢ-S)です。 ヤマハピアノ古き良き昭和30年代の純正キーカバーと調律検査カード →★ 1977年製造のアップライトピアノのアクションレールに貼られたシール(日本工業規格 JIS 8334) →★ ヤマハ創業最初期に作られたヤマハアップライトピアノの写真 →★ 終戦後に作られた古いヤマハピアノのアクションレールに貼られたレトロなシール →★ 上記の古いヤマハピアノのまくり(蓋部分)のレトロなマーク →★ ヤマハのグランドピアノ響板に描かれたメーカーデカール →★ <ヤマハの歴史> 1851年生まれの山葉寅楠は武家の三男として紀州和歌山に生れた。生まれつき手先が器用で観察力が強く、 父孝之助が徳川藩の天文係だった関係もあって、天体観測や土地測量の器機などに興味を持ち、子どもの頃から 機械いじりが好きだったという。1871年、ひとりで西洋文化の玄関口でもあった長崎へ17歳の時に赴き、 イギリス人の店の機械技師から医療機器や時計製作法、修理工としての技能を教わりながら働き始める。 山葉は当初、将来自分自身で時計を作ることが夢だった。また長崎には日本で最初の西洋医学の学校があり、 そこで見た医療機器類に深い関心を持ち、その後大阪に移って医療器店に住み込んで修理工になり、 たまたま浜松病院からの要請で、1884年(明治17年)に浜松に住みつくことになり、はじめのうちは 木賃宿(泊まり客が自炊し、燃料代だけ払うしくみの宿)の淸水屋の一室に工房を構えて、 時計の修理と医療器具の修理に携わっていた。 寅楠には自身の時計の製作会社を設立するだけの資本金がなかったが、この時に身に付けた 機械製作の技術は、別の方向で役に立つこととなる。 山葉寅楠は先に述べたオルガンの修理品を納めたその時からこの楽器の魅力に取りつかれて、 まず金属加工業のかざり職人(彫金師)であった河合喜三郎氏の協力を得て、オルガンの試作に 取りかかるが、浜松には木材以外の材料も工具もなかったし、その製作は終始手探りの状態だった。 薄い真鍮板を切って削ってリードを作り、金属片を加工して部品を作り、鞴(ふいご)は和紙を貼り合わせて 間に合わせたり、鍵盤には裁縫用のヘラを削って付けたという。 そうして山葉は1885年(明治18年)に最初のオルガンの試作に成功する。これは西川寅吉の翌年である。 山葉寅楠は静岡県の浜松にて機械技師の職に就きはじめ、1887年(明治20年)に、地元である浜松の 元城小学校(当時の名称:浜松小学校)で購入のアメリカ、メーソン社製の故障したリードオルガンの修理を ふとしたきっかけで頼まれた。この楽器はその前からキリスト教布教のためにアメリカから輸入もされていたし、 1880年頃から文部省の音楽取調掛でも、メイスン教師の指導でアメリカより部品を取り寄せて組み立てられ、 一部都会の小学校にもある程度普及し始めた頃ではあったが、浜松ではこれがただ1台の珍しい楽器だったので、 毎日見物人が絶えなかったという。それだけに山葉は情熱を燃やして、手探りで故障箇所を見つけだし、 その修理を成功させた。そしてこの楽器の構造に驚いた山葉寅楠は、その年の11月に自らオルガンを試作し、 その後曲折を経て、明治21年に浜松の成子町に工場を開設、その翌年1889年(明治22年)には 河合喜三郎の協力を得て、山葉風琴製造所を設立した。 そのことはフランスのポール・ローカル氏の著書の中に、「1889年に西洋楽器の一つの工場が日本に生まれた」 と記されている。 その翌年(明治23年)、板屋町へふたたび移転し、資本金は5万との記録が残っている。 そして1892年(明治25年)にはすでに78台が東南アジアに輸出されている。 まだ生産台数そのものが少なかったために、その輸出が欧米のメーカーの脅威になることはなかったが、 繊維類やその他の工業製品と同様にオルガンという楽器が当時から主要な輸出産業として規定されていた ということはとても重要なことであろう。 1897年(明治30年)、会社は資本金10万円で株式会社に改組し、社名を”日本楽器製造株式会社”と改め、 山葉寅楠が社長に就任した。 国もピアノ製作へ関心を寄せるようになり、寅楠は日本の文部省の使節として最新の技術を調査するため、 助成金を受けて1899年6月(明治32年)にアメリカへと渡り、現地のピアノ製作会社を視察してまわった。 そして1900年(明治33年)に河合小市氏と共にアップライトピアノの製造を開始し、 1902年(明治35年)にはグランドピアノも完成させた。 しかし、寅楠の姪の養子である山葉直吉(旧姓尾島)の備忘録によると、 「立形小ピアノハ会社ガピアノ製造ノ初ニシテ原料ハ上海方面ヨリ買入レ・・・」とあるように、 製造を開始したアップライトは国産ピアノといってもアクションなどの内部機構はじめ、共鳴板も上海から 輸入していたとの記録が残っています。 また、1901年(明治34年)にグランドピアノの製造にも手を伸ばしたとされていますが、 これも直吉が、「米国ヨリ鉄骨アクション響板及附属全部ヲ取寄セ製造シタル・・・」と記しているように、 当時のヤマハは製造というより組み立てしていたという方がふさわしいかもしれません。 1904年(明治37年)にはセントルイス万国博覧会にピアノとオルガンを出品しそこで名誉大賞を受けた。 (※しかしこれも申し訳ないが(笑)、当博覧会は製品の性能を競う博覧会とは言えないとの見方が強い) その後、浜松に広大な工場を持つようになった会社は、1907年(明治40年)には年間600台のピアノと、 8000台のリードオルガン、そして13000丁のヴァイオリンを生産するようになり、資本金が60万円へ増資。 1907年(明治40年)には自社製アクションを製作するようになっていた。 山葉寅楠は、1916年(大正5年)に60代半ばという若さでこの世を去るが、その頃には会社は優れた ピアノ製作を称えられて数々の賞を受賞した。 会社は激動の1920~1930年代を生き延び、戦時中は飛行機部品の製作を依頼された。 1927年(昭和2年)に労働争議で経営不振となった日本楽器製造(現名ヤマハ)の社長に川上嘉市が就任。 