ピアノメーカー一覧  
ピアノカルテ
★☆ 現役ピアノ調律師が作ったページです ☆★
日本国内と世界各国のピアノメーカー図鑑(A~Z)約1930種類一覧

ピアノメーカー・ブランドランキング全覧 ピアノメーカー詳細解説 ロゴ・エンブレム・トレードマーク 日本と世界のピアノメーカーの集大成

ピアノメーカー一覧アルファベット順
★五十音順ページもありますが、アルファベット順ページ(当ページ)の方が情報量が多いです★


五十音順(アイウエオ順)のページでの検索はこちら


ピアノメーカーブランド五十音順

※但し、情報量や画像の多さでは当アルファベット順ページ(現在表示中のページ)の方が豊富です








はじめまして、ピアノ調律師の杉本豊と申します(現在職歴30年になります、被雇用20年+フリー歴10年)
日本国内をはじめ世界各国のピアノメーカー/ブランド数は優に2000種類を超える数があったと言われています。
太平洋戦争以前の国内メーカーとしてはヤマハ・カワイをはじめ、ニシカワ・マツモト・トレフリッヒ・シュー・リー
ルビンシュタイン・モートリー・シュベスター・ブッフホルツ・フクシマ・ホルーゲル・オオツカ・ヒロタ等がありました。
しかし、戦前に作られたピアノは、戦時混乱と金属類回収令等により、残念ながら現在ほとんど残っておりません。
高度経済成長期に全盛期を迎えた国内に於けるピアノ製造業も、時代の流れとともに廃業を余儀なくされてゆきますが、
販売されたピアノ自体は世の中に末長く残り続けるためにこのピアノメーカー/ブランド名のページを作りました。
聞き慣れないピアノや、初めて見るピアノを調べたい時など、当ページが広く皆様のお役に立てたら大変光栄です。
当ページ内には現在約1930種類(但し、同ブランドの重複掲載もあります)のピアノブランド名を掲載しており、
新しい情報を発見した場合や、修正及び加筆事項があった際には、出来る限りすみやかな更新を心がけております。
特に注目して頂くと面白いのが、ピアノの内部にある各ブランドそれぞれのトレードマーク画像(エンブレムマーク)です。
ピアノの鉄骨部分には大抵そのブランドを象徴するトレードマークが付いており、どれも個性豊かで興味深いです。
内部にあるので一般の方は通常あまり目にすることがないマークですが、皆様にご紹介出来たらと思っております。


良いピアノを作ろうと日々情熱を傾け、長きにわたり尽力してこられた
先人の偉大なるピアノ製作者の方々に対し、心より敬意を表します。


最終更新日:2023/11/25
Last Updated : November 25, 2023

当ページの内容には万全を期しておりますが、もし間違った内容を発見した場合や、
誤字・脱字、もしくは新しい情報などがございましたら 修正受付フォーム より遠慮なくお知らせ下さい。
頂いた情報はすべて当方に於きましても慎重に検証・精査した上で、ホームページに反映させて頂きます。
日頃から多くの方々からの新情報のご提供、及びトレードマークのご寄稿いつも本当に有り難うございます。
昭和40~50年頃が全盛期だった国内ピアノ製造業ですが、その当時はまだインターネットが一般的でない時代です。
当ページの公開を初めてから本当にたくさんの方々から情報を頂き、改めてインターネットの凄さを痛感しております。
これからも皆様のお力をお借りして当ページを少しでも良いものに作り上げていきたいと思っております。
ピアノ製造史を後世に出来るだけ多く残すため、ぜひご協力の程宜しくお願い申し上げます。 ピアノ調律師 杉本豊


トレードマーク(ピアノ内部のエンブレム丸マーク)の画像も皆様から広く募集中です
同業者様(調律師、買取り業者、ピアノ運送業者様)からのご寄稿もお待ちしております
ピアノ内部にあるトレードマークのご寄稿フォームは→こちら








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  日本国内ピアノ知名度ランキング 1個 (マイナー) 4個 (メジャー)  
星の数は当方独自の見解です。もっと有名でしょ?又はもっとマイナーでは?とお感じの方は →修正受付フォーム からお知らせ下さい



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ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング



  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

A.B. CHASE
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アレン・B・チェイス アメリカ
ALLEN. B. CHASE 創業1875年

アレン・B・チェイスは、1875年にA.B.チェイス・ピアノ・カンパニーを設立。
オハイオ州ノーウォークにあった同社は、最初の10年間はオルガンを製造。
その後、主にピアノの製造に移行していった。
1922年、ユナイテッド・ピアノ・コーポレーションがA.B.チェイス社を買収し、
その後、所有者が入れ替わるという長い道のりを歩むことになった。
A. FOSTER


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A.FOSTER エー・フォスター
ベルリンピアノ製造株式会社 ※当時の住所:浜松市(現:浜松市東区)原島町195番地

似た名称で”フォルスター/FORSTER”←Rが入ります(同じベルリンピアノ製造株式会社)や、
”フォスター/FOSTER”(大和楽器製造株式会社)というブランドもあるので要参照
A. GRAND ドイツ 創業1869年 詳細不明
A.M. MCPHAIL
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A.M. McPhail Piano Co. 1837年創業 アメリカ

A.M.マクファイル・ピアノ・カンパニーは、1837年にアンドリュー・マクファイルによって設立された。
1891年に法人化されたマクファイル・ピアノ社は、1860年にはボストンでピアノを生産していた。
1920年代に入ると、生産拠点はボストンの別の場所に移転した。
世界大恐慌の猛威にもかかわらず、マクファイルピアノは1900年代初頭まで個人所有を維持し、
1950年代まで生産を続けた。1930年代にマクフェイルの名前はコーラー・ブランバックに引き継がれ、
30年代のマクフェイルのグランドピアノにブランバックのシリアルNo.が付いているものがあるのは
そのためである。

A.M.マクファイルは、高度な職人技とそれに見合った価格で知られていましたが、
当時の他のメーカーに比べて比較的生産台数は少なかったようです。
A.M. McPhail Piano Co.は、アップライトとグランドの両方を製作し、
いくつかの主要なピアノのバリエーションとスタイルを製造しました。
1900年代初頭、マクフェイルピアノは憧れの高級ピアノブランドとなった。
A. STROBACH 詳細不明
AARHUS 詳細不明
ACACIA アカシア アカシアピアノ製作所
詳細不明
ACACIAN


下記は参考画像

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ACACIAN アカシアン (兵庫県伊丹市)
戎(エビス)ピアノ製作所(飯国一郎氏)、アカシアピアノ製作所(→後のマイシュナーピアノ製作所)
※漢字は「戒」×ではなく「戎」〇です
※ピアノブランド名はアカシアン(ACACIAN)だが、会社名はアカシア(ACASIA)製作所です。
発売元:アカシア楽器店

昭和18年頃の戦時中、アカシア木工は東洋航空機工業、東洋金属と社名を変え軍需工場として稼働。
そこでは鋳造航空機部品、砲弾類、落下タンク等を作っていたとの情報があります。
終戦後は(株)アカシアピアノ製作所を再興するも、軍需品頼りの体質からなかなか脱却できず、
当概工場で作られた「アカシアン(ACACIAN)」のブランドで製造されたのは昭和26年迄のようです。
後に、敷地の一部を使って太田一郎氏がマイシュナーピアノ製作所としてピアノ事業を継承しました。
MEISCHNERの項目も参照して下さい。
※左記トレードマークはアカシアンではなく、マイシュナー(MEISCHNER)のものです。

~別資料~
1965年頃まで、兵庫県伊丹市の北の外れに広大な敷地のピアノ工場がありました。
ACACIAN時代は出雲出身の飯国一族の経営。
会社が解散した後MEISCHNERと名前を変えて故・町田幸重氏が引き継ぎました。
しかし、2度も続けて重加算税を支払う羽目に陥り、存続できなくなったと伝えられています。
創業時期は太平洋戦争前だが詳しい時期は不明。

町田氏は、高知出身で、高等小学校卒業後、アカシアピアノ製作所に木工見習で入り
ピアノの設計や調律を習得。
独学で英語やドイツ語の専門書を読む大変な努力家だったようです。
その後、海軍に入り傷痍軍人として退役。
会社を辞めてからは、個人的に調律師として活躍。
全国ピアノ技術者協会会長。
後に社団法人日本ピアノ調律師協会設立に尽力し、その初代会長。
ACCORD

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ACCORD アコード ロシア製(旧ソ連製)
※スペルは「ACORD」でななく、「ACCORD」というように”C”が2個重なる表記が正しいです。

ベリョースカ、チャイコフスキー、エチュード、ウラジミール等のソ連RAZNO製ピアノに似たピアノです。
このピアノも上記ピアノ同様に突き板(表面に貼った化粧板)がよく剥がれてきます。
元々しっかり接着されていないことも原因ですが、日本の高音多湿環境に合わないためとも考えられます。
その他詳細不明。

トレードマーク内には”MADE IN USSR KALUGA”と入っています。
ちなみにこのカルーガとは、ロシア連邦南西部カルーガ州の州都です。モスクワの南西にある都市。
トレードマーク画像は、「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
ACKERMAN & LOWE 詳細不明
ACKERMAN, F.J. 詳細不明
ACOUSTGRAND 詳細不明
ACROSONIC アクロソニック アメリカ ボールドウィン社

ピアノ鉄骨部分には「BUILT BY BALDWIN」と書いてあります
→詳しくはBALDWINの項目へ
ADAM, F. 詳細不明
ADAM, G. → GERHARD ADAMの項目へ
ADAM GERHARD → GERHARD ADAMの項目へ
ADAM, M. 詳細不明
ADAM SCHAAF
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アダム・シャーフ 創業1873年 アメリカ(シカゴ)

創業者のアダム・シャーフは、1873年にシカゴの工場でピアノの製造を開始した。シャーフの工場は、6階建ての美しい建物で、同様に美しい楽器を製造していた。

1920年代初頭、アダムは3人の息子に会社を譲った。
ハリー(Harry Schaaf)、フレッド(Fred Schaaf)、ウォルター(Walter Schaaf)の3人である。
1920年代の終わり頃には、シャーフピアノの需要が高まり、兄弟は注文を受けるために新たな工場を建設。
シャーフの工場では、クラリトーン(Claritone)、オルフェウス(Orpheus)、シュターブ(Staab)などの
ピアノも生産していたが、これも事業拡大の理由の一つであった。
ADAMS 詳細不明
ADELSTEIN

※トレードマークはなし


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ADELSTEIN アデルスタイン
※読みは「アーデルスタイン」ではなく「アデルスタイン」が正しいようです

(有)日米楽器工業所(アトラスピアノ社の前身) 当時:浜松市神田町

日米楽器工業所は1955年頃に設立、その後1960年頃にアトラスピアノ製造株式会社に改組
頼金忠氏が当時大きく関わったとされています。
※平成の初め頃に倒産との情報有り

機種バリエーション:AD250、AD300等
ADLER
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アドラー ADLER
アメリカ(ケンタッキー州)ルイビル 創業1908年

アドラー・マニュファクチャリング・カンパニーは、1908年にピーター・アドラーによってルイビルに設立。
事業は家族経営で、アドラー氏の引退後は息子たちが会社を引き継いだ。
リードオルガンなども製造し、優れた楽器を作り続けた。
1928年、後の世界大恐慌を予見してか、アドラー・マニュファクチャリング・カンパニーは廃業した。
廃業前までの15年ほどの間に、年間約500台の楽器を生産したとされる。
ADOLF ERNST VOIGT ドイツ(ベルリン)
ピアノの蓋部分には「Konigi. Span Hoflieferant」と書いてあります。
※Hoflieferantはドイツ語で御用達という意味
その他、「DARTER & SONS Sole Agents CAPE TOWN」とも書いてありますが、詳細不明
ADOLPHGEYER ドイツ製 アドルフガイヤー 詳細不明
AEOLIAN



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エオリアン Aeolian Organ & Music Co. アメリカ(ニューヨーク州マンハッタン)

ウィリアム・B・トレメインによって1883年に創業 ※1887年という説もあり
初期はオルガンのみを製造していましたが1895年からはピアノ製作を開始し、
「プレーヤーピアノ」と呼ばれている自動演奏できるピアノ製品でも有名になりました。

エオリアン社の社名は、風によって鳴る楽器「エオリアン・ハープ」から由来して名付けられた。
ウィリアム・B・トレメインによって設立されたこの会社は、長い間自動演奏ピアノの市場を独占していた。
1895年にこの会社の名称は1897年にエドウィン・ヴォーティーが開発した空気式の
自動演奏ピアノ「ピアノラ」で知られるようになった。
しかし、エオリアン社を一気に大企業へ成長させたのは、その後に発売された
リプロデューシング・ピアノ「デュオ・アート/DUO ART」でした。これは1913年に同社が開発。
「デュオ・アート」は精巧な機構をもった楽器で、ロール紙に記録された演奏者による細かいニュアンスや
強弱をとても正確に読み取ることができたという。
この楽器の成功によって会社は高い地位を得て、ニューヨークにエオリアン・ホールを建設し、また、
チッカリングやメイソン・アンド・ハムリン、クナーベなど、数多くの有名なブランドを買収するに至った。
ところが、エオリアン社は極めて評価の高いブランドの楽器を生産していたにもかかわらず、その後に
陥った会社存続の危機には勝てなかった。エオリアン社は、不況に加えて非常に品質の劣る楽器を
生産し続けてしまったために財政危機に陥り、1983年にスタインウェイ社の元社長のピーターペレスによって
買収された。ペレスはこの会社の主要な財産であるチッカリングやメイソン・アンド・ハムリン、クナーベなどの
ブランドを売り込むために尽力を注ぐが、なんとか会社のイメージを回復させるまでところまでいったが、
その後も品質の劣る楽器の生産が続いたために、ついにこの有名なメーカーは消滅する時を迎えた。
そして1985年、エオリアン社は生産を中止しました。

<附録>
エオリアン 製造番号/製造年代 対照表(1903年~1930年) →★

<別解説>
エオリアン・アメリカン・ピアノの歴史
1900年代のピアノ業界で最も有名なブランドであるエオリアンの歴史は、
1860年代にコネチカット州で始まったと言われています。
ウィリアム・B・トレメインは1868年に兄弟でピアノ事業を始め、"トレメイン兄弟 "と呼ばれていました。
トレメイン兄弟は、1883年に発売された「オルギネット」と呼ばれる家庭用卓上オルガンを開発し、
市場に送り出した。
彼はボストンのオルガン会社を買収し、1888年にエオリアン・オルガン&ミュージック社を設立した。
その後、エオリアン社の成功の原動力となった自動演奏ピアノの前身である
ハイブリッドピアノオルガン「Aeriola」を発表。
1898年には、ウィリアムの息子であるハリー・B・トレメインが事業を引き継ぎ、
社名をエオリアン・カンパニーに変更し、マサチューセッツ州ウースターに移り、
会社を次のレベルに引き上げるための資本投資を募っていた。
楽器の自動演奏装置の特許を取得していたトレメイン社は、
雑誌に4ページのカラー広告を掲載して「ピアノラ」を発表。
1903年までに、ジョージ・ステック社、ウェーバー・ピアノ社など、
いくつかのオルガン・ピアノ会社を買収していた。
これを機に、ニューヨーク、ガーウッド、メリデンにピアノプレーヤー工場を、
ドイツのゴータとイギリスのヘイズにステック社とウェーバー社のピアノ工場を設立し、
業界の支配力を高めていった。
1932年には、エオリアンに投資された資本金が1,500万ドルを超え、
すべてのピアノ会社の頂点に立っていた。
同年、エオリアンはアメリカン・ピアノ・カンパニーと合併し、
エオリアン・アメリカン・コーポレーションとなった。
エオリアン・アメリカン・ピアノ・カンパニーは、アメリカで最大のピアノおよび
プレーヤー・ピアノのメーカーとしての
地位をさらに高め、現在でも多くのピアノの名前を管理している。
1940年代にアメリカで第4位のピアノメーカーだったエオリアン・コーポレーションは、
1990年代を通じて多くのピアノブランドをコントロールしていました。
この時期にエオリアンが生産していた名前のリストは膨大で、以下のようなものがあります。
Duo Art / Gabler / Stuyvesant / Acoustigrande / Ellsworth / Haines Bros. / Pianola
Ampicao / Emerson / Holmes & Sons / George Steck Co. / Knabe / Armstrong
J.C. Fischer / Entertainer / Stratford / Brewste / Foster Armstrong / Laffargue / Stroud
Chickering / Marshall-Wendell / Normandie / Vose / A.B. Chase / Mason & Hamlin
Lindeman / Weber / Franklin / Primatone / Washburn / Wheelock
AERTS 詳細不明
AEUTZER AEUTZER アウツァー 竜生楽器研究所(龍生楽器研究所)

AIZENAHA

AIZENAHA



下は中国製造になってから
トレードマークがありません

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アイゼナハ AIZENAHA

昭和53年に創立した大阪の日本ピアノ株式会社で発売していたブランドです。読み:にっぽん
NIPPON PIANO CO.,LTD
製造元:東洋ピアノ製造株式会社

日本ピアノという名称で紛らわしいですが、あの日本楽器(ヤマハ)とは関係ないです。
(※AIZENAHAの商標は東洋ピアノ製造所有ブランドとなっております)下記参照

創業当初の高級品ピアノにはエゾ松製の響板や、ドイツのレンナーハンマーを使用していました。
全盛期当時、アップライト10機種と、グランド2機種を製造。
機種バリエーション:U-301、U-901等

<附録>
アイゼナハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1990年~1999年) →★

ちなみにアイゼナハとは、ドイツ連邦共和国のテューリンゲン州にある都市名です。
この地はあの有名な音楽家「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」の出生地としても知られております。
(ドイツ語: Eisenach、読みはアイゼナッハとも解されます)

※上のトレードマークは創業時からのもので、真ん中のトレードマークは東洋ピアノになってからのもの。
下は中国製造になってからのピアノで、トレードマークは消失しています。

現在、ネット上でよく見かけるAIZENAHA(アイゼナハ)は東洋ピアノ管理下の中国製造です。
NS-230Cなどがこれになります。まだ私自身、調律したことがないので音色や品質・性能は不明です。
今後調律する機会がありましたらここに中国アイゼナハの解説をアップ致します。

アイゼナハのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AJELLO 詳細不明
ALBART
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アルバート トニカ楽器(昭和39年創業) 浜松 詳細不明
株式会社トニカ楽器の当時の住所:浜松市浅田町1666番地

※トニカ楽器の社内資料によると、ALBART(アルバート)は「トニカ楽器製」の台湾向けピアノと、
トニカ楽器が販売を扱った「台湾製ピアノ」の両方の可能性があります。
下記アルバートと同じブランドかは不明。 ※こちらのアルバートのスペルは「ALBART」です
ALBERT
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アルバート 東海楽器工業有限公司 台湾(中国)

工場は台中市北屯路。ピアノメーカーとしては極めて新しい社歴で、その製作技法は
西ドイツ最大のメーカーであるシンメル社から引き継いだと言われている。

※トニカ楽器の社内資料によると、ALBART(アルバート)は「トニカ楽器製」の台湾向けピアノと、
トニカ楽器が販売を扱った「台湾製ピアノ」の両方の可能性があります。
上記アルバートと同じブランドかは不明。 ※こちらのアルバートのスペルは「ALBERT」です
ALBERT FAHR 詳細不明
ALBERT HALM アルベルト・ハルム オランダ 詳細不明
ALBERT & CO. 詳細不明
ALBION 詳細不明
ALBRECHT & Co. ALBRECHT & Co.
1876年 フィラデルフィア(アメリカ) 詳細不明
ALDEN 詳細不明
ALDRICH 詳細不明
ALEX STEINBACH 詳細不明
ALEXANDER


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アレクサンダー ※読みは「アレキサンダー」ではないようです

株式会社 福山ピアノ社(東京)
大成ピアノ製造株式会社(浜松)
村瀬克己氏
アトラスピアノ製造株式会社
東洋ピアノ製造株式会社

この下の「ALEXANDER HERRMANN」と同じブランドかもしれません。
ALEXANDER アレクサンダー ロシア(ソ連) 詳細不明
ALEXANDER CUSTOM アレクサンダー・カスタム 株式会社 福山ピアノ社
ALEXANDER HERRMANN




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ALEXANDER HERRMANN アレククンダー・ヘルマン
福山ピアノ社(フクヤマピアノ)

太平洋戦争後まだ間もない昭和20年代に新品の生産が間に合わなかったころ、
主として中古ピアノ(国産)を改装して売り出したのがはじまり。

鍵盤押さえ部分などに「MATERIAL MADE IN GERMANY」と書き添えがしてあるものが多い。
アクション部分には「Using all Materials from Germany」というプレートが貼ってあります →★
アクション部品の一部にドイツ製のものもあるという意味であろう。
ハンマーはレンナー(ドイツ製)で、まくり(ピアノの蓋部分)はビックリするほど重かったです。
ピアノまくり(蓋部分)にある銘柄ブランド名部分の写真はこちら →★

ドイツにはアレクサンダー・ヘルマンという本家本元のピアノがあります。
下記のドイツの 「ALEXANDER HERRMANN」を参照して下さい。
ALEXANDER HERRMANN



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ALEXANDER HERRMANN アレクサンダー・ハーマン (アレクサンダー・ヘルマン)
ドイツ(旧東ドイツ製)

読みづらいですが、左の写真のトレードマーク内に入っている文字は、
ROSENSTADT SANGERHAUSEN(ローゼンシュタット・ザンガーハウゼン)と入っています

ピアノまくり部分(ピアノ蓋)のブランド銘柄マークの写真 →★
こちらはピアノ全体写真です →★ ※カタログによりますと”MODEL110 DELUXE”という型番のようです
トレードマーク画像とその他すべての写真は、「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
ご寄稿者様によりますと、このピアノは玉川高島屋取り扱いで、浜松ピアノセンターより1978年頃に
購入されたとの情報を頂きました。画像のご寄稿誠にありがとうございます!

<参考>
(株)浜松ピアノセンター(略称:HPC)/日本ベーゼンドルファーは世界3大ピアノメーカーの一つと言われる
ベーゼンドルファー(オーストリア)の日本総代理店でした。
HPCはピアノ輸入商社として1962年(?)、故・吉沢孝二氏が創業し、ベーゼンドルファー社以外にも、
ドイツなど数社のピアノ輸入総代理店になっていました。
2007年11月27日、ユーロ高などで販売不振となり負債額約3億円を抱え自己破産を申請しました。
吉沢氏が集めた名器も、債務整理で売却対象になったそうです。
ALEXANDER STANDARD
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アレクサンダー・スタンダード
株式会社 福山ピアノ社、東日本ピアノ製造株式会社

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック
ALFRED KNIGHT ALFRED KNIGHT LTD. アルフレッド・ナイト イギリス
→詳細な内容はKnightへ
ALFRED ROHR, LEIPZIG 詳細不明
ALLGÄUER 詳細不明
 ALLISON
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Allison アリソン イギリス(ロンドン) 創業1837年

1837年にイギリスで創業したアリソン・ピアノ・カンパニーは、当時、最も評判が高く、
有名なピアノ会社のひとつでした。
イギリスのブランドであるにもかかわらず、アリソンのピアノはそのユニークな音色とスタイルで
イングランドを越えて認知されていた。
アリソンのピアノ工場は、ロンドンのニューボンドストリート50番地にあった。
スクエアグランドピアノ、アップライトピアノ、グランドピアノなど、当時最も需要の多かったピアノを製造。
特に、スクエアピアノがまだ主流であった当時、アリソンピアノブランドは
市場でもトップクラスの品質を誇っていた。

アリソン社は、イギリスのチャペル社に買収されるまで、1世紀以上にわたって大成功を収めた。
チャペル社は、1959年頃までアリソンのブランド名を作り続けた。
ALLMENDIGER 詳細不明
ALOIS KERN 詳細不明

ALTENBURG

ALTENBURUG

ALTENBURUG

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オルテンバーグ/(アルテンバーグ)  ALTENBURG ※元来はドイツ

韓国サミック社
現在は中国パールリバー社?

このピアノは珍しくトレードマーク付いていません(他にもトレードマークのないピアノもあります)
ピアノ表面(鍵盤近くの鍵盤押さえ部分)にDesigned by STEINBERG, Germanyという
シールが貼ってあってあり、外装は艶消しでモールディングが付いているなど、
一見ドイツ製のように感じますが、韓国のサミック社製造です。現在は中国製造。
写真下のように、中音部ピアノ線の後ろ側の鉄骨部分にはMade in Germanyと入っています。
音色はとても広がりのある音量豊富で豊な音ですが、やや分厚い感じの印象。
シーズニングがあまりなされておらず、音の狂いが落ち着くまで何年もかかった感じです。

<追記情報を頂きました>
アメリカのニュージャージー州にあるエリザベスという町にAltenburgというピアノ屋さん
(ALTENBURG PIANO HOUSE)という店があり、元はドイツで、その後は移民先のニューヨーク、
引っ越し先のニュージャージーでピアノを作っていたそうです。
ネットの情報によると、既に自社での製作は止めており、Otto Altenburgの名前とロゴは
韓国のサミック社が引き継ぎ、現在は中国の会社が作っているようです。
エリザベスでの販売業は今は六代目の子孫が引き継いでいます。
今回この新情報を頂いたニュージャージー州にお住まいの方によりますと、
「オルテンバーグ」に近い発音とのことです。この度は情報を頂きまして誠にありがとうございます!
※当初このピアノを「アルテンブルグ」と発音表記しておりましたがご指摘により訂正させて頂きました。

オルテンバーグのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ALTENBURG, FREDERICK 詳細不明
ALTENBURG, OTTO 詳細不明

AMABILE


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アマービレ 東洋ピアノ製造(浜松) 詳細不明

トレードマークは普通の東洋ピアノとは違い、DESIGNED BY TOYO PIANOとなっています。中国製造?
一般的な東洋ピアノのトレードマークはこちら →★(似ていますが少し違います)
※アマービレとは音楽用語で「やさしく、愛らしく」という意味

アマービレのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★

アマービレのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
AMADEUS? AMADEUS? アマデウス 中国広州 詳細不明 
AMERICAN PIANOS 詳細不明
AMERICAN MUSIC 詳細不明
AMHERST 詳細不明
AMMER 詳細不明
AMPHION 詳細不明
AMPICO 詳細不明
AMYL 詳細不明
ANDERSON 詳細不明
ANDERSON BROS. Estey Piano Corporation
→詳しくは「Estey」の項目へ
ANDERSON SONS 詳細不明
ANDRÉ 詳細不明
ANDREAS 詳細不明
ANDREYS 詳細不明
ANDRUS & CO.
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Andrus & Co.

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
ANELLI 詳細不明
ANGEL
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エンジェル

製造元:浜松楽器製造有限会社(住所:静岡県浜松市中野町670番地)
設立:1970年(昭和45年)→廃業:1989年(平成元年)

創業者の新井正男氏は、1970年に資本金200万円で浜松楽器製造有限会社を設立。
翌年の1971年(昭和46年)には従業員が13名の規模になりました。
最初はWILSON(ウィルソン)というピアノを製造→詳しくはWILSONの項目参照
トレードマークはチューニングチップの星形内部に、縦にした音叉1本を入れたデザインです。
※余談ですが、チューニングチップの星形をモチーフにしたトレードマークは他メーカーのピアノにもあり、
例えば、CARL SEILER、CASTLE、GUILBERT、LESTER、WAGNERなどもそうです。

機種バリエーション:A-1、A-3など

※尚、ANGELは 「東京ピアノ工業株式会社」と解説した資料もありますが、詳細不明です
ANGELUS
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アンジェラス

アンジェラスとは、ピアノブランドではないようですが、グランドピアノ・スクエアピアノ・アップライトピアノ
キャビネットピアノなど、いくつかの形のピアノに採用されていた再生式プレーヤー機構の名称である。
再現機構を搭載することで、ピアノが自動演奏できるようになり、女性がピアノを弾くことが求められていた
この時代には人気のある機能だった。

アンジェラスは、1800年代後半のプレミア・グランド・ピアノ社を皮切りに、
世界大恐慌までの間、いくつかの製造会社によって作られた。
アンジェラスは、Hallet and Davis社でも製造され、後にWilcox and White社が普及させた
どんなピアノにも簡単に適用できるユニークなハンドメイドのプレーヤー・アクションを備えた複製ピアノ。
ウィルコックス&ホワイト社は、コネチカット州メリデンにあった工場で、
年間約500台のアンジェラスピアノを生産していた。
アンジェラスという名前は、パリのオークションで高値で落札されてアメリカで話題になった
フランス絵画からヒントを得た、巧妙なマーケティングだった。
アンジェラスの商標がプレーヤーピアノに初めて登場したのは1897年のことである。
ANGERHÖFER 詳細不明
ANNELL
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アネール イタリア 詳細不明
ANTON PAPPENBERGER →PAPPENBERGERの項目へ
ANTON WALTER
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アントン・ワルター オーストリア(ウィーン)
製作者:ANTON WALTER アントン・ワルター/(アントン・ウォルター)

1780年頃? 5オクターブのスパンを持つチェンバロの形のピアノフォルテ
先日発見されたピアノでは、本体と脚がチェリー材を使用、響板は現在でも一般的なスプルース材とのこと。

<以下、WIKIPEDIAからの引用>
父は大工でオルガン奏者でもある。母方はイタリア系の出身。
ウィーンに移住する前の経歴はよく知られていない。
1770年代半ばにはウィーンに移住し、鍵盤楽器製作者として活動し始めたと思われる。
最初にワルターが実績を認められたのは、楽器修復者としてであった。
1781年にエステルハージ宮殿の鍵盤楽器修復を依頼され、12日間滞在し、
24グルデンの報酬を得た記録が残っている。
ウィーンにおける最初期の活動でワルターは正式に同業組合(ギルド)の会員として
認められなかったため、初期の鍵盤楽器にはワルター名義の銘板がついていない。
ギルド入りを許可されなかった理由は、この時期、ワルターは急進的な反体制運動
(ジャコバイト運動)の賛同者とみられたためウィーンでの自由な活動を制限されたからである。
1790年代初めにマリア・テレジアや息子のヨーゼフ2世の計らいにより、ギルド加入が認められ、
1790年末に「宮廷付きオルガンその他楽器製造業者」の称号を得た。
この後、製作された楽器には"ANTON WALTER in WIEN"の銘板が入ることになる。
1796年発行の『ウィーン・プラハ音楽芸術年鑑』に当時のウィーンにおけるピアノ製作者の
記事が記載されている。それによると、当時随一の製作者はアントン・ワルターで
二番手と目されるのがシャンツ、それに続くのがナネッテ・シュトライヒャーと評価されている。
1800年には義理の息子ヨーゼフ・シェフストス(JOSEF SCHÖFSTOSS)が経営に参画し、
"ANTON WALTER & SOHN"の商標を使用するようになる。

ワルターのピアノ(フォルテピアノ)はモーツァルトやベートーヴェンなどの一流の音楽家に
高く評価され、ワルター自身も19世紀初頭には時代の趨勢を担う先進的な製造業者としての名声を得る。
にもかかわらず、ワルターのピアノ事業は19世紀後半におけるピアノ製造技術の革新や
より大型の音量の大きな楽器を求める時代の流行の変化に取り残され、次第に衰退をたどることとなる。

ワルターの楽器
ワルターが皇帝ヨーゼフ2世に宛てた依頼書(正規の楽器製造者としての許可を得るための嘆願書)
によると、1770年代から1790年にかけて、グランド型のピアノ、スクエア・ピアノ、オルガン等の鍵盤楽器を
ワルターは300以上も製作している。
今世紀まで現存しているのはほとんどがフォルテピアノかスクエア・ピアノである。
楽器博物館蔵、ウィーン
ワルターの現存しているピアノのなかで、特に有名なものがモーツァルトが購入した1台であるが、
このピアノには製造業者としてのワルターの銘板がなく、ワルターがウィーンに拠点を置いてまもなく、
まだ正式な楽器製造業者としての資格がないまま製造されたワルターの初期のピアノと推察されている。
この楽器はモーツァルトの死後、未亡人のコンスタンツェから息子のカール・トーマスに相続されたが、
現在はザルツブルクのモーツァルテウム財団の所有となっており、モーツァルトの生家
(記念博物館になっている)に展示されている。
また、フランツ・シューベルトが友人の画家リーダー(Rieder)に下宿していた頃、
友人の所有するスクエア・ピアノを借用していた。
この楽器はワルターの1800年以降に作られたもので、リーダーはシューベルトの死後、
このピアノを売りに出した。一時期、ベーゼンドルファー(Rudwig Bösen-dorfer)が所有していたが、
現在はウィーンの芸術歴史博物館に所在がある。
ワルターのフォルテピアノは、フィリップ・ベルト、ロドニー・レジエ、ポール・マクナルティ、
クリストファー・クラーク他の、現代のフォルテピアノ製作者の楽器のモデルに頻繁に用いられている。
AOI STEIN
(AOI)

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アオイ スタイン/(アオイ) 島田楽器株式会社(静岡県島田市)

製造元:島田楽器株式会社(静岡県島田市)
販売元:三和精機株式会社(静岡県島田市)

非常に珍しいピアノです。製造台数もかなり少ないと想像されます。
トレードマークの下部分には「SHIZUOKA」と入っていますね。
AOI STEINのまくり(鍵盤蓋)にあるブランド銘柄部分の写真 →★
これらの写真はすべて「PIANO YOSHIKAWA様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
ご寄稿頂いた「PIANO YOSHIKAWA様」によりますと、ピアノはしっかり作られており、ペダルは2本、
巻線下のフレーム部分には「Designd by SANWA」という文字が入っているそうです。

機種バリエーション:DU-25等

このピアノに関する詳細な情報は残念ながら不明ですが、
AOI STEINピアノの調整・検査票によりますと、「謹製 三和精機株式会社」と入っております →★
こちらの検査票の画像も「PIANO YOSHIKAWA様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

APOLLO

APOLLO PIANO

APOLLO



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APOLLO アポロ (アポロピアノ)

正式会社名称:東洋ピアノ製造株式会社(旧会社名称:有限会社 東洋楽器製作所)
(TOYO PIANO MFG.Co.,LTD.)
〒430-0913 静岡県浜松市中区船越町34番25号
〒438-0202 静岡県磐田市高木1818番地

音色は明るくきらびやかな印象のピアノです。
アポロピアノの紹介で特筆すべき事項は、弱音ペダルに採用されている、
M.O.T.方式(Muffler One Touchの略)のペダルです。
これはワンタッチで弱音に出来るペダルシステムでアポロが1978年に特許を取得。
通常、真ん中のペダルは弱音にするとペダルが左下へ下がった状態になりますが、
M.O.T.ペダルシステムのピアノはペダルが下がったままになりません。
個人的にこれのどこがすごいの?とは思います笑。(ごめんなさいww)
私の調律養成校在学時の今は亡き恩師(アポロの調律師)が、このM.O.T.をしきりに自慢していました(笑)
ただ、このM.O.T.のメカ(我々はこれをガチャガチャと呼びます)がまたよく壊れるんです。。→★

トレードマークは2本の音叉に囲まれた3個のハンマーヘッドを使ったデザインです。
尚、直近のピアノでは「TOYO」と入ったエンブレムに変更になっております。

<概要沿革>
石川隆己(いしかわ たかみ)前社長自らの設計、指導、製作により、
昭和40年ごろまでは1台1台に毛筆のサインをして世に送り出していたようです。→★
350号などの初期のものは技術者が賞賛した逸品でもある。
石川隆己氏(明治44年生)は山葉直吉氏(山葉寅楠の姪と結婚した養子)、河合小市氏らに
教えをうけ、日本楽器から河合を経て昭和9年独立、三葉楽器製作所を作りました。
アポロピアノを製造している浜松の東洋ピアノ製造株式会社の発祥の源は、
1934年にさかのぼり、初代社長であった石川隆己氏が日本楽器および河合楽器で
約十年間ピアノの技術を修行した末に、天竜川の東岸の竜洋町で三葉楽器という
小さい工場を作ったことに始まります。

<歴史>
初代社長の石川隆己氏が、日本楽器および河合楽器で約10年間ピアノの製造技術を修行した末、
天竜川の東岸の竜洋町で三葉楽器という小さな工場を作ったことにはじまります。
別の記録だと、「1933年(昭和8年)に浜松市で、技術者の石川隆巳と、
財務担当の大谷藤四郎が「三葉楽器製作所」としてピアノ作りを始めた」ともある。
このピアノ工場は終戦間際まで稼動していたと伝えられるが、何しろ戦時中であったため
どのような楽器が作られていたかはさだかではない。
東洋ピアノの設立は1948年6月10日と記録されていますが、それ以前の1947年1月に
石川社長は中島飛行機の教官であった大谷藤四郎氏を副社長として有限会社の
東洋楽器製作所を作っている。
終戦直後の混沌とした世相の中で、楽器を作って殺伐とした人の心を和らげ、
少しでも社会に貢献したいというのが2人の目的であったといいます。
最初の従業員は30人くらいで、焼けあとを走り回って材料を掻き集め、
足らないところは戦時中の経験を活かし、いわゆる代用品で補い、低音部の弦は
電線の銅線を巻き付けて、とにかくピアノらしいものを作り上げました。
いづれにしても、戦後最初のピアノを他社に先駆けて作り上げる功績を果たしました。
東洋ピアノ製造株式会社を発足させてからの石川社長の活躍はすさまじく、
その後の30年を懸命に働き続け、この会社をヤマハ、カワイに次ぐ生産台数を誇る
ピアノ製造会社に成長させました。
石川社長は非常に厳格で恐ろしい親方であったといいます。気に入らないアクションが
出来たときは乾燥炉に放り込み燃やしてしまったといいます。
鍵盤内部(KeyNo.1)に書かれた石川隆己氏の直筆サイン(一九七九年十月検と書いてあるようです) →★

次の社長に就任した長坂晁弘氏は、石川社長時代ながらく経理部長、営業本部長などを
歴任して会社に貢献してきた人で、初代社長とはうってかわって温厚な方であったようです。
「私が引き継いだときにはこの会社は出来上がっていました。私は音楽も好きではないし
ピアノにも精通していません」という謙虚な言葉の裏には、堅実で誠実な人格があります。
この社長のもとで引き続きアポロピアノは着実な発展を遂げたのは言うまでもありません。

アポロのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  アポロピアノの保証書 →★
アポロの文部省教育用品審査合格シール →★  アポロアクションレールのシール →★
アポロ純正キーカバー →★  アポロのグランドピアノ響板デカール →★

アポロピアノもワグナーピアノも東洋ピアノ製造なのでTPKと入っています(2つを並べた写真) →★

<機種バリエーション/モデル>
■グランドピアノ
旧式
A-30(長さ152cm)、A-35(長さ206cm)、A-38(長さ231cm)
現行
AX-1(長さ151cm)、AX-2(長さ151cm)、AX-1w(長さ151cm)、AX-2w(長さ151cm)
■アップライトピアノ
旧式
SRシリーズ (黒塗 SR-5、SR-6、SR-7、SR-8)、(生地塗 SR-250、SR-260、SR-552、SR-580)
SSSシリーズ SR-65、SR-85、SR-565 (それぞれに黒塗、生地塗、アンチック塗あり)、A.350など
現行
A120PIERRE、A120LE、A126、A122、A122DX、A126B Imperial、A126CS Imperial、
A133W Imperial、A133M Imperial、A120 Imperial

<附録>
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1948年~1988年) →★
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1966年~1999年) →★
アポロピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1999年~2012年) →★

アポロのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
APOLLO
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アポロ 創業1901年 アメリカ(ミシガン州のグランドヘイブン・イリノイ州デカルブ)

アポロピアノは、メルビル・クラーク・ピアノ・カンパニーというピアノメーカーの製品として知られている。
メルビル・クラーク・ピアノ・カンパニーは、1901年にミシガン州のグランドヘイブンとイリノイ州の
デカルブにある工場でアポロ・プレーヤー・ピアノの製造を開始した。

会社名の由来となったメルビル・クラークは、オルガンメーカーとして成功した後、
ピアノの世界に転身した人物である。クラークは発明家、クリエイターであり、
その発明品は数多くの特許を持ち、その多くがアポロピアノに採用されている。
1920年代初頭、会社はThe Rudolph Wurlitzer Companyに売却され、
1930年代まで様々なApolloモデルの生産を続けた。
世界大恐慌の影響でピアノの売り上げは減少し、第二次世界大戦の頃には
Wurlitzer社はApolloシリーズの製造を中止していた。

アポロは、Apollo、Art-Apollo、Apollo-Phone、The Apollo Reproducing Pianoという名前で
ピアノを製造しており、先駆的なプレーヤーピアノやレコーディングピアノでよく知られている。
これらのピアノは、極めて精巧に作られた高級プレーヤーピアノとされている。
88鍵すべてを弾くことができ、アップライトピアノとグランドピアノの両方が製造され、
カスタムメイドのピアノロールを演奏することができる。
また、アポロフォンには、音楽を録音・再生できる蓄音機も搭載されていた。
APOLLO & YAKO

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アポロ&ヤコ (雅歌)
雅歌楽器企業股份有限公司 台湾(中国)
販売:雅歌楽器企業(台湾)

日本の東洋ピアノ製造株式会社との技術提携会社である。
工場は高雄市自強二路にあって従業員は最盛期で330人ほど。

機種:A360など
APOLLO HELLO KITTY
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アポロ・ハロー・キティ 東洋ピアノ製造株式会社

サンリオキャラクターであるキティちゃんとコラボした女の子向けのかわいいデザインピアノ。
ピアノ前パネル、又は拍子木、更には専用イスに、ハローキティのメダルプレートが施されている。
APORO アトラスピアノ株式会社
詳細不明
ARCADE 詳細不明
ARCHER 詳細不明
ARION PIANOFABRIK
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ARION アリオン 創業1866年頃
Arion Pianoforte Company

1866年頃、ジョージ・マナーがニューヨークでアリオンピアノフォルテ社を設立した。
アリオンという言葉は、ジョージが特許を取得したピアノフォルテの革新的な技術を意味している。
アリオンはジョージ・マナーが特許を取得したピアノフォルテの革新的な技術の名称で、
ジョージ・マナーはこの技術を会社名に採用した。
1869年、シンプソン・アンド・モデル・ピアノ社のジョン・シンプソンがアリオンピアノフォルテ社を引き継ぎ、
1885年にエスティ・ピアノ社が買収するまで、この名前でピアノを製造していた。
エスティ社は1920年までアリオンピアノを製造した。
その後、J.P.ヘイルをはじめとする多くのメーカーが「アリオン」をブランド名として使用した。
世界大恐慌の前のある時期に、アリオンの名前は廃止された。

グランドピアノやアップライトピアノはよく知られているが、ピアノフォルテはあまり知られていない楽器である。
ピアノフォルテとは、文字通り「弱音と強音のあるチェンバロ」あるいは「柔らかいピアノ」を意味し、
チェンバロから現在のピアノへの飛躍のきっかけとなった初期のピアノである。
アリオンのピアノフォルテは、誰が見ても優れた業務用ピアノだった。
富裕層向けに販売されており、音だけでなく見た目も美しい。
螺鈿(らでん)などの貴重な素材を使ったものも多い。
ARIRANG

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ARIRANG 読み:アリラン? 韓国(ソウル)
SAUJINの上位機種? ピアノのまくり(蓋部分)にはSAUJINの文字
その他、詳細不明

トレードマークの文字には「ARIRANG SEOUL KOREA」と入っています。
このトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
ARMBACH
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アームバッハ ソ連(ロシア) 詳細不明
ARMSTRONG
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アームストロング 創業1884年
アメリカ(ニューヨーク州 イースト・ロチェスター/East Rochester)

1884年、W.B.アームストロングによってニューヨーク州イースト・ロチェスターに設立。
アームストロング・ピアノ・カンパニーは、グランドピアノ、アップライト、さらにはコイン式ピアノを製造。
1900年代初頭、アームストロング社はフォスター・ピアノ・カンパニーと合併し、
フォスター・アームストロング社となった。

1926年、アームストロング社はオフィスを南のロチェスターからニューヨークに移した。
アームストロング社は大恐慌を乗り越え、1959年にはエオリアン・アメリカン・コーポレーションに買収。
アームストロング社の名を冠したピアノは、1982年にブランドを廃止するまで、ほぼ1世紀にわたって生産された。

"Sound in body and musical in soul "は、アームストロング・ピアノ・カンパニーのモットーであり、
まさにそれにふさわしいものでした。
アームストロングピアノは、アメリカの音楽界において、高品質で洗練された楽器として知られていました。
美しい音色を持つアームストロングピアノは、ニューヨーク州ロチェスター市の公立学校で唯一使用されていた。
信頼性が高く、見た目にも美しいアームストロングピアノは、1900年代に最も耐久性のあるピアノのひとつとして
その地位を確立していました。
ARMY & NAVY 詳細不明
ARNOLD 詳細不明
ARTFIELD 詳細不明
ARTMANN 詳細不明
ASAGA



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ASAGA アサガ
アサガピアノ調律所、浅賀ピアノ商会 創業1941年

製造元:アサガピアノ調律所(当時の住所:東京都文京区駒込動坂町221)
発売元:浅賀ピアノ商会(当時の住所:同上)/アサガピアノ調律所
※駒込動坂町は現在の千駄木四・五丁目、本駒込三・四丁目付近です

トレードマークにはASAGA(浅賀)という文字が入っています。
※ZAUBER(ツァーベル)とまったく同じトレードマークです。

創業者である浅賀伝次郎氏は1925年4月に16歳でピオバ楽器に入社、ピオバ楽器の野口喜象氏から
ピアノ製造技術を学び、1941年に32歳で独立しアサガピアノ調律所を開業。
ここで自社ブランドであるアサガピアノを完成させ、1955年には「アサガ音楽教室」を開設もしました。
同社が発売したZAUBER(ツァーベル)はスワン楽器株式会社に製造を依頼して作らせたものです。
木梨ピアノ調律所を開設した木梨信雄氏はアサガピアノ調律所出身。
ASAHI



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株式会社アサヒピアノ(朝日ピアノ)が海外向けに出しているブランドとのこと

中国製造
ASHENBACK 詳細不明
ASKOLIN 詳細不明
ASTER ? ASTER? 韓国(英昌) 詳細不明
ASTIN WEIGHT


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ASTIN-WEIGHT アスティン・ウェイト
創業1959年 アメリカ(ソルトレイクシティー)
住所:120 West 3300 South, Salt Lake City, Utah ♯84115 UNITED STATES OF AMERICA

このピアノ会社は標準化されたピアノの設計を取り入れず、ユニークな手法を取り入れて製造しているのが特徴。
独特な外装がそれを物語っています。 

1959年にエドウィン・アスティンとドン・ウェイトがソルトレークシティーに
アスティン・ウェイト社を設立し、1978年にレイ・アスティンが社長に就任。
アスティン・ウェイト社はグランド、アップライトともに限られた台数を製造し、ユニークな点としては
ストラングバックの設計が挙げられる(ストラングバッとは、鍵盤とアクション以外のピアノ本体のこと)
一般的なピアノの場合、響板はピン板の高さまでしかないが、このメーカーは音量と豊かな音色を得るために、
響板をケース全体へ広くしたアップライトピアノを製作。
その結果、普通のアップライトよりも高さが約25cm低いにもかかわらず、大きな面積の響板を確保に成功。
ただ、この斬新な設計は独特な音色をもたらしたと言われているが、設計上の都合で駒を高くしたことにより、
ミュージックワイヤーのエネルギーが余計に吸収され、音がひずむと指摘する批評家もいる。
これはピアノの音質に大きく関わるのは響板の大きさではなく、弦のスピーキングレングス(有効弦長)の方が、
重要ということが広く知られているからだろう。
さらにこのピアノは適切な奥行きを得るためなんと背面の支柱を省いている。
その代わり、弦の張力に耐えられるように鉄の全周一体型フレームを採用している。
このタイプの構造はすでにヨーロッパで50年以上前から採用されてきたものの、技術者の中には
背面の支柱をなくすことは、調律の安定性に欠けるという者もいる。

アスティン・ウェイト社は176cmのグランドピアノも限定的に製造しており、
こちらはアップライトよりもさらに急進的な設計で、一般的なグランドピアノとは違いって、
長辺を持たず、なんとほぼ左右対称の形をしている。
そのため低音部の駒を響板の奥に配置でき、弦長が格段に延びて230cmクラスのピアノに近づき、
また響板の面積も広くなっている。そのためピアノは非常に奇妙な形を呈しており、
蓋のヒンジは低音部ではなく、高音部側で留められている。

アスティン・ウェイト(Astin-Weight)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1965年~2000年) →★
ASTOR 詳細不明
ASTORIA


下記は参考画像

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ASTORIA アストリア

タイガー楽器設立の前に、山葉良雄氏の(有)山葉商会という販売店が、
浜松の小さな工場の共立楽器工芸社(浜松)に発注して作ったピアノと言われています。
※「共立楽器製作所」となっている別資料もあり(要確認)

トレードマーク画像は”KUHLMANN”とまったく同じなので参考画像として掲載しています。
なぜ同じトレードマークなのかの理由は不明です。
ちなみにワインバーガーという韓国製のピアノのトレードマークにもよく似ています。
※トレードマークを並べて比べた画像 →★   尚、ドイツの国章にもそっくりです →★
ATLANTIC

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アトランティック 株式会社西川楽器製作所

株式会社 西川楽器製作所(横浜市神奈川青木町) 
※(西川楽器は日本楽器に合併吸収されまでの1884年~1921年まで稼働)
※(西川ピアノ時代のピアノ製造期間は1916年~1921年までとの記録がある)

ATLANTICピアノの外観写真 →★

左記トレードマークと外観のお写真は、「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
ご寄稿者様によりますとこのピアノは80歳を超えるお祖母様が子どもの頃からあったピアノだそうです。
この度は大変貴重なお写真をご寄稿頂きまして誠にありがとうございました!

ATLAS

ATLAS PIANO

ATLAS

ATLAS

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アトラス ピアノ  ATLAS PIANO

1954年創業。正式会社名:アトラスピアノ製造会社
当時の会社住所:浜松市神田町1400番地

”アトラス” とは、”(画像)ギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神” が由来とされています。
アトラスはピアノメーカーとしては新しい方ですが、その後の発展は著しく、
近代的な生産設備、生産数においてはヤマハやカワイに次ぐものでした。
ただ、そう言われるほど私はこのピアノ自体には出会いませんが。。
性能、音色については総合的にバランスのとれた感じの印象です。
当初アトラスのピアノ工場は、十数畳ほどの小さな場所でした。
頼金忠氏が無一文から出発して、その後わずか20年で
資本金が3億5千万円(最盛期)にも及ぶ会社に築き上げました。
ですが、1980年代に入るとピアノの需要が落ち込み、1986年に事実上の倒産に至ります。
これも時代の流れですね。

<歴史>
アトラスピアノ製造会社は、1955年発足というピアノ製造会社にしては
かなり新しい会社になります。ですが、発足後の発展はめざましく、
近代的な設備の導入をはじめ、ヤマハ・カワイに次ぐメーカーに発展しました。
最盛期3億5千万にもおよぶこの会社の最初は、とても小さな工場からスタートしました。

その人物とは社長の頼金忠氏でした。
頼金正と解説したHPや資料もありますが、正しい頼金氏のお名前は「忠」です。
彼は無一文から出発し、なんとわずか20年で築き上げたものです。
一代で成功した人々はスタインウェイなどのように通例として仕事に全身全霊を捧げ、
人生の欲望を捨て、さらには肉親の生命を犠牲にしてまでその目的に邁進する者が多い中、
頼金忠氏はその例外であると言ってよいかもしれません。
言い伝えでは穏健な紳士でピアノで演歌を弾きこなし、七段の腕前で空手を楽しみ、
この常に明るく陽気な性格を持っている幸運な社長の半生は次のようなものです。

頼金氏は1926年広島県竹原市の酒造りの頭梁をつとめていた父の10人兄弟の6男として
生まれ、広島師範学校(現在の広島大学教育学部)に進みました。
そこでピアノの演奏に興味を持ち始め、連日練習に励んだのがピアノとのなれ初めでした。

終戦の混乱期は、頼金氏の教師になるという本来の目的性を失わせ、彼を実業界という
正反対の方向に走らせてしまいました。
彼は、明治大学の商学部に進むかたわらアルバイトでピアノの販売に没頭・熱中し、
なんと月間30台も売ったという逸話も。さらに空手の練習にも傾注されたとのことのようです。
このアルバイトはほとんど本職に転化していったと伝えられています。
彼は大学を卒業する直前、1953年に兄との共同で東京の青山に「日響ピアノ」という
店を開業発足させました。しかし彼は販売だけにはあきたらずピアノの製造技術を学ぶため、
兄に日響ピアノの経営をまかせ、浜松にあった遠州ピアノ製造株式会社などで武者修行をし、
自らはピアノ製造メーカーの世界に身を乗り入れました。

アトラスピアノの源となった「日米楽器工業所」は、1955年6月10日に発足。
場所は浜松市の浅田町。発足当初はピアノ職人を数人かき集め、外注依存の組み立て専門の
工場として出発したことに始まります。
どんなピアノにでも付けられるという便利な鉄のフレームを作り、設計書もなしに意外に
品質の良いピアノを次々と生み出していったようです。
当時はこのような組み立てピアノの全盛期で、小さい工場が国内に35~40社ほどもあり、
さまざまなブランドのピアノを作っていました。
当時の日米楽器では「スタンダード」、「ノーベル」、「アトラス」、「アーデルスタイン」などの
ブランドのピアノを作ったと記録されています。

創業2年目である1956年に日本のピアノの創始者である山葉寅楠氏の直弟子の中の一人である
匹田幸吉氏が参加し、この頃から独自の設計のピアノが作られ始め、品質は劇的に向上しました。
この頃、国立音楽大学楽器研究所の主任であった西村武氏に認められ、国立音大の
指定工場となり、販売、技術ならびに資金の援助を仰ぐようになった。
尚、当時国立音大の研究室で作られていた同じ仕様のピアノには、「コンセルバトワール」
というブランド名が付けられていたそうです。