労働争議を解決し、経営の合理化や音響実験室を設けるなど近代的な生産方法を推進し、 日本楽器製造の経営を立て直したとされています。 1926年(昭和元年)頃から日本楽器のピアノはドイツのベヒシュタインをモデルに製作されるようになる。 このころの日本における趨勢(すうせい)は、スタインウェイではなくドイツのピアノを支持する傾向にあり、 ベヒシュタインをはじめ、ブリュートナーのピアノもかなり愛好されていた。 この当時、河合小市氏(河合楽器製作所創設者・初代社長)らが欧米に楽器視察に行った際、 「絶対に他の追随を許さぬ名実共に世界最善のピアノは、まさしく ”ベヒシュタイン” であるということが分かった」 という報告を公にしたことにより、日本楽器はベヒシュタイン社のシュレーゲルという技術者を、 なんと年俸1万円で雇用し、その技術を獲得するためにあてることになる。 ちなみに、このころの内閣総理大臣の月収は800円であり、公務員の初任給は55円だったことから、 年俸一万円がいかに高額だったかが分かるであろう。 当時、東京音楽学校での輸入ピアノもベヒシュタインであったように、少なくとも戦前の日本のピアノは、 ドイツのピアノがモデルになっていたことは揺るぎない事実であることは確かだ。 戦後、1947年(昭和22年)に楽器の生産を再開し、以降会社は急速に成長を遂げた。 1954年(昭和29年)に独自の音楽教室を設立し、1960年(昭和35年)にはアメリカへ楽器を 輸出するまでになった。 1973年(昭和48年)に、アメリカのブランドである、エベレット・ピアノ・カンパニーと、 ミシガン州サウスヘブンのエベレット社工場を買収し、この工場でアメリカ市場向けにヤマハと エベレットの両方のピアノを生産した。 1986年(昭和61年)、この工場は閉鎖され、アメリカにおける生産はジョージア州のトマストンへ移った。 1987年(昭和62年)、創業100周年を記念して社名を日本楽器からヤマハ株式会社へ改められた。 現在、ヤマハは世界最大の楽器製作会社となり、年間約130,000台のピアノを生産している。 <附録> ヤマハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1917年~1989年) →★ ヤマハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1906年~1921年の別説資料) →★ ヤマハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1988年~2017年) →★ <参考> 明治34年12月(西暦1901年)→製造番号1500 ヤマハアップライトピアノの2本ペダル→3本ペダルに変わった転換時期は昭和40年代初旬頃と思われます。 私が実物のピアノで確認している3本ペダルの最も古いヤマハアップライトの製造番号は 【6322**】 です。 <ピアノ調律技術者向け附録> 張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★ <豆知識> ヤマハ発動機のロゴマークとの違い (一番下の画像) ヤマハ株式会社の方のロゴは、音叉の先端が円の中におさまり、 ヤマハ発動機の方は音叉の先端が円に届いています。 これはタイヤのホイールをイメージしているからだと言われています。 また、ヤマハ株式会社の正式なロゴマークの色を見るとバイオレットで、 ヤマハ発動機株式会社の方は赤色を使用しています。 その他、ヤマハ株式会社のローマ字ロゴで、Mの字の下の部分が 下に届いていないMの形で、左右非対称といった特徴もあります。 <以下、ウィキペディアより創業~終戦までの部分を引用抜粋> ヤマハの源流は1887年(明治20年)、山葉寅楠が浜松尋常小学校(現:元城小学校)で オルガンを修理したことがきっかけである。 1888年(明治21年)に浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。 寅楠は1889年(明治22年)に合資会社山葉風琴製造所を設立(「風琴」ふうきん)。 1891年(明治24年)に出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、 河合喜三郎と共同で山葉楽器製造所を設立した。 1897年(明治30年)10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。 1916年(大正5年)の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、 ピアノ製造は一族の山葉直吉らがあたった。 1921年(大正10年)に帝国陸軍の要請により、軍用航空機の木製プロペラの製造を、 1931年に金属製プロペラの製造を開始した。同年8月に西川楽器(西川オルガン)を合併。 西川オルガンは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、 合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年(大正10年)に家具の製作を開始する。 1926年4月に大規模な労働争議が発生する。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、 会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動となる。 争議の責任から翌1927年(昭和2年)に天野が辞任し、住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。 1930年(昭和5年)に釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、嘉市は住友財閥の支援も受け、 経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、のちに 「非オーナーでありながら経営者を世襲」して川上親子が経営を続ける。 