※西村武氏はわが国でも古いピアノメーカーの一つである松本ピアノ出身の技術者で、
ピアノの製造技術を学問的に解明した学者肌の人で、惜しくも49歳で亡くなってしまいます。
西村武氏は、わが国のピアノ調律界の元老だった中谷孝男氏と共に、日本のピアノの
品質向上に多大なる貢献を果たした人物です。
「アトラス」というブランドは国立音大の指定工場になった1956年から使われており、
このアトラスという商標はこの西村武氏から譲られたものでした。
ちなみにこの”アトラス”とは、遥か西の地の果てで天球を支えているギリシャの
途方もない巨大な神で、西村武氏ご自身の身体は小さかったが、希望は大きい方が良い、
世界を目指そうという主旨で決められたと言い伝えられています。アトラス参考画像 →★
1990年代に国内メーカーとしてのアトラスは事実上の廃業に至ります。
現在は中国のメーカーが商標を買取り、販売しているとされているが、詳細は不明である。
(少々判明したので下記★★★へどうぞ)

<アトラスピアノ画像集>
アトラスの蓋部分のメーカーロゴ →★  アトラスの外装に貼ってある物品税証紙 →★
アトラスピアノの純正キーカバーです →★
アトラスピアノの響板に描かれたアトラス(ギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神) →★

<レア画像>
昭和50年代に納品されたアトラスピアノに付いていたカセットテープ式自動演奏機システム →★

<附録>
アトラスピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1971年~1990年) →★
※アトラスで珍しいものとして「津軽」という機種があり、外装がまさに津軽塗で作られています。

<機種バリエーション>A30、A35、AL30、NA150、NA505等

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アトラスピアノ製造株式会社(アトラスピアノせいぞう)は、かつて静岡県浜松市にあった
日本のピアノメーカーである。当時の会社住所:浜松市神田町1400番地。
広島県出身の頼金忠は、学生時代に学業の傍らピアノ販売のアルバイトをしていたが、
卒業後は遠州ピアノ製造株式会社などでピアノ製造技術を学び、1958年、有限会社日米楽器工業所を設立、
1960年に商号および組織を改変しアトラスピアノ製造株式会社となる。
1961年、日本で最初のピアノJIS工場の認可を受け、翌年には広島支店を開設、
その後日本ピアノ製作所を買収、日本ピアノアクション製造株式会社を吸収合併するなど、
1960年代から1970年代にかけては、日本のピアノメーカーとして、生産設備、生産台数において
ヤマハ、カワイに次ぐ勢いであった。1980年代に入るとピアノの需要が落ち込み、
1984年には業務提携していたブラザー工業株式会社が撤退し、1986年に事実上の倒産に至る。
再建にむけて本社を移転し再出発するも、1990年代には国内での生産は廃業し、
その後は中国のメーカーが商標を買取り、販売しているとされているが、詳細は不明である。
(少々判明したので下記★★★へどうぞ)
いずれにしても、日本国内で生産されたアトラスピアノは姿を消した形になる。
アトラスはギリシャ神話で地の果てで天球を支える巨大な神であるが、ピアノの響板にもこの姿が描かれている。
命名者は日米楽器の頃よりピアノ製造の中心的な存在であった、国立音楽大学楽器研究所主任でピアノ調律師の
西村武であり、以後アトラスピアノ工場は国立音楽大学の指定工場となり、品質向上に大きく携わる。
以下は日米楽器工業所及びアトラスピアノ製造株式会社で製造されたピアノのブランド名の一部です。

★★★
~中国のアトラスピアノについて~
老舗だった日本のアトラスは1990年代に完全に廃業しており、今現在アトラスはピアノを製造していません。
廃業後、商標権を取得した中国にある企業(※調べによると、阿托拉斯乐器制造(大连)有限公司という会社)が
現在この「アトラス」のブランド名を使ってピアノを製造しています。
アップライトをはじめ、なんとグランドピアノも製造し、ピアノ蓋にある「Atlas」の書体ロゴもまったく同じです。
まだ私自身実際にこの中国版アトラスを見たことがないので、品質や音色については何とも言えませんが、
過去に日本で製造していたあのアトラスピアノとはまったくの別物のピアノですのでご注意下さい。
商標権を取得したからといって、輝かしい日本のアトラスの歴史を丸々パクっているところが中国らしいです。

<正真正銘日本のアトラスが製造を手がけたことがあるブランドを下記に列挙しておきます>
■ ATLAS (アトラス) - アトラス
■ ADELSTEIIN (アーデルスタイン) - 日米楽器
■ BROTHER (ブラザー) - アトラス
■ KREUIZBACH (クロイツバッハ) - アトラス
■ MEISTER (マイスター) - アトラス; 阪急百貨店のブランド
■ MORGENSTEIN (モルゲンスタイン) - アトラス
■ NOBEL (ノーベル) - アトラス、日米楽器
■ ROYAL (ローヤル) - アトラス
■ STANDARD (スタンダード)- 日米楽器
■ STEINMEYER(スタインマイヤー)- アトラス; 高島屋のブランド
■ VICTOR (ビクター) - アトラス
<注意>L. MEISTER は中国製造のようです。

アトラスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
ATLAS
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ATLAS 中国 阿托拉斯乐器制造(大连)有限公司

中国にある企業が、過去に日本あった「アトラス」の商標権を買い取って製造。
現在日本のアトラスは倒産しているので、日本のアトラスとはまったく別のピアノです。

詳しくは上記、日本の「アトラス」内の説明欄の下の方、
★★★「中国のアトラスピアノについて」部分をご参照下さい。
ATLAS JUNIOR ATLAS Jr. アトラス・ジュニア
アトラスピアノ製造株式会社
ATOMOS アトモス フローラピアノ製造株式会社
AUBURN 詳細不明
AUCHER 詳細不明
AUGUST FORSTER
AUGUST FÖRSTER



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アウグスト・フェルスター AUGUST FORSTER/AUGUST FÖRSTER
(アウグスト・フォルスター)/(オーガスト・フォルスター)/(オーガスト・フェルスター)
/(アウグスト・フォルエステル)/(アウグスト・フォルステル)

ドイツ(旧東ドイツ)ザクセン地方のレーバウ  AUGUST FÖRSTER
チェコにも工場があったが太平洋戦争後に消滅。

1859年に設立されアウグスト・フェルスター社は第二次世界大戦より前に、
クオーター卜ーン・グランドピアノやエレクトロコードのような革命的な棉造の楽器を生み出した。
今日のアウグスト・フェルスターのピアノは、妥協のない細部へのこだわりで知られている。

アウグスト・フェルスター社のピアノは温もりのあるまろやかな音色が特徴で、
低音は力強くよく鳴るのが特徴。高さが116cm~125cmの6つのモデルのアップライトピアノと、
長さが170cm~275cmの5つのモデルのグランドピアノを製造している。
ジャコモ・プッチー二は、ほとんどのオペラをこのアウグスト・フェルスターのピアノで作曲した。
基本的な構造は従来のグランドピアノと変わらないが、エレクトロコードは最低音部の8音を除き、
1音に2本の弦が張られていた。ハンマーは1本の弦だけを打ち、もう1本の弦は短く、かなり弱い
テンションで張られていて、共鳴して振動する。この弦のいろいろな位置に静電ピックアップが
垂直と水平方向に設置され、幅広い音色とアタック特性を拾うことができた。エレクトロコードには
オプションでラジオや蓄音機を取り付けることも可能だったという。

<歴史>
フリードリヒ・アウグスト・フェルスターは、1829年にドイツのオーバーザイファースドルフに生まれた。
家具職人の見習いとして働きだし、空いた時間に楽器の修理を行っていた。
その後、楽器作りへの情熱が高まり、フェルスターはレーバウへ移って、ヒーケと力ール・オイレのもとで
ピアノ製作の修行を始める。
そして、小さな工房を開いて最初のピアノを作り上げ、その5年後の1854年にピアノ職人の試験に合格する。
1862年、フェルスターはレーバウ郊外に工場を設立した。その後、何度となく改修や改築が行われたが、
工場は現在もこの場所にある。
1897年、アウグスト.フェルスターは、 息子ツェーザーに会社を遺して亡くなるが、ツェーザーは
1915年までしか生きられなかった。
さらに今度はツェーザーが、息子のゲルハルトとマンフレートに会社を遺して亡くなる。
ピアノ業界ではよくあることだが、ふたりの息子は異なる特性を生かし、
それぞれのやり方で会社の成長に貢献していく。
この兄弟の場合、マンフレートはビジネスマンであり、
ゲルハルトは革命的な構造の楽器を生み出す器用な製作者だった。
1924年から1931年の間に、ゲルハルトは、チェコの作曲家アロイス・ハーバの作品を演奏するための
クオータートーン・ピアノ (4分音ピアノ。半音の半分の音を出せるピアノ) を数台製作する。
その後、ゲルハルトは、オスカー・フィアリングが1933年に特許を取得した設計に基づき、
「エレクトロコード」と称する電気ピアノを製作した。
現在の工場は、創業者一家4代目のヴォルフガング・フェルスターが所有、経営している。

■機種/モデル バリエーション
アップライトピアノ モデル:Super C
グランドピアノ  モデル:170、190、170Rococo

※アウグストフェルスターピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★
AUGUST FORSTERのトレードマークは匿名希望様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<附録>
アウグスト・フェルスターピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1873年~2000年)→★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アウグスト・フェルスター(August Förster)はドイツのピアノ製造会社である。
正式名称は「August Förster GmbH Kunsthandwerklicher Flügel-und-Pianobau」
「Foerster」や時折「Forster」とも翻訳される。
現在は40名の従業員を雇用し、年間およそ120台のグランドピアノと150台のアップライトピアノを生産している。
1859年4月1日、アウグスト・フェルスターはドイツ・レーバウに小さなピアノ工房を開いた。
1862年にはレーバウのJahn通りに工場を拡大した。
今日まで使用されているこの施設はフェルスター家によって拡大・近代化されてきており、
オリジナルのアウグスト・フェルスターピアノの製造のための唯一の場所であり続けている。
1897年、ツェーザル・フェルスターは父アウグストの後を継いで会社の経営者となり、
1900年にボヘミア(後のチェコスロバキアとチェコ共和国)のゲオルクスヴァルデ
(チェコ名はイジーコフ Jiříkov)に2つ目の工場を開いた。
フランツ・ツェザール・フェルスターはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達を与えられた。
1937年、フェルスター社は最初の電気ピアノの一つである「Vierling-Förster」ピアノを製造した。
このピアノはベルリン工科大学ハインリヒ振動研究所のOskar Vierlingによって開発され、
電磁ピックアップを使用している。
第二次世界大戦後、ゲオルクスヴァルデのドイツ系住民は排斥され、
1945年にゲオルクスヴァルテ工場は国営化された。
新しい国家管理の下で質の高い多くのピアノが生産されたが、1945年以降のチェコ製ピアノは
ドイツのアウグスト・フェルスターピアノとは無関係である。
この「もう一方の」アウグスト・フェルスターは2000年までペトロフ社によってチェコ共和国で生産され、
カナダや一部の欧州の国々で販売された。
1972年、東ドイツの国営化の最終段階で会社は国有「VEB Fluegel-und-Pianobau Loebau」に変わった。
まだウォルフガング・フェルスターの管理下にあったものの、
フェルスター社はVEBドイツピアノ組合ライプツィッヒの一部として併合された。
家名は1976年に公式の会社名に戻り、楽器ブランドは「VEB Förster Pianos Loebau」となった。
また1976年に、フェルスター社はアメリカ合衆国への輸出を始めた。
多くの高名な音楽家がドイツ製フェルスターピアノを好んできた。
その中にはリヒャルト・シュトラウスやセルゲイ・プロコフィエフがおり、
どちらもフェルスターピアノを所有していた。
また、ジャコモ・プッチーニはフェルスターピアノを使って数多くのオペラを書いた。
Robert Fischer、Alex Duke、アントン・クエルティもまたフェルスターピアノを好んでいたことが記されている。
フェルスター・ピアノは品質と音色によって、1987年の「Verleihung der Goldmedaille für den Rokokoflügel
(ロココグランドピアノ・金メダル)」を含む多くの賞を受賞してきた。
ラリー・ファインの『The Piano Book』において、ドイツ製アウグスト・フェルスター・ピアノは
性能、品質管理、信頼性(一般的な耐久性を意味するファインの用語)の部門で最も高い評価を受けた。
「高品質性能ピアノ」のカテゴリーで、ファインは現代のアウグスト・フェルスター・ピアノを
C・ベヒシュタインやグロトリアン・シュタインヴェーク、ベーゼンドルファーといった
国際的に評判の高い楽器のすぐ下に順位付けした。
加えて、ファインは現代フェルスター・ピアノをその「卓越した低音」について称賛し、
またレンナー社製アクションの際だった反応の速さについても言及した。
公式HP:https://www.august-foerster.de/
AUGUST HOFFMAN




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オーガスト・ホフマン/アウグスト・ホフマン 中国

August Hoffmanは、もともとはスウェーデン生まれのピアノブランドだが、
現在は中国遼寧省のピアノメーカー営口東北鋼琴(ドンペイピアノ)で生産。

トレードマーク画像は「高永ピアノ調律事務所様」からご寄稿頂きました。
この度は画像のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございます!

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
アウグスト・ホフマンス・ピアノファブリック
(典: August Hoffmanns pianofabrik、August Hoffmannのピアノ工場)は、
1838年から1988年まで存在したスウェーデン・ストックホルムのピアノ製造会社である。
会社の起源はSöderberg父子の工房にある。この工房は1859年にピアノ製造技師アウグスト・ホフマン
(August Hoffmann、1827年ザクセン州生まれ)によって買収された。
ホフマンはドイツ、オーストリア、ハンガリーで修行していた。
ライプツィヒ時代にホフマンは伝説的なハインリヒ・シュタインヴェーク
(後のヘンリー・スタインウェイ)と友人だった。
アウグスト・ホフマンは1840年代に短期間カルルスハムン(英語版)でピアニストの
A. F. Sätherbergのために働き、ドイツに戻った後、最終的にはストックホルムに定住した。
スクエア・ピアノは1870年代初頭に最も人気があり、1873-74年には200台のスクエア・ピアノが製造された。
その後アップライトピアノが次第に人気となり、1884-88年には年間わずか40台のスクエア・ピアノが生産された。
アウグスト・ホフマンは1884年に死去したが、未亡人のナンナ・ホフマン(Nanna Hoffman)が工場を経営した。
ピアノ産業では初めての王室御用達となり、25人の従業員を雇用した(6人が楽器職人・調整師、他は家具職人)
ホフマンは1890年代の初めにストックホルムを訪れたスタインウェイの助けを受けた。
その他の多くの工房と異なり、ホフマンの工程は相当量の手作業によることが特徴だった。
工場はBanérgatanにあり、整備と販売はマルムフィルナツガータン通り(英語版)33の店で行われた。
1930年代、オペラ歌手のマルティン・オーマン(フランス語版)はこの店の販売員として働いていた。
スウェーデンでの製造が終わって以降、August Hoffman(ホフマンの綴りに注意)のブランド名を
冠したアップライトピアノ、およびグランドピアノが中国遼寧省のピアノメーカー
営口東北鋼琴(ドンペイピアノ)によって製造され、香港やカナダを含む世界中で販売されている。
このブランドと元々のスウェーデンの会社との関係は不明である。
ドンペイピアノは2007年にアメリカのギターメーカー「ギブソン」(Gibson)のグループに入り、
社名を「Baldwin Dongbei Piano」に変更。
アメリカの老舗ブランド「Baldwin」や、スウェーデンブランドの「Nordiska」などを製造している。
August Hoffmanピアノは、アメリカ、カナダ、ヨーロッパで販売されているが、
日本では「August Hoffman 112G」、「August Hoffman 114WH」、
「August Hoffman 115GC」の3機種が販売されている。
いずれも木目調のコンパクト型ピアノで狭い住宅事情に適している。
AUTO
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オート AUTO PIANO CO. 1903年創業 アメリカ(ニューヨーク)

1903年にニューヨークで設立されたオートピアノ社は、プレーヤーピアノを製造していた。
プレーヤーピアノとは、ピアノに空気装置を取り付け、回転する穴のあいたロールが
ピアノに音符を知らせることで、自動的に演奏できるようにしたものである。
ロールは別々に販売され、それぞれに異なる音楽が収録されていた。
例えるなら今でいうCDやレコードのようなものです。
自社ブランドのプレーヤーピアノに加え、「ピアニスタ」「シンフォトーン」というピアノラインも製造。

オートピアノ社は、当時大きな成功を収めた。
30万平方フィートの広大な工場に常時1万台のプレーヤーピアノを収容し世界中に出荷していた。
特に南米や北極圏では、湿気、暑さ、乾燥、寒さに強いオートピアノが人気を博した。
世界的な人気に加えて、オートピアノ社は、国内外で数え切れないほどの賞や栄誉、称賛を受けた。
また日本の皇室内でもオートピアノが採用され、その他多くの国の宮殿に設置されていた。

1920年代初頭にはコーラー&キャンベル社に買収され、1930年代初頭まで「オートピアノ」の生産を続けた。
しかし、残念ながら世界恐慌を乗り越えることができず、買い手がつかずに生産中止となってしまった。
オートピアノ社はプレーヤーピアノの製造に特化していたため、その道の専門家であり、
優れた製品を作ることに専念していました。
オートピアノは、卓越した表現力と美しい外観を備えています。
熟練した職人による豊かなケースデザインは、世界の厳しい気候だけでなく、
過酷な使用にも耐えることができた。
また、モデルによって価格が大き抑えられたものもあり、多くの家庭で購入することができました。
その中でも特に人気があったのが、88音の楽譜を演奏する「ウェルテ・ミニョン」と呼ばれるモデルでした。
この楽器は、アーティストの音色を模倣したものとして珍重された。
一音一音が完璧なタイミングで演奏され、テンポの変化もすべて考慮されている。
世界的に有名なピアニストや作曲家が、このウェルテ・ミニョンのために曲を録音している。
AYAKA

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AYAKA アヤカ

アトラスピアノ製造株式会社
AZUMA
※こちらは参考画像です

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AZUMA アズマ

東洋ピアノ製造株式会社

<ご注意>
左記トレードマーク画像は近年のアポロピアノのもので、AZUMAのトレードマークではありません。
実際のアズマのトレードマークは、上部にある文字の「TOYO」の箇所が、「AZUMA」になっています。
これは参考のために載せています。実際に画像をお持ちの方のご寄稿をお待ちしております。

上記Aから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    

 

  


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

B. SQUIRE & SONS
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スクワイアー イギリス 詳細不明
B. SHONINGER →SHONINGERの項目へ
B. STEINER 詳細不明
BABCOCK, ALPHEUS 詳細不明
BABCOCK, LEWIS & ALPHEUS 詳細不明
BABCOCK, APPLETON & BABCOCK 詳細不明
BACH 詳細不明
BACHENDORFF
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シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
BACHMAN 詳細不明
BACHSTEIN ご注意→→ ドイツのあの有名なピアノ、「ベヒシュタイン」の正しいスペルはBECHSTEINです
BACHSTEIN


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BACHSTEIN バッハシュタイン/バハシュタイン
発売元:ワタナベ楽器店/ワタナベピアノ
製造元:渡辺ピアノ

新橋の楽器商だった渡辺寅雄氏が製作させたピアノで、念入りに作られた数少ないものとのこと。
初め”ワタナベピアノ”と称したそうです。
トレードマークの下部分には「WATANABE PIANOSTORE」と入っているのが分かります →★
トレードマークご寄稿者様によりますと、ご祖母様が戦後、当時の銀座渡邊ピアノで製作してもらったピアノで、
同じ時期に3台製作したうちの1台だったとのことです。
外装はマホガニーで、白鍵は象牙、黒鍵はエボナイトらしいとのことです。
渡辺氏は三田の竹内楽器店の支配人でスタインウェイなどのピアノを輸入したこともある。

<参考:エボナイトとは>
エボナイト(英語:ebonite)とは、ゴムの一形態です。
特徴としては硬く光沢をもち、外観が黒檀(ebony)に似ていることからエボナイトと呼ばれます。
エボナイトは、大変歴史の古い樹脂で、一般に広まった最初の「合成樹脂」と言われています。
1839年、米国チャールズ・グッドイヤー氏によって発明されました。
ちなみにあの有名なタイヤメーカーのグッドイヤー社は彼にちなんで命名されていますが、
グッドイヤー本人や一族と、法的・資本的な関係はないとされております。

ピアノの外観写真もご寄稿頂きました →★(家具調でとても素敵なデザインですね)

※BACHSTEINと同じスペルで青木楽器店からのピアノもありますが別のピアノのようです。
渡辺ピアノのBACHSTEINと青木ピアノのBACHSTEINを混同して解説する資料もちらほら散見され、
現在までの調査の所、真偽の程は定かではありません。
いづれにしましてもこのどちらのピアノも昭和20年代頃、日本国内でも素晴らしいと認知され始めた
あのドイツ製の名高きベヒシュタインの名称をわざと1文字変えて名乗ったピアノであることは確かです。
ちなみにドイツのあの有名なピアノ「ベヒシュタイン」の正しいスペルは”BECHSTEIN”です。
※こちらのピアノは”BACH”の部分のスペルが”E”ではなく”A”になっています。

<トレードマーク画像とピアノ外観の写真について>
このたび「匿名希望様」からワタナベ楽器店のバッハシュタインのトレードマーク画像と外観写真の
計3枚の写真をご寄稿頂きました。この度は画像のご寄稿誠にありがとうございます!
BACHSTEIN

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BACHSTEIN バッハスタイン
発売元:青木楽器店(神戸市)

記録によるとこちらのBACHSTEINは、昭和12年に大阪市にあった清水谷女学校内で開かれた
「国産ピアノ展覧会」に青木楽器店から出品。当時の価格は380円という破格値だった。

※BACHSTEINと同じスペルで渡辺楽器店からのピアノもありますが別のピアノのようです。
渡辺ピアノのBACHSTEINと青木ピアノのBACHSTEINを混同して解説する資料もちらほら散見され、
現在までの調査の所、真偽の程は定かではありません。
いづれにしましてもこのどちらのピアノも昭和20年代頃、日本国内でも素晴らしいと認知され始めた
あのドイツ製の名高きベヒシュタインの名称をわざと1文字変えて名乗ったピアノであることは確かです。
ちなみにドイツのあの有名なピアノ「ベヒシュタイン」の正しいスペルは”BECHSTEIN”です。
※こちらのピアノは”BACH”の部分のスペルが”E”ではなく”A”になっています。

<トレードマーク画像について>
こちらのトレードマークが、青木楽器店のBACHSTEINの可能性が高いです。
「匿名希望様」よりBACHSTEINのトレードマーク画像のご寄稿を頂きました。ありがとうございます!
音叉が3本デザインされたトレードマークです。
BACKHAUSE
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
バックハウス 昭和32年頃に(有)小野ピアノ製作所で作られていたという記録がある。
BACON, FRANCIS
(FRANCIS BACON)

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FRANCIS BACON PIANO CO. 創業1789年 アメリカ(ニューヨーク)

フランシス・ベーコン・ピアノ・カンパニーの歴史は、1789年にさかのぼります。
ジョン・ジェイコブ・アスターが会社を設立し、その30年後にはロバート・ストダートと
ウィリアム・デュボアを迎え入れました。
1841年から1871年まで「Raven & Bacon」という社名を冠していた
フランシス・ベーコンやトーマス・レイヴンなど、最初の40年ほどはさまざまな人物が
入社・退社を繰り返していた。
その後、ベーコン家の数世代にわたる存続を経て、1904年にベーコン・ピアノ・カンパニーとして法人化された。
ベーコン・ピアノ・カンパニーは、1900年代初頭からコーラー社やキャンベル社との取引を開始し、
1933年にはコーラー社やキャンベル社の大企業に完全に統合されたため、ベーコン・ピアノの中には
コーラー社やキャンベル社のシリアルナンバーが付いているものもある。

フランシス・ベーコン・ピアノは、ニューヨークに本社を置くピアノメーカーで、アップライトピアノ、
グランドピアノ、プレーヤーピアノ、電気式表現ピアノ、リプロダクションピアノなど、
さまざまなタイプのピアノを製造・販売していた。
ベーコンピアノは何十年にもわたって製造されてきた実績があり、創業当初からその優秀さが望まれていました。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会をはじめ、1800年代後半から1900年代前半にかけて、
このブランドのピアノはいくつものメダルや賞を受賞しました。
ベーコン・ピアノは、中程度の価格で知られていた。
BAER, C. 詳細不明
BAILEY 詳細不明
BALDORR & SONS 詳細不明
BALDUR バルドール ドイツ 詳細不明

BALDWIN


BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

BALDWIN

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ボールドウィン

BALDWIN PIANO & ORGAN CO.
Since1862、アメリカ製ピアノでそのほとんどがスピネットタイプ。

木目を生かした外装が特徴的ですね。
あがき(→鍵盤の沈み込む深さ)がとても浅いのでご注意。
通常のピアノのあがきは10mmですが、このピアノは8~9mm程度しかありません。
日本製ピアノを使い慣れた方はタッチにかなり違和感を感じると思います。

総合的なピアノの作りは、THEアメリカ!という感じです。
その他の特徴としましては、3本ペダルのうち、真ん中のペダルが低音域のみ利きます。
アメリカのピアノにこの方式が多く、ウーリッツァーなどの3本ペダル機種もこの方式を採用しています。
(一般的な3本ペダルの真ん中は弱音ペダル、マフラーペダルです)

その他の特徴としては、チューニングピンへ巻かれるミュージックワイヤーが、
わざと最初に飛び出ささせてから巻き始めており、ボールドウィン独特な特徴です →★

ボールドウィンのグランドピアノには、特許を取得したAcu-Justヒッチピンが取り付けられている。
これにより弦圧調整を1本づつ個別に行うことが出来る。
また、ボールドウィンのコンサートグランドピアノには、トレブル・ターミネーションという部品の特許を取得し、
この部品によりピアノの高音部の音が明瞭で力強くなり長く持続するという特徴がある。

<歴史>
1873年、アメリカ中東部の著名な音楽教師ドワイト・ハミルトン・ボールドウィンは、
ピアノとオルガンを扱う小売店ボールドウィン・ピアノ・カンパニーを設立。
19世紀の終わり頃に会社が発展してくると、ボールドウィンはオハイオ・ヴァレー・ピアノ・カンパニーと
契約を交わし、D.H.ボールドウィン・アンド・カンパニーのアップライトと、スクエアピアノの製造を委託。
1891年、ボールドウィン・ピアノは低価格のアップライトピアノの製造を開始し、
2年後には中価格のアップライトをエリントン・ピアノ・カンパニーの名で製造するようになる。
19世紀末にはボールドウィンの名で高品質の楽器を製造するようになり、
1900年のパリ万博でグランプリを獲得する。
D.H.ボールドウィンは1899年没。会社を長老教会に遺すが、ボールドウィンの元社員の
ルシエン・ワルシンと、ジョージ・アームストロングは1903年に会社の経営権を買い戻した。
1926年にルシエン・ワルシンJr.が最高経営責任者となり、1964年に亡くなるまで会社に留まった。

1920年代、ボールドウィン社は自動演奏ピアノ、マニュアロ(Manualo)プレーヤー機構の開発で有名になり、
また、シンシナティ大学物理学部の協力の下、電子楽器の実験も行った。
ボールドウィン社が財政的に安定したのは、90cmのアクロソニック・スピネットや、
100cmのアクロソニック・コンソールを生産するようになった1936年からでした。
これらの楽器は1938年から販売された112cmのハミルトン・スタジオ・アップライトの設計、
製作へと繋がった。これは最も人気の高いアップライトピアノのひとつで、
現在目にするボールドウィンピアノの原型とも言えるでしょう。
第二次世界大戦中、ボールドウィン社は飛行機の木製部品を製作などをしていたが、
戦後はエレクトリック・オルガンで成功し、飛躍的な成長を遂げた。

1960年代から1970年代にかけてボールドウィン・ピアノ・カンパニーは金融や電子分野を含む
42社を買収し、ボールドウィン・ユナイテッドとなる。
1963年にはドイツのメーカーであるベヒシュタインを買収。
1987年まで続いたこのベヒシュタインとの関係から、ボールドウィン社は国際的な
コンサート・アーティストへのピアノ提供サービスの仕事を得たという。
1965年、ボールドウィン社は初のコンサートグランドピアノSD-10を製造。

ボールドウィン社の好調さは1983年まで続いたが、この年に金利の上昇に伴い破産を申し立て。
利益性の高いピアノ部門は役員によって買われ、1984年にボールドウィン社はふたたび私有会社に。
1980年代から1990年代初めにかけて、ボールドウィン社はサミック社と提携し、
コリアン・アメリカン・ミュージック・カンパニーを設立し、ハワード・グランドピアノを生産した。
1980年代後半になると、ふたたびボールドウィン社は規模を拡大し、
アメリカのピアノ・オルガン製造会社であるワーリッツァーなど、ピアノ関連会社を買収していった。
その後、また経営に行き詰まり、ふたたび破産を申し立てると、およそ1ヶ月後の2001年11月1日に
ボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーは、ギブソン・ギター・コーポレーションに買収される。

機種バリエーション 140、4024、4026、5040、5045など  ボールドウィンのシリアルナンバープレート →★

ボールドウィン天板裏側に貼ってあるシール →★  ボールドウィンならではの美しい家具調外装 →★
ボールドウィンの保証書 →★  ボールドウィンピアノのドロップアクション →★
ボールドウィン(Baldwin)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1890年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ボールドウィン・ピアノ・カンパニー(Baldwin Piano Company)は、
アメリカ合衆国のピアノブランドである。
かつては米国を拠点とする最大の鍵盤楽器製造業者であり、
「America's Favorite Piano(アメリカのお気に入りのピアノ)」というスローガンで知られていた。
2008年12月にほとんどの国内生産を停止し、中国へ生産を移した。
ボールドウィンは現在アメリカ最大の楽器製造業者ギブソン・ギター・コーポレーションの子会社である。
ボールドウィン社の歴史は、ドワイト・ハミルトン・ボールドウィンがオハイオ州シンシナティで
ピアノやオルガン、バイオリンを教え始めた1857年に遡る。
1862年、ボールドウィンはデッカー・ブラザーズピアノの販売特約店を始め、
1866年に販売員としてLucien Wulsinを雇った。
Wulsinは販売特約店の共同経営者となり、会社は1873年にD.H. Baldwin & Companyと
呼ばれるようになり、彼の指導の下でボールドウィン・カンパニーは1890年代までに
アメリカ合衆国中西部で最大のピアノ販売業者となった。
1889年から1890年に、ボールドウィンは「製造し得る限り最良のピアノ」を製造すると宣言し、
続いてリード・オルガンを製造するHamilton Organとピアノを製造する
ボールドウィン・ピアノ・カンパニーの2つの会社を設立した。
会社の初のピアノ(アップライトピアノ)は1891年に販売が始まった。
1895年には初のグランドピアノを発表した。
ボールドウィンは1899年に死去し、彼の資産の大部分は伝道目的に資金を供給するために残された。
Wulsinは最終的にボールドウィンの資産は購入し、会社の体制の小売から製造への転換を続けた。
会社は1900年にパリ万国博覧会に出品したモデル112でグランプリを受賞し、
こういった賞を受賞した初のアメリカ製ピアノとなった。
ボールドウィン製ピアノはセントルイス万国博覧会と1914年英米博覧会でも最高賞を受賞した。
1913年までに、事業は活発となり、ボールドウィンは米国全土の小売店を持っていたのに加えて、
32カ国へと輸出した。
ボールドウィンは、その他多くの製造業者と同様に、1920年代に自動ピアノの製造を始めた。
ピアノ工場はオハイオ州シンシナティに建設された。このモデルは1920年代末までに不人気となり、
世界大恐慌の始まりと相まって、これはボールドウィンへ災いを及ぼした。
しかしながら、社長Lucien Wulsin IIはこういった状況のために大きな積立金を作っており、
ボールドウィンは市況の低迷を乗り切ることができた。
第二次世界大戦中、米国戦時生産委員会は戦争遂行努力のために工場を使うことができるように
米国の全ての製造業の停止を命令した。ボールドウィンの工場はエアロンカPT-23初等練習機や
カーチス・ライトC-76キャラバン輸送機といった様々な航空機のための合板製部品の製造のために使われた。
軍用機における木製部品の使用は大成功とは決して考えることはできなかったが、
合板製の航空機の翼を建造するうえで学んだ教訓は結局のところは戦後のピアノモデルで使われた
21層カエデ材ピン板の設計の開発に役立った。
戦争が終わった後、ボールドウィンはピアノの販売を再開し、1953年までに戦前の2倍の生産数に達した。
1946年、ボールドウィンは初めての電気ピアノ(開発は1941年)を発売した。
電気ピアノは大きな成功を収めたため、ボールドウィンは
ボールドウィン・ピアノ&オルガン・カンパニーに改称した。
1961年、ルシアン・ウルシン3世が社長となった。
1963年までに、ボールドウィン社はC. ベヒシュタイン・ピアノフォルテファブリックを買収し、
1986年まで所有した。1959年、ボールドウィンはアーカンソー州コンウェイに最初は
アップライトピアノの製造のために新たなピアノ製造工場を建設した。
この工場では1973年までに100万台のアップライトピアノが作られた。
1961ににボールドウィンはミシシッピ州グリーンウッドに新しいピアノ工場を建設した。
それ以降にアップライトピアノの生産はオハイオ州シンシナティからグリーンウッドへ移された。
ボールドウィン社は次にポップ・ミュージックの成長から利益を得ようと試みた。
フェンダー・ミュージカル・インストゥルメンツ・コーポレーションの買収が失敗に終わった後、
ボールドウィンは1965年に38万米ドルでロンドンのバーンズを買収し、
社のピアノ小売店を通じてギターの販売を始めた。
この時期、ボールドウィンのエンジニアRobert C. Schererがナイロン弦ギターのための
Prismatoneピックアップを開発した。ギターの販売に不慣れであったボールドウィンの小売店は
多くのギター購買者の興味を引くことに失敗し、売り上げは期待外れに終わった。
1967年、ボールドウィンはグレッチギターも買収した。
グレッチは自社の経験豊かなギター販売員と公認小売店の流通網を有していた。
しかしながら、フェンダーとギブソンがギター市場の支配し続け、
売り上げは期待された水準には届かなかった。
グレッチギターの経営は1989年にグレッチ家に売り戻された。
1970年代を通して、ボールドウィン社は金融サービスへ活動分野を広げるために大きな努力を始めた。
Morley P. Thompsonの指揮の下で、ボールドウィンは数十の会社を買収し、1980年代初頭までに
MGIC投資コーポレーションを含む200社を超える貯蓄貸付機関、保険会社、投資会社を所有した。
ボールドウィン社はUnited Corp. との合併後の1977年に社名をボールドウィン-ユナイテッドに変更した。
1980年、ボールドウィン社はアーカンソー州トルーマンに新たなピアノ製造工場を開業した。
しかし、1982年までに、ピアノ事業はボールドウィンの36億米ドルの収益のわずか3パーセントになった。
その一方で、ボールドウィン社は買収と新たな施設の資金を調達するために大きな債務を負っており、
次第に貸付債務の支払が困難になっていた。
1983年、持株会社といくつかの子会社が総額90億米ドルを超える負債を抱えて破産へと追い込まれた。
これは当時市場最大の倒産だった。しかし、ピアノ事業は倒産を免れた。
1984年の倒産手続き中、ボールドウィンのピアノ事業はその経営管理者に売却された。
新会社は1986年にボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーとして公開され、
本社はオハイオ州ラブランドに移された。
しかし、人口構造の変化と外国との競争により鍵盤楽器の販売は停滞した。
ボールドウィン社は市場占有率を増やすためにウーリッツァーを買収したり、
生産コストを下げるために製造を海外に移つことで対応した。
1998年、ボールドウィン社は本社をラブランドから近隣のディアフィールド・タウンシップへ移した。
1990年代の間中ずっと、ボールドウィン社の運勢は好転し、1998年までに、
コンウェイ工場の270人の従業員は毎年2,200台のグランドピアノを作っていた。
しかしながら、2001年、ボールドウィンは再び困難に直面し、再度破産申請をした。
ボールドウィン社はギブソン・ギター・コーポレーションによって買われた。
2005年にリストラを行う際に、ボールドウィン社はトルーマン工場の一部の従業員を解雇した。
現在ギブソン・ギター・コーポレーションの子会社であるボールドウィン社はボールドウィン(Baldwin)、
チッカリング(Chickering)、ウーリッツァー(Wurlitzer)、ハミルトン(Hamilton)、ハワード(Howard)
ブランドの楽器を製造している。ボールドウィンは中国で2つのピアノ工場を購入し、
ここでグランドピアノとアップライトピアノを製造している。
過去のB米国製アップライトを再現したモデルは中国の中山市にある工場で作られている。
これらの復刻モデルにはBaldwin HamiltonスタジオモデルB243およびB247が含まれる。
これらはこれまで作られた中で最も人気のある学校ピアノである。
Donbei(東北)のより大規模な工場では現時点ではピアノは作られていない。
ボールドウィンのグランドピアノは中国の柏斯琴行(Parsons Music Group)によって作られている。
全ての新品ピアノはウーリッツァーやハミルトン、チッカリングではなく
ボールドウィンブランドの下で販売されている。
ボールドウィンは2008年12月にアーカンソー州トルーマン工場での新たなピアノの製造を止めた。
特注グランドピアノの製造と注文された多数の芸術的なグランドピアノの仕上げのために
少人数のスタッフが残っている。

ボールドウィンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★

BALLINDAMM

BALLINDAMM

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バリンダム BALLINDAMM
末尾はMが2つです。

製造元:東洋ピアノ製造(浜松) ※アポロピアノ
現在の販売元:株式会社 ピアノ百貨
機種バリエーション:BU-10、BU-20、BU-30、BU-50、B-123、B-126、B-133等

東洋ピアノ製ということで、東洋ピアノ製造時のピアノはもちろんM.O.Tペダルを採用しています。
MOTペダルのガチャガチャ →★

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BALTHUR
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BALTHÜR ポーランド 詳細不明
BALTICA 詳細不明
BALTIMORE
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ボルチモア アメリカ Baltimore Piano Factory

ボルチモア・ピアノ・ファクトリーのピアノは、メリーランド州ボルチモアの工場で生産されていたが、
会社の成長に合わせて何度かボルチモア市内に移転した。
残念ながら1800年代半ばに生産が終了したため、これらのピアノについてはほとんど知られていない。
BANNERMAN 詳細不明
BARBEL
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バーベル
有限会社 野田ピアノ製作所、浜名楽器製造株式会社
その他詳細不明
BARBER LONDON 詳細不明
BARENBOIM
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バレンボイム

ピアニスト兼指揮者のバレンボイムによりデザインされたピアノとのこと。
Steinway&Sonsの支援を受けて、ベルギーの楽器メーカーChris Maeneと共に製作。
最大の特徴は平行弦を採用している(※現代の一般的なピアノはほとんどが交差弦)

※参考:ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )は、
アルゼンチン出身の、ユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。
BARKER Barker & Co 詳細不明
BARNES 詳細不明
BAROCK




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バロック BAROCK

浜松の東日本ピアノ製造KKで作っていたブランドの一つ。  →後に(株)バロックとなります

同社で製造の「クリーベル」などと同じ雰囲気のピアノです。
他に、KEMP(ケンプ)、WESTMINISTER(ウェストミンスター)がある。その他詳細不明

<付録>
バロックピアノの製造番号/製造年代 対照表(1972年~1990年) →★
バロックのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  バロックのキーカバー →★  バロックの保証書 →★

<参考>
JACKSON & SONSという同じ東日本ピアノ製造のピアノもあります。同じトレードマークです。
→詳しくはJACKSON & SONS(ジャクソンアンドサンズ)の項目へ

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック

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BARRAT & ROBINSON
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バラット・アンド・ロビンソン BARRAT & ROBINSON LTD. イギリス その他詳細不明
BARTHOL
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バートール ドイツ 詳細不明
BARTLETT 詳細不明
BARUSTEIN


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バルシュタイン(バルスタイン)

松本ピアノ工場、東京鎌田楽器製作所(蒲田ピアノ修理所)

ピアノ調律師の宇都宮信一氏が東京月島にあった松本ピアノに依頼して製造。
琥珀のような深い味わいのある音を求めて命名したという。数は少ない。
BAUER 詳細不明
BAUER, J. 詳細不明
BAUMBACH
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バウムバッハ オーストリア 詳細不明
BAUM DORF
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バウムドルフ 韓国? 詳細不明

機種バリエーション:U500等
BAUMEISTER アメリカ(ニューヨーク)
その他詳細不明
BAUMGARDEN & HEINS 詳細不明
 BAUMGARDT
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バウムガルト スウェーデン(都市:リンシェーピング)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
バウムガルト(Baumgardt)は、スウェーデン・リンシェーピングにかつて存在したピアノ製造会社である。
1871年にJohan Otto BaumgardtとAdolf Tenggrenによって創業された。
総計約1万1千台のピアノが生産された。リンシェーピングでのピアノ生産は1968年に終了し、
その後はまずアルヴィーカのエストリンド&アルムクィストで、次にフィンランドのファッツェルで
ピアノが生産された。ファッツェルでのBaumgardtピアノの生産は1974年に終わった。
BAUS 詳細不明
BAXHARD スペルは”BUXHARD”が正しい可能性が高いです
詳しくは→BUXHARDの項目へ
BAXHORD スペルは”BUXHARD”が正しい可能性が高いです
詳しくは→BUXHARDの項目へ
BAY 詳細不明
BAYERN
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バイエルン アトラスピアノ製造株式会社

機種バリエーション:U-107等
BEALE ビール アトラスピアノ製造株式会社
BEALE PATENT オーストラリア 詳細不明
BECHNER 詳細不明
BECHSTEIN
BECHSTEIN, C.

BACHSTEIN

BACHSTEIN







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ベヒシュタイン(カール・ベヒシュタイン) C. BECHSTEIN  ドイツ(ベルリン)

繊細な作りと音色で、とても素晴らしいピアノです。

1853年の創業。故カール・ベヒシュタインが1855年にベルリンでピアノ工場を開設したのが始まり。
過去に1929年の世界経済恐慌と第二次世界大戦で工場が破壊、さらに材料が損なわれ、
会社の伝統に終止符が打たれる歴史を持っています。

戦後、アメリカの大手メーカーに買収されますが、ベヒシュタインの真の復活を願うドイツ人により
1986年ベルリンに戻って復活しました。
製造工程の85%以上手作業で行っており、伝統を守りつつ進歩することを求めていきました。
ベヒシュタインはピアノのストラディバリウスと呼ばれる名器で、
ヨーロッパでも屈指の優れたピアノと言うことができます。

1826年生まれの創始者カール・ベヒシュタインは、古代ドイツ民族の一つで、
チューリンジア人の血統を引いているためか、生まれつきの詩的で音楽的才能を持っていました。
そのためか、いつのまにかピアノのメーカーとしての職を選び、22才の若さで当時ベルリンで
最も有名だったペローというピアノ工場の支配人を勤めてました。

彼はペローの工場の現場で4ヵ年間忠実に働いた後に、イギリスとフランスに放浪の旅に出かけ、
有名なパペから経験主義的なピアノ製造の秘法を学び、クリーゲルシュタインという当時の
小型ピアノのメーカーから商売上の駆け引きをおぼえてその見識を広めたといいいます。

その後、1853年にベルリンで創業し1856年に最初のグランドピアノを作り上げました。
カール・ベヒシュタインの作ったこのピアノは、その同年に当時の有名なピアニスト兼指揮者の
ハンス・フォン・ビューローの演奏会に使われ、リストのソナタを弾いたコンサートでは
一躍名声を博したと言われています。

三大ピアノメーカー(ピアノメーカー御三家)の中の1つに数えられるメーカーです。
ピアノメーカー御三家とは一般的にスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインを指します。
ベヒシュタインについてはWikipediaに詳しく書かれています →★

ベヒシュタインの音色は澄みきった細い高音と、よく鳴る低音が特徴です。
新しいベヒシュタインのアクションはすべてレンナー社製で、響板にはバイエン地方の堅いスプルース材が
用いられ、ピン板はデリグニット社製で、最近まで総アグラフが採用されていた。
ベヒシュタインのコンサートグランドは、ベーゼンドルファー同様、総一本張り張弦のため、調律の安定性が良く、
また弦が切れた際には対処がしやすいという利点がある。
20世紀になるころに生産されたアップライトピアノには、より速いレペティション(連打)を実現するために、
ジャックに追加のスプリングが取り付けられ、ハンマーバットに接続されていた。

ベヒシュタインアップライト鍵盤押さえ部分の銘柄マーク →★  アクションレールに貼られたシール →★
ベヒシュタインのオリジナルキーカバー →★
製造から100年以上経つベヒシュタイングランドのデカール →★  そのグランドピアノの優美な外観 →★
ベヒシュタインアップライトのマフラー機構は、シンプルかつ理にかなった構造で本当に良く出来ており、
日本メーカーのようにビスを外す手間もなく、バネの勢いで引っかかることもなく大変優れたものです →★
上から4枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
上から5枚目のエンブレム画像は「I様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!
上から6枚目と7枚目の写真は約100年以上前に製造のベヒシュタインです。
トレードマークは100年前からまったく変わっていませんね!ドイツの物作りの凄さを感じたピアノでした。

<100年以上前のベヒシュタインピアノ画像集>
まくり(ピアノ鍵盤蓋)にあるブランド銘柄マーク →★  ベヒシュタイントレードマークの拡大画像 →★
特徴的な白鍵(角が丸いめずらしい形状です)→★  低音の1本弦に付けられた補助ダンパー →★
ピアノ内部に折り畳み式で収納が出来る譜面台 →★  ベヒシュタインピアノの内部全体写真 →★

■機種/モデル バリエーション (後に記載したモデルほど高級機) ※1989年当時の機種バリエーションです
アップライト
S-115(高さ115cm)、S-12n(高さ212cm)、S-12a(高さ212cm)、
S-11a(高さ230cm)、S-8a(高さ250cm)

グランドピアノ
K(奥行158cm/アクリル鍵盤)、K(奥行158cm/象牙鍵盤)、M(奥行180cm/象牙鍵盤)
B(奥行203cm/象牙鍵盤)、C(奥行221cm/象牙鍵盤)、EN(奥行280cm/象牙鍵盤)

<付録>
ベヒシュタイン(C, Bachstein)ピアノの製造番号/製造年代 対照表(1860年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
C. ベヒシュタイン・ピアノフォルテファブリック(C. Bechstein Pianofortefabrik)AG、
通称ベヒシュタイン(Bechstein)は、カール・ベヒシュタインによって
1853年に創業されたドイツのピアノ製造会社である。
1853年、カール・ベヒシュタインによってベルリンで創業。
「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるほどの名器で、最高のピアノの代名詞である。
ベヒシュタインについてフランツ・リストは「28年間貴社のピアノを弾き続けてきたが、
ベヒシュタインはいつでも最高の楽器だった」、クロード・ドビュッシーは
「ピアノ音楽はベヒシュタインのためだけに書かれるべきだ」と言う言葉を残している。
また、セシル・テイラー、チック・コリアなどジャズピアニストにも度々使用され、
クラシック界に留まらず、その演奏性は高く評価されている。
しかし、創業からの長い年月の中で、度重なる苦難の歴史もあった。
1929年、世界恐慌で打撃を受け、さらに第二次世界大戦で工場が破壊されるなどしたため、
設計図やその他の重要な資料はもとより、熟練した職人などそのほとんどを喪失した。
また、第二次大戦中ナチス・ドイツに協力したとして(ヒトラーはベヒシュタインを
「第三帝国のピアノ」としていた)、戦後はドイツ人のナチズムからの脱却とともに
その栄光の座から退いていくこととなった。
1962年、アメリカのボールドウィン社の傘下に入ったものの、
1986年にドイツのピアノ製造マイスターであるカール・シュルツェが経営権を買い取り、
念願であったドイツ人の手に経営権が戻された。
その後は資本増強を積極的に行い、1997年には株式会社(C. Bechstein AG)となり、
資本増強と東西ドイツ統一と共に、ツィンマーマン(またはツィンメルマン、Zimmermann、
1884年ライプツィヒで創業)とホフマン(W. Hoffmann、1904年ベルリンで創業)の
ブランドを傘下に収め、ベヒシュタイングループを設立。現在に至っている。
公式HP:https://www.bechstein.com/
公式HP(日本法人):https://www.bechstein.co.jp/

ベヒシュタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BECHTEL 詳細不明
BECKER
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ベッカー ロシア(ソ連) 1841年創業 ソ連で最も歴史のあるメーカー その他詳細不明
BECKER, J. 詳細不明
BECKER BROS.
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Becker Brothers Pianos
ベッカー・ブラザーズ 創業1892年 アメリカ(ニューヨーク)

1892年、ジェイコブ・ベッカーは、ニューヨークに工場を持つベッカー・ブラザーズを設立した。
ベッカー・ブラザーズは、自社ブランドのピアノのほか、ベニントン(Bennington)、メロトーン(Mellotone)、
プレイアノーラ(Playernola)などのブランドを保有していた。
1928年、ジェイコブの一人息子であるルドルフが父の後を継いで会社を経営した。
ルドルフ・ベッカーは、第二次世界大戦が始まる頃にベッカー・ブラザーズが閉鎖されるまで経営を続けた。

ベッカー・ブラザーズのピアノは、生産のピーク時には高い需要がありましたが、
大量生産されることはありませんでした。ベッカー・ブラザーズのピアノは需要が高いにもかかわらず、
大量生産されることはなく、同社の厳しい基準に合わせて1台1台丁寧に作られていた。
ベッカーの名を冠したピアノには、アップライトピアノ、グランドピアノ、そしてプレーヤーピアノがあり、
耐久性と優れた音色が特徴である。ベッカーのピアノは、シンプルな構造で操作しやすく、
外観は精巧にデザインされた美しいものが多い。
BECKNER ベックナー 東洋ピアノ株式会社
機種バリエーション:A500等
BECKER キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
BECKSTEIN ベクシュタイン ドイツでベヒシュタインの名が有名になってきた際、いかがわしい商売も生まれ、
ベヒシュタイン(Bechstein)のスペル一文字をわざと変えたインチキ商品といわれている。
BECKWITH

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ベックウィズ/ベックウィズ・シカゴ BECKWITH CHICAGO

ベックウィズ・ピアノ&オルガン社は、19世紀末にシカゴのシアーズ・ローバック社によって設立。
ベックウィズ社の楽器は、全米の通信販売カタログや大型店舗で広く販売された。
シアーズ・ローバック社の製品が今日のように有名になったのは、高い品質と優れたマーケティング、
そして販売カタログの普及があったからである。

シアーズ・ローバック社は長年にわたり、ベックウィズ、シアーズ・ローバック社、アメリカン・ホーム、
メイウッド・ピアノ・カンパニー、ビバリー・ピアノ・カンパニー、
コールドウェル・ピアノ・カンパニーなどの名称でピアノやオルガンを製造・販売していた。
ベックウィズのピアノは、シアーズブランドの中でも最も人気があり、何千台も販売された。

シアーズは通販カタログでピアノを販売していたので、通常は列車や馬車で国の最果ての地にピアノを送っていた。
暑い、寒い、湿っている、乾いているなどの過酷な気候の中で、メーカーはピアノの耐久性を保証。
ベックウィズ社は25年間の保証をしていたので、非常に丈夫でよくできたピアノでなければなりませんでした。

画像は「ローウェル様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
BECKWITHの鉄骨部分には、「ALL WORKMANSHIP GUARANTEED」や、
「WORKMANSHIP GUARANTEED BECKWITH CHICAGO」と入っているピアノなどがあります。
手作りピアノを前面にアピールしています。
BEHNING & SONS
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Behning & Sons ベーニング・アンド・サン
アメリカ(ニューヨーク) 創業1861年

1861年、ヘンリー・ベーニングが設立した「ベーニング・アンド・サン・ピアノ・カンパニー」は、
「ベーニング・ピアノ・カンパニー」と呼ばれていた。
1861年、ヘンリー・ベーニングがニューヨークに事務所と工場を設立したことにより、会社は繁栄し、
ヘンリー・ベーニングの楽器は非常に高い需要があった。

1864年から1878年にかけて、ヘンリー・ベーニングはAlbrecht Klinxと、Justus Diehlという
2人のビジネスパートナーを得た。その後、ヘンリーは息子のヘンリーを会社に加え、
社名を「Behning and Son」とした。会社が発展するに伴い、会社は移転し、
ヘンリー・ベーニングSr. はもう一人の息子、Gustaveを迎え入れた。

こちらが本家のベーニングです。
下記、朝日ピアノが販売するベーニングは中国が商標権を得て作り始めた別のピアノです。

BEHNING

BEHNING

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ベーニング  株式会社アサヒピアノ/(朝日ピアノ)

静岡県浜松市豊町3513-2にあるアサヒピアノのブランド。
中国製造、中国人社長

<朝日ピアノHPより>
Henry Behning(ヘンリー・ベーニング)
ドイツのハノーバーで1832年に生まれヨーロッパ各地でピアノ製作技術を学び1856年に渡米。
1861年からHenry Behningピアノの製作を開始。
1880年に2代目のHenry Behning Jrをパートナーにして、社名をHenry Behning & Son社と改称。
1894年Henry Behning Piano Companyに社名変更。
日本ではWeber社との提携によりアサヒピアノが製造元となってお届けしています。

こちらのベーニングは朝日ピアノが販売する中国が商標権を得て作り始めた別のピアノです。
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BEHNING & KLIX 詳細不明
BEHNING & SONS 詳細不明
BEHR BROTHERS
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Behr Brothers ベーア・ブラザーズ/ベア・ブラザーズ
アメリカ(ニューヨーク) 1881年創業

<歴史>
ベーア・ブラザーズ・ピアノ・カンパニーは、1881年にドイツ出身のヘンリーとエドワードの
ベーア兄弟によって設立。
ニューヨークにあった彼らの工場は非常に大きく、30年近くに渡って大量のピアノを生産していました。
その工場では、ウォルドーフ(Waldorf)のピアノも製造していた。
ベーア兄弟は、1910年にピアノメーカー大手のコーラー社とキャンベル社に買収されるまで、
この名前でピアノを生産し続けた。

ベーア・ブラザーズのピアノは、エドタール・レメニ、モーリッツ・モスコフスキ、
グザビエ・シャルヴェンカなどの業界の著名人から絶賛され、
当時の最高水準の楽器としての地位を確立しました。
ベーア社のピアノには、グランドピアノ、アップライトピアノ、そしてプレーヤーピアノがあります。
これらの楽器は、美しい音色に加えて、凝ったデザインと優れたクラフトマンシップが評価されています。
BEKKER 詳細不明
BELARUS


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BELARUS ベラルーシ ロシア(旧ソ連)製

ソ連製でよくある「RAZNO」製です。
他のあらゆるRAZNO製(チャイコフスキーやウラジミール、ベリョースカ等)のピアノを
これまで多数調律してきたことがありますが、作りは正直言ってイマイチな感じです。
あと何と言ってもこのソ連製のRAZNOピアノは、突き板(外装)の剥がれがかなり酷いです。
日本の高温多湿の気候に合わないのでしょう。

その他詳細不明

<参考>
ピアノブランドの名称がロシア(ソ連)とは別国家の名称「ベラルーシ/BELARUS」ですが、
かつてのベラルーシはソビエト連邦の構成国家の一つとして機能していました。
その後、ベラルーシ共和国はソビエト連邦の崩壊によって同連邦から独立を果たしました。

トレードマーク(下)の画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
BELEHREDEK 詳細不明
BELL ベル イギリス 詳細不明
BELL PIANO & ORGAN CO.