経営の好転後、1935年(昭和10年)にヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作し、 1937年(昭和12年)に管楽器製造をする日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、 嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化して総合楽器製造企業へ成長しつつあった。 しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年(昭和13年)に陸軍管理下の軍需工場となり、 金属プロペラおよび木製プロペラ(小型練習機用)の生産を行い大工場になる。 太平洋戦争中には一式戦闘機「隼」や一〇〇式司令部偵察機など、多くの陸軍機のプロペラを生産した。 1944年(昭和19年)11月に楽器類の生産は完全休止し、1945年7月にイギリスの戦艦キング・ジョージ5世の 艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け(浜松空襲)、終戦を迎えた。 ヤマハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
YAMAHA | ヤマハ フィリピン YUPANGCO(ユパンゴ)という会社が製造 ※日本のヤマハではない |
YAMANO![]() このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
YAMANO ヤマノ 発売元:山野楽器店 製造:西川ピアノ(横浜) 製造:日本楽器横浜工場(横浜) 山野楽器店が西川ピアノに指定して作らせたピアノで、 西川ピアノが日本楽器に吸収された後は、日本楽器横浜工場で作られていた。 ヤマノのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
YAMATO ![]() このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
YAMATO ヤマト 小野ピアノ(発売元)、 西川ピアノ(製造)、日本楽器横浜工場(製造)、[大和楽器:戦前] 小野ピアノが日本楽器横浜工場で作らせていたブランド。 戦前はレスターを作っていた大和楽器でも製作したと言われている。 ヤマトのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
YARHART このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ |
YARHART ヤーハルト 日本 詳細不明 |
YOKOTA | YOKOTA/ヨコタ 一般的なピアノの鍵盤数は88鍵あるが、このピアノは75鍵の廉価版ピアノ。 ペダル数は2本だが、左側のペダルがマフラーペダルになっています。 中音域から高音域は2本張りで、音量はやや控えめ。その他詳細不明 |
YOUNG CHANG![]() ![]() ![]() 画像クリックでHPへ戻る |
YOUNG CHANG ユンチャン 韓国 ユンチャン社は創業から30年余りで世界最大クラスのピアノ製作会社に成長しました。 ユンチャンは朝鮮戦争で疲弊していた1956年の韓国に、キム三兄弟によって設立され、あらゆる種類のピアノを 生産する主要メーカーとなりました。 <歴史> ユンチャン社が設立された頃は、1953年に朝鮮戦争が休戦した約3年後だった。 復興していく韓国経済に乗り、新たなスタートを切る原動力となった。 新しく誕生したユンチャン社は、異なる才能を持つ3人の兄弟によってピアノ生産を開始した。 キム・ジェヨンは専門的に学んだ会計士であり、キム・ジェソプはエンジニア、そしてキム・ジェチャンは 優れたピアニストであり、ピアノ技術者であった。 ユンチャン社は当初、輸入という形でヤマハとの関係をスタートさせたが、高い関税が課せられるようになると、 この関係はユンチャン社としては不利な形となり、半製品のピアノを日本の工場から輸入して自社で完成させる という形をとるようになる。ヤマハはその代わりにユンチャン社の工場設備を整える協力をした。 その関係はユンチャン社が世界市場に乗り出す決意をした1975年まで続いたとされます。 翌1976年に工場は火災で焼けたが、会社はすぐにインチョンに移転した。 1984年にはグランドピアノを生産するようになり、1989年にはピアノ・テクニシャンズ・ジャーナル誌に、 工場を訪れたピアノ技術者のヤット・ラム・ホンによる記事が掲載された。 その記事では、ソウルにあるユンチャン社の工場は最も進んだ生産システムを備えていると報告された。 ユンチャン社では5000人の従業員が働き、年間100000台以上のピアノを生産している。 1990年代中頃にユンチャン社は規模を拡大し、中国に工場を建設した。 2001年、ユンチャン社はスタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズとのコラボレーションで、 スタインウェイ社が設計したエセックス・ピアノ(ESSEX)の生産を開始しました。 <取り扱うブランド名> Young Chang(現在は取り扱いなし)、Wagner(現在は取り扱いなし)、Wurlitzer、Weber、Premberger <附録> ユンチャンピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1978年~2001年) →★ ユンチャンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★ |
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