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カナダ(グルエフ) ※グルエフはカナダのオンタリオ州にある都市

ピアノの鉄骨部には、「BELL PIANO & ORGAN CO LIMITED GUELPH CANADA」
と書いてあります。その他詳細不明

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
BELLAK & SONS 詳細不明
BELLMAN Estey Piano Corporation
→詳しくは「Estey」の項目へ
BELLMONT 詳細不明

BELTON

BELTON



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BELTON ベルトーン 
※スペルはBELTONEではない

製造元:冨士楽器製造株式会社(浜松)、ベルトーンピアノ研究所/ベルトーンピアノ製造株式会社(浜松)
発売元:内外ピアノ社(当時の住所:千代田区神田神保町1-1)
※現在の三省堂書店本社(明治14年創業)と同じ住所なので、同じビル内に内外ピアノ社があったのか?

昭和7年から浜松の天竜川筋の富士楽器製造で作られていたピアノです。
戦時中に軍需工場に転換したが昭和22年にピアノ製造を再開して、
沢山清次郎氏の指導を受け飛躍的に製品が良くなったとのこと。社長は野田満氏。

ベルトーンには愛好者が多く、アップライトの上パネルの一部に
開閉できる装置を付け(特許No481852)、また沢山清次郎氏の発明による
ペダルスプリングの強弱調整装置(特許No453845)を取り付け等の
さまざまな工夫が凝らされていました。 
ペダルスプリングの強弱調整装置の写真 →★ (この写真はクリーベルピアノに付いているものです)
ペダルスプリング強弱調整装置(拡大写真) →★  (この写真はウィスタリアピアノに付いているものです)
沢山清次郎(さわやま・せいじろう)氏のイニシャルを取ってネジ部分にS.Sと入っていますね。
※ちなみにこの強弱調整装置ですが、私の実感としてさほど強弱を変えられない印象です。

ベルトーンピアノは珍しくフレームの下部にもこのようなマークが入っております →★
E.S.T.D. →established 創立・創業
1932 →1932年(昭和7年)
F.G.S. →富士楽器製造
K.K. →株式会社

ちなみに芸大教授でもあったピアニスト、レオニード・クロイツァー氏によって
ベルトーンと命名されたと言われています。
→フレーム内の 「”BELTON” NAMED BY PROF. LEONID KREUTZER」 と命名由来が書かれた部分 →★

ベルトーンの調律検査記録カード →★ ※「富士」ではなく、上に点がない「冨士」なんですね(詳細不明)
ベルトーンアクションに貼られたシール →★  ベルトーンの響板にあるデカール →★ ※
※こちらにはEstablished1937年となっています。1932年と書いてあるピアノもあれば1937年もあり。詳細不明。
このベルトーンピアノは平成24年に日本力行会りっこう幼稚園様(練馬区)へ寄贈させて頂きました →★

ベルトーンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BENEDICT BROTHERS 詳細不明
BENJAMIN 詳細不明
BENKERT 詳細不明
BENNINGTON 詳細不明
BENSTED AND SONS, H.G. 詳細不明

BENTLEY

BENTLEY

BENTLEY

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ベントレー/(ベントリー)

イギリス製(ロンドン)
1906年創業したメーカーで、1991年には生産台数16万台を超えました。

1台しか調律したことがありませんが、音量・ダイナミックにやや頼りなさを感じます。
音色は古いボールドウィンピアノ(アメリカ製)に近い感じですね。
ちなみに車メーカーで有名なあのベントレーとは関係ありません。

<歴史>
ベントレーのブランド名のピアノが初めてショールームに展示されたのは1930年だが、この人気のある
イギリスのメーカーの経営者ダグラス・グローヴァーは、ピアノメーカーの3代目だった。
そのグローヴァー・アンド・グローヴァー社は1830年頃に設立され、多いときには年間500台ほどの
楽器を生産していた。
1906年、ダグラス・グローヴァーが家業を継いだのがベントレーの始まりである。
1911年、ダグラスは思い切って店をロンドンからコッツウォルド丘陵にある使われなくなった紡績工場へ移転。
それからそこはストラウド・ピアノ・カンパニーとして知られるようになった。
ウッドチェスター・ミルの町は移転先としては完璧な立地で、絵のように美しいその場所に1605年からある
5階建ての工場には、1788年に国王ジョージ3世も訪れたことがあったという。
1920年代に生産量は増大し、1930年にダグラス・グローヴァーと息子のリチャードは、
ステューディオという新しいアップライトピアノをベントレーという新たなブランド名で売り出した。
そのピアノはすぐに人気となり、4年後には116cmのグランドピアノも生産するようになる。
ベントレー社は年間3000台のピアノを生産するまでになったが、1938年に工場が火事に遭い、
工場の大部分と機械類が焼けてしまう。それから1週間のうちにベントレー社は道を挟んだ向かい側の
小さな工場へ移った。ベントレー社はイギリスのほかのピアノメーカーなどの助けを借りて、なんとか
9ヶ月後には元々の生産レベルを取り戻した。
第二次世界大戦後、ベントレー社はアクションや鍵盤、響板、ピン板、低音部分に使われる巻線弦などを
自社で作るようになり、事実上すべての部品が自給自足可能になった。
そしてピアノを外国へ輸出して国益を支えるようになり、リチャード・グローヴァーはその貢献を称えられ、
1969年に大英帝国勲章を授与された。
ダグラスのひ孫のデイヴィッド・グローヴァーがドイツでの修行を終えて1962年に経営に加わり、
人気のあったステューディオに代わるコンパクトというピアノを1963年に新たに設計した。
このピアノも人気を博し、1980年代にベントレー社は、その多様な製品によってヨーロッパの代表的
ピアノメーカーとしての地位を確固たるものにした。
ところが、1989年にベントレー社の工場はふたたび火事に見舞われ、生産エリアの40%を失う。
その後、工場はその歴史ある場所に再建された。
1993年、ベントレー・ピアノ・カンパニーはウェルプデール・マックスウェル・アンド・コッド社に買収され、
サウスロンドンの工場へ移された。
2000年にブリティッシュ・ピアノ・マニファクチャリング社が形成され、現在、ベントレー・ピアノは、
コッツウォルド丘陵の元の工場で、オリジナルの仕様で生産されている。

ベントレーの蓋部分の銘柄マーク →★  ベントレーアクション →★
ベントレーのジャックフレンジは樹脂製です(※ジャック自体が樹脂製は良くありますがフレンジは珍しい) →★
ベントレー下パネを開けた部分のフレームに刻印されたブリティッシュメイドのマーク →★

<附録>
ベントレー・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1920年~2000年) →★

ベントレーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BERDEN 詳細不明
BERDUX V. BERDUX ベルデュックス ドイツ(ミュンヘン)
HOF-PIANOFORTE-FABRIK
詳細不明
BEREGSZASZY 詳細不明
BERGER 詳細不明
BERGMANN 詳細不明
BERNHARD STEINER 詳細不明
BERLIN
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ベルリン
阿部ピアノ製作所(浜松)、ベルリンピアノ製造株式会社
その他詳細不明
BERNE ベルネ スイス 詳細不明

BERNSTEIN

BERNSTEIN

BERNSTEIN

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BERNSTEIN バーンスタイン

浜松ピアノ製造株式会社で製造されていたブランド(当時の住所:浜松市和田町552-3)
のちに協立楽器が販売元になりました。
有名な指揮者である「レナード・バーンスタイン」を連想させる名称を使っているものと思われます。

■機種/モデル バリエーション
TB-220、TB-660、B-127、B-131
BU230、BU350、BU380、BU550、BU850、嵯峨野など(協立楽器販売器種)

バーンスタインピアノの保証書 →★  バーンスタインのまくり(ふた部分)の銘柄マーク →★
バーンスタイン親板内側に貼られた、ドイツ製ハンマーであるABEL(アベル)の使用を示す表示 →★

バーンスタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BERNSTEIN WOLF 詳細不明
BEROLINA ベロリーナ ドイツ(ベルリン) 詳細不明
BERRY 詳細不明
BERYOZKA





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ベリョースカ BERYOZKA
ロシア(ソ連) 詳細不明

他のソ連製ピアノにもよくあるRAZNO製です(チャイコフスキーやウラジミールなど)
このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。
突き板が剥がれてきたピアノはこんな感じになります(ソ連製はみんなこんな感じです) →★

ベリョースカピアノのまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄マーク →★

BETTING



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TH.BETTING ベティング/ベッティング

1887年創業 ポーランド(レグニツァ) その他詳細不明

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
BEULHOFF 詳細不明
BEYER
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バイエル 日本 阿部ピアノ製作所 その他詳細不明
BEYER-RAHNEFELD 詳細不明
BIBER 詳細不明
BIDDLE 詳細不明
BIEGER 詳細不明
BIESE, W. 詳細不明
BILLBERG 詳細不明
BIRKE, WILLY 詳細不明
BIRNBAUM 詳細不明
BISHOP 詳細不明
BJUR BROS. 詳細不明
BLASIUS
BLASIUS & SONS

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アメリカ(フィラデルフィア) 1888年創業
フィラデルフィア・ブラシウス・アンド・サンズ・カンパニー

彫刻が施された芸術的なピアノもあり
BLENHEIM 詳細不明
BLONDEL, A. 詳細不明
BLONDEL, G. 詳細不明
BLUCHNER ブルックナー 大洋楽器工業株式会社
BLUEBELL


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ブルーベル

光輪楽器研究所(浜松) 昭和31年に設立された工場で、丁寧に作られたピアノであった。
昭和38年以降は記録なし。その他詳細不明。
BLUEBIRD ブルーバード 天龍楽器製造株式会社
スペルが「BULEBIRD」としている資料もありますが詳細不明
BLUEGHEL BRUEGHELが正しい →BRUEGHELの項目へ
BLUESTAR
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ブルースター 日本 詳細不明
BLUTHNER
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ブルツナー 広田ピアノ株式会社

1文字違いで「BRUTHNER」という大洋楽器工業株式会社のピアノもありますが別のピアノです。

※ちなみに名称が似ていますがこれも別ピアノで「PRUTHNER/プルツナー」という
そこそこ有名で広く出回っているピアノもあります。詳しくは→PRUTHNERの項目へ
BLUE STEIN
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ブルー・スタイン BlueSteinpiano Manufacture & Co.
詳細不明
BLUTE/BLÜTE

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BLÜTE ブリューテ 大成ピアノ製造株式会社

詳細不明

トレードマーク画像は「ハン コウキョウ様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

BLÜTHNER
BLUTHNER

BLUTHNER

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BLUTHNER(BLÜTHNER) ブリュートナー/(ブルッツナー、ブリュットナー)

ドイツ(旧東ドイツ)旧東ドイツ国家公団(ライプツィヒ) 創業1853年。
高音部に4本目の打弦されないピアノ線を張ったアリコート弦(アリコート・スケーリング)を採用。
1872年に特許を取得。この打弦されない弦は自由に共振し、ピアノの高音域に豊かな倍音を与える。
このアリコート弦は実際に鳴らされる音の1オクターブ上に調律される。
作曲家のドビュッシーは、これを誇らしげにピアニストのモリス・デュメニルに見せていたそうだ。

初期の頃のアップライトピアノはオーバーダンパー方式(鳥かご式アクション)を採用しているものがあります。
参考:鳥かご式アクション写真 →★

品質の良い、手仕事生産のピアノで温もりのあるバランスのとれた音色のピアノで、均質な音色にするため、
ハンマーシャンクは取り付ける前に打撃音の音程を揃えるなど、多くの手間がかけられている。
木材は厳選されており、パイン材はメクレンブルク産、ビーチ材はドイツ低山地のもの、スプルース材と
メープル材、ならびにアルダー材は東アルプス産が用いられている。
総一本張りで調律の安定性が向上しており、弦が切れた際の処置がしやすいという利点がある。
ブリュートナーが特許を持つアクションは、1920年代までグランドピアノに採用されていた。

<歴史>
ドイツ・ファルケンハイン(現在のモイゼルヴィッツ)の家具職人だったユリウス・ブリュートナー
(JULIUS BLÜTHNER)は1853年にピアノ製作工場を設立した。
ブリュートナーは限られた資金で開業したものの、そのピアノは1854年にミュンヘンで開催された
産業博覧会で好評を博し、それをきっかけにライプツィヒ音楽院内のピアノを製作するように依頼される。
まもなくして、ブリュートナーピアノの品質の高さは世界中に知られるようになった。
1864年にはアップライトの生産が始まり、従業員137人の会社はライプツィヒ郊外の大きな工場へ移転。
19世紀の終わり頃には、ブリュートナー社はヨーロッパで2番目に大きなピアノ製造会社に成長し、
約5万台を生産するようになる。すべてのピアノは工場から出荷される前にブリュートナー自身によって、
チェックされていたと言われている。

1910年にユリウス・ブリュートナーが亡くなると、会社は息子のマックス・ロベルト・ブルーノが受け継ぎ、
第二次世界大戦までは着実に規模を拡大していったが、戦争中の空襲で工場は破壊されてしまった。

戦後、会社はルドルフ・ブリュートナー=ヘスラーによって再建が開始されたものの、復興には何年もかかった。
東ドイツ政府の管理の下、ブリュートナー社は一時期、ベヒシュタイン社と共同の施設を使用していた。
こうした組織上の問題はあったものの、ブリュートナーのピアノは昔と変わらず手仕事で製作されたため、
かつて賞賛された品質を損なわれることはなかった。
1935年、ドイツ海軍本部はブリュートナー社に対して、飛行船ヒンデンブルク号の中で演奏するための
軽量化されたグランドピアノの製造を依頼し、この飛行船内の演奏はラジオで放送され、ブリュートナーへの
人々の関心が一気に高まったというエピソードも残っている。

ブリュートナー社は1989年に再び民営化され、世界中の音楽愛好家に大切にされてきた
ブリュートナーは、今もライプツィヒで製造されている。
現在会社を率いるのは、ユリウス・ブリュートナーの玄孫(やしゃご/ひ孫の子)イングベルトと、
来孫(らいそん/玄孫の子)のクリスティアンとクヌートである。

※ブリュートナーピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★
ブリュートナーピアノの製造番号/製造年代 対照表(1853年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ユリウス・ブリュートナー・ピアノフォルテファブリック (Julius Blüthner Pianofortefabrik)GmbHは、
ドイツ・ライプツィヒにあるピアノメーカーである。
C・ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、スタインウェイ・アンド・サンズと共に、
たびたび世界四大ピアノメーカーの一つと言われる。
「ブリュートナーのピアノは本当に歌う事が出来、そしてそれはピアノにとって最高の褒め言葉である」と
書き残したのは、20世紀最高の指揮者ともいわれるフルトヴェングラーである。
ブリュートナーの特長の一つにアリコートシステムという独特の弦構造がある。
通常の他社製ピアノは、1音に対して、弦が3本張られているが、ブリュートナーのピアノは、
高音部にアリコート(共鳴弦)と呼ばれる4本目の弦が張られている。
この4本目の弦はハンマーで打たれることはなく、共鳴させるためだけに張られており、
この共鳴によって倍音が増幅される構造である。
この4本目の弦は、3本の弦の上部に貼られ、独立した駒を経て響板を振動させていたが、
最近のモデルでは、4本が同じ高さに一列に配置されており、豊かで純度の高い高音を実現している。
1853年、ユリウス・ブリュートナーによってドイツのライプツィヒで創業された。
そして、1872年にアリコートの特許を取っている。1867年から1905年にかけ、
パリ、ウィーン、シドニー、メルボルン、アムステルダム、ケープタウンにおいて各博覧会の
ファースト・プライズを受け、1900年のパリ、1904年のセントルイス、1910年のブラッセル、
1927年のジュネーブでグランプリを獲得するなど世界的に名声を獲得してきている。
1938年に飛行船に乗せるために、アルミ製のきわめて軽いグランドピアノが作られ話題になる。
第二次世界大戦中の1943年には、他の多くのドイツのメーカーがそうである様に、
工場が空襲で焼かれ屋根は焼け落ち楽器はもちろん材料となる木材もすべて焼き尽くされたといわれる。
その後市場にピアノを送り出すまでに回復するには1948年まで待たなければならなかった。
また東ドイツ時代には一時国営化されたが、1990年の東西ドイツ統一を期に経営権はブリュートナー家に返還。
その後順調に業績を伸ばし、2005年にはヨーロッパにおけるコンサートグランドピアノの販売台数が、
2番目に多いという記録を作るまでになっている。
イギリスのヴィクトリア女王を始め、ドイツ国内はもちろんオーストリア、デンマーク、ギリシャなどの
多くの皇室にも納品される。ブラームス、リスト、チャイコフスキー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチ、
プロコフィエフなどの多くの有名な作曲家、ブゾーニ、アラウ、ルービンシュタイン、プレトニョフなどの
ピアニスト、そのほかヨハン・シュトラウス2世、フルトヴェングラー、メニューイン、マルケヴィッチなどの
音楽家からも高く評価されている。
なお、クロード・ドビュッシーが唯一自ら購入して愛用していたのがブリュートナーであり、
ブリュートナーを使って作曲していた。
そのほか、ビートルズの「レット・イット・ビー」でポール・マッカートニーが弾いているのは
ブリュートナーである(セッション風景を撮影した映画「レット・イット・ビー」の映像などで確認できる。
ちなみに、これはアビー・ロード・スタジオの所有である)。
フジ子・ヘミングはブリュートナーを所有しており、彼女を取り上げたNHK番組でも演奏シーンが撮影された。
中国のピアニスト牛牛もブリュートナーを使用している。
また、近年では、録音でブリュートナーを使用する世界的ピアニストが増えてきている。
なお、2007年11月までは株式会社浜松ピアノセンターが日本総代理店として販売していたが、
倒産により一時的に販売網が絶たれた。しかし2008年5月1日付けで、ブリュートナー社からの任命により
有限会社ピアノクリニックヨコヤマが日本総代理店を引き継ぎ、正規流通が復帰した。
2018年現在、6種類のサイズ(154–280 cm)のグランドピアノと5種類のサイズ(116–145 cm)の
アップライトピアノを製造している。ブリュートナーブランド以外にもBlüthner-Haesslerアップライト、
Haessler(ヘスラー)グランドおよびアップライト、そして2つのIrmler(イルムラー)製品ラインを
ドイツ工場で作っている。
ブリュートナー公式HP:http://www.bluethnerworld.com/
BLÜTHNER-HAESSLER 上記BLÜTHNERの項目を参照
BOARDMAN, GRAY & CO. 詳細不明
BOCAGE 詳細不明
BOCK & HINRICHSEN 詳細不明

BOCKLER

BOCKLER

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ベックラー BÖCKLER(BOCKLER)

販売:アポロ販売株式会社(東洋ピアノ製造株式会社)
ドイツ人が設計と謳っている韓国三益製です。

当時、販売は東洋ピアノ製造株式会社(アポロピアノ)が取り扱っていたようです。
機種:AH-28等

※東洋ピアノが扱っているCHARIS(チャリス)というピアノのトレードマークと同じなのが分かります。

ベックラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい →★
BOG & VOIGT ドイツ 詳細不明
BOGART 詳細不明
BOGS & VOIGT 詳細不明
BOHEMIA
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ボヘミア 中国(チェコとの広告あり) 詳細不明
BÖHME & SOHN 詳細不明
BOISSELOT & FILS 詳細不明
BOLAND
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ボーランド 香港(中華人民共和国特別行政区)
販売会社名:香港博兰德钢琴有限公司 その他詳細不明
ホームページ:http://www.bolandpiano.com/

ホームページに掲載してあったブランド紹介文の翻訳

19世紀半ばにドイツで設立された "Boland"ブランドのピアノは優雅なサウンドと高度な職人技、
そして優れたパフォーマンスで有名で世界のトップ10の有名ピアノブランドの一つです。
German Boland Pianoは、西ドイツで最も有名なピアノの製造会社で、 "German Piano City"として知られる
Brunswickにあり、100年以上前から、最高品質のピアノを製造してきました。
香港Boland Pianoは、北米市場以外の東南アジアで最も早いBOLANDピアノのライセンサーであり、
世界の金融センターにある香港には、会社の将来の発展に対する強力な保証とサポートを提供するのに
十分な人的資源と情報ネットワークがあります。市場は依然として伝統的なバイオリン製造技術を遵守しており、
各ピアノはドイツの技術者によって厳密にテストされ、すべての製品が優れた性能を発揮することを確認。
厳密にドイツのピアノ業界標準の生産、音、音質、感触、技術的な指標や生産プロセスのすべての種類では、
スタイルは純粋なドイツの降下、ヨーロッパのモデルです。
BOLERO


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BOLERO ボレロ 東海楽器製造(株)

東海楽器ピアノのトレードマークは左記画像のように2種類あります。
ちなみに東海楽器製造の”HUTTNER”などと同じです。

<東海楽器が製造したブランドを列挙いたします>
■ TOKAI(トーカイ)
■ BOLERO(ボレロ)
■ SILBER STEIN(シルバースタイン)
■ HUTTNER(ヒュッツナー)
■ GOLD STAR(ゴールドスター)

※東海楽器についての詳しい解説は、TOKAI(トーカイ)の項目を参照
BONNARD


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ボナール BONNARD
※ブランド名の綴りが「BONARE」となっている別資料もあり(要確認)

製作:大友楽器研究所(大友ピアノ研究所)
販売:アメリカヤ楽器店
大友雅雄氏が製作(協力:松永栄二氏)

別資料では、日米商会(発売元)、大友ピアノ工房(製作)という情報もあり
BÖRS, OTTO 詳細不明
BORD, A. 詳細不明
BORGATO, LUIGI 詳細不明

BOSENDORFER

BOSENDORFER

BOSENDORFER

BOSENDORFER

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ベーゼンドルファー BÖSENDORFER (BOSENDORFER)

オーストリア 創業1828年(1827年) ジャスパーコーポレーション
※2008年にヤマハの傘下企業に。

1827年から、ベーゼンドルファーのピアノは世界中の偉大な作曲家や演奏家によって弾かれ、
賞賛され続けている。世界でもっとも製作に時間をかけるピアノメーカーとして、
ほかのメーカーとの違いを強調するべーゼンドルファー社は、グランドピアノを完成させるのに
4年もの時間をかけるが、その期間の半分は木材のシーズニングに費やされているという。

中音~高音のミュージックワイヤーがすべて1本張り(ループ弦)を採用しているのが特徴。
また、フラッグシップモデルの290インペリアルでは鍵盤の数が97鍵もあります。
通常のピアノは音域A0~C8(7オクターヴと3度)ですが、インペリアルでは
音域C0~C8で完全な8オクターヴもあります。
この黒く塗られた部分をエクステンドキー(エクストラベース)といいます。→★
これらのエクステンドベースが弾かれることは滅多にないが、
響板と駒が拡張されることで、通常の低音域の音に力強さと共鳴が加わる。
ピアニストの混乱を防ぐため、演奏中、このエクステンドキーは蓋で覆われている。
グランドのリム(側板)には堅いスプルース材が用いられており、響板の延長として機能し、
このリムとスケールデザインによって、甘く優しい高音と、基本周波数が強く鳴る低音が実現。

<歴史>
イグナーツ・ベーゼンドルファーは1794年にウィーンで生まれる。
当時ウィーンはヨーロッパ最大の文化都市であり、多くの演奏家や作曲家の本拠地だった。
ベーゼンドルファーは、名高いオルガンとピアノ製作者だったヨーゼフ・ブロッドマン(ブロートマン)
のもとで見習い修業を積んだあと、1827年に会社を設立、1828年にピアノを作り始める。
(ちなみにブロートマンはウェーバーが愛用していたピアノの製作者である)
その2年後(1830年)オーストリア皇帝から「宮廷及び会議所御用達のピアノ製造者」の称号を授けられた。
ベーゼンドルファーが作る楽器は品質が高く、造りが頑丈であったが、当時弱冠17歳だった
フランツ・リストがコンサートグランドを演奏会で弾いたことで、会社の名声は一気に高まった。
リストは単にこの楽器の音色が気に入ったのではなく、そのピアノはリストの激しい演奏スタイルにも
無傷で耐えられるほど頑丈だったのだ。こうしてベーゼンドルファ一はほぼ一夜にして、
世界のピアノメーカーのトップに上り詰めた。
1859年にイグナーツ・ベーゼンドルファーが亡くなると会社は息子のルートヴィヒに引き継がれた。
ルートヴィヒは会社をもっと大きな工場地へ移すが、成長は続いていき、1870年にはさらに広大な敷地へと
移転しなくてはならなかった。そこがウイーン第4区の現在の会社の所在地である。
ルートヴィヒには直系の子孫がおらず、1909年に引退するのを機に、会社を友人の
力ール・フッターシュトラッサ一へ売却した。
そして1931年には、その息子のヴォルフガングとアレクサンダーが受け継いだ。
1920年代の中頃まで、ベーゼンドルファー社は年間わずか数百台のピアノしか製作していなかった。
大恐慌になると生産高は急激に落ち込み、第二次世界大戦末期の数年間は、激戦で社屋が破壊されて
完全に生産が止まった。戦時中、蓄えてあった木材やピアノは薪にされてしまったという。

戦後の復興はなかなか進まず、1950年までは生産高が年間100台を超えることはなかった。
その後、1966年にキンボール・インターナショナル社の社長アーノルド・H・ハビッグが
べーゼンドルファ一社を買収する。
ベーゼンドルファー社の専門技術を活かし、キンボール社のピアノに新たな息吹を吹き込む狙いからだった。
この買収は一般的な買収と違い、両社にとって極めて有意義なものとなり、2002年1月にベーゼンドルファ一社が
キンボールとの提携を解消するまでその関係は続いた。
その後、オーストリアの銀行グループ、バーヴァック(BAWAG-P.S.K.オーストリア労働経済郵便銀行)
の支援を受け、ベーゼンドルファー社は、世界最高品質のピアノを製作する偉大なメーカーの地位を
完全に取り戻した。

ベーゼンドルファーは、ピアノメーカー御三家の中の1つに数えられるメーカーです。
ピアノ御三家とは→スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインのことを指します。

■機種/モデル バリエーション
モデル170cmグランド:鍵盤数88鍵
モデル200cmグランド:鍵盤数88鍵
セミコンサートグランド225cm:鍵盤数92鍵
フルコンサートグランド275cm:鍵盤数92鍵
フルコンサートグランド290cm:鍵盤数97鍵
1989年(平成元年4月)のプライスリストでは価格12,420,000円で当時スタインウェイよりも高価でした。

アップライトピアノ130studio:鍵盤数88鍵(高さ132cm)

ベーゼンドルファーの響板に書かれたサイン →★

<附録>
ベーゼンドルファー 製造番号/製造年代 対照表(1828年~1986年) →★
<上記データより新しい製造番号> 1990年・・・40384  2001年・・・45965

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
L. ベーゼンドルファー・クラヴィアファブリック(L. Bösendorfer Klavierfabrik)GmbHは、
オーストリアに所在するピアノ製造会社である。2008年からはヤマハの完全子会社。
標準的な88鍵のピアノに加えて、低音部が拡張された92鍵および97鍵のピアノを製造していることで知られる。
1828年、オーストリア・ウィーンにてイグナーツ・ベーゼンドルファーにより創業された。
以来、各国の帝室や王室の御用達として選定されたり、産業博覧会で入賞したりするなど、
名声を高めていく。第二次世界大戦後の一時期、経営難に陥って経営が
アメリカの企業体に移ったこともあったが、2002年にオーストリアの銀行グループである
オーストリア労働経済郵便銀行が経営権を取得して、名実ともにオーストリアに復帰した。
しかし2007年再び経営難に陥り、2008年にヤマハの子会社となった。
ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで
多くのピアニストや作曲家の支持を得て、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、
その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。
ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。
ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。
最近のピアニストではアンドラーシュ・シフ、パウル・バドゥラ=スコダ、イェルク・デームス、
フリードリヒ・グルダ、ギャリック・オールソン、ヴァレンティーナ・リシッツァも
ベーゼンドルファーのピアノを好んで用いている。
また、スヴャトスラフ・リヒテルも何枚かの録音を残している。
かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの
公式ピアノの一つであったが、のちにヤマハとカワイとファツィオリが採用されたことにより
公式ピアノから除外された。ウィーン・ベートーヴェン国際ピアノコンクールでは、
使用ピアノがベーゼンドルファーだけと決まっている。
「インペリアル」とも呼ばれる最上位機種のフルコンサートグランドピアノ「モデル290」が
ベーゼンドルファーの代表機種で、標準の88鍵の下にさらに4〜9組の弦が張られ、
最低音を通常よりも長6度低いハ音とした完全8オクターブ、
97鍵の鍵盤(エクステンドベース)を持つピアノとして有名である。
これはフェルッチョ・ブゾーニがJ.S.バッハのオルガン曲を編曲したとき、
低音部に標準のピアノでは出せない音があったため、ルードヴィッヒ・ベーゼンドルファーに
相談したことが始まりと言われている。エクステンドベースが追加されたことによって
弦の響板が広がり、共鳴する弦も増えて中低音の響きが豊かになった。
しかしそのため、しばしば一部のピアニストからは「中低音の響きは豊かだが、
高音とのバランスを考えて弾かなければならず、弾きこなすのが難しいピアノだ」と言われる。
以前は、拡張域の鍵の部分に小さな蓋を付けることで、一般の曲の演奏時に誤打を防いでいたが、
現行品では白鍵も黒くすることで区別している。音色は至福の音色と呼ばれる。
ベーゼンドルファーのピアノは1年以上の月日をかけて全工程を手作業で作られている。
代表的なモデルでは井形に組まれた強固な支柱の上にスプルース材のブロックを積み上げて
インナーリムを製作し、それに比較的薄いスプルースからなるアウターリムを張り合わせることで、
ピアノ全体がスプルース材を介して豊かな中低音を響かせる設計となっている。
現在までにベーゼンドルファーが生産したピアノは50,000台ほどで、
およそヤマハの100分の1、スタインウェイの10分の1である。
市場拡大のため、それまで経済的な理由で同社の標準モデルを導入できなかった
大学などの教育機関向けにコンサーヴァトリーシリーズ(Conservatory Series)を設計した。
生産の過程で「non-critical areas」と呼ばれる生産ラインに依存する時間を短縮することで
生産コストを削り、標準モデルより安価に提供できるシステムを構築している。
ベーゼンドルファーの創立170周年や175周年にフランツ・シューベルトや
フレデリック・ショパンなどの有名な作曲家にちなんで名付けられ、設計された特別、
限定モデルのピアノなどがある。近年の特別限定モデルとしては、
オーストリアの画家グスタフ・クリムトの代表作「KISS」を天板にあしらった
クリムトモデル、ベートーベンの月光の自筆楽譜をあしらったベートーベンモデルなどがある。
また、2013年、生産台数5万台到達を記念して1台限定生産の5万台記念モデルが造られている。
ベーゼンドルファーは100年以上前から著名な建築家やデザイナーを起用した特別モデルを制作している。
1866年にウィーン楽友協会等の設計で知られる建築家のテフォイル・ハンセン(Theophil Hansen)、
1909年にヨーゼフ・ホフマン、そのほかJosef Frank、フェルディナント・アレクサンダー・ポルシェや
アウディのデザインスタジオ等がベーゼンドルファーのピアノをデザインしている。
1990年に建築家のハンス・ホラインがデザインしたベーゼンドルファー・インペリアル・
グランドピアノは世界に2つしかない。1つはアメリカ、フロリダ州オーランドの
ウェスタン・グランド・ボヘミアン・ホテルにあり、もう1つは中国の上海にある。
1つ目のオーランドにあるピアノは1本の木の80%が使用され、それぞれの真鍮脚には
一本あたり約160万円の価値があるとされ、2つあるホライン設計のピアノには
それぞれ約3000万円の価値があるとされる。
日本国内では、過去に総代理店として日本ベーゼンドルファーが本社(静岡県磐田市)のほか
東京都中野区、大阪市淀川区の三カ所にショールームを所有していた。
本社ショールーム内に設けられているアンティークピアノのコレクションは
ベーゼンドルファーのみならずベートーヴェンの時代のジョン・ブロードウッドや
ショパンの時代のプレイエル、エラールなどの有名ブランドの他に、ピアニストの
アルフレッド・コルトーが所有していたダブルグランドピアノやジラフピアノといった
極めて珍しい形のピアノもコレクションされていた。
しかしウィーン本体側がヤマハに買収されたことにより2007年11月27日付で
日本ベーゼンドルファー(株式会社浜松ピアノセンター)は倒産し、
各地のコンサートホールの運営ならびに調律、修理などの事業は株式会社ビーテックジャパンに
引き継がれ、ベーゼンドルファーの技術メインテナンス会社として製品を維持している。
ヤマハが株式会社ベーゼンドルファー・ジャパンを発足し、東京都中野区に本社ショールーム、
静岡県浜松市にテクニカルサポートセンターを構え、東京、大阪に特約店を設置するなどした。
その後、2009年9月1日付けのベーゼンドルファー・ジャパン・グループ内のプレスリリースには、
株式会社ベーゼンドルファージャパンはヤマハ株式会社へ事業譲渡されると発表されている。
なお、2009年11月30日付のプレスリリースでは、テクニカルサポートセンターは、
静岡県掛川市に移転されたことが発表された。
2000年代初頭にオーディオ機器(スピーカー)の開発・製造をしており、日本国内では
オーディオ関連商社である株式会社ノアの手で輸入されていたが、ヤマハ傘下になり撤退した。
現在、ベーゼンドルファースピーカーの設計者が、創業者イグナーツがかつて在籍しており、
ヤマハとベーゼンドルファーの買収競争もしたオーストリアのピアノブランド、
ブロードマンに移り、Brodmann Acousticsとして販売されている。

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BOSTON

BOSTON

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ボストン BOSTON
所有:スタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズ・インコーポレーテッド
製造:株式会社 河合楽器製作所(日本)

ボストン・ピアノ・カンパニーは1991年に、最高音質のピアノを中価格帯で生産するために、
スタインウェイ・アンド・サンズとカワイが提携して作られた会社。
当時のスタインウェイ社の中心的なオーナーたちが、日本の河合楽器製作所に作らせたピアノです。
スタインウェイ社の経験を生かし、精巧なコンピューター技術を駆使して設計と材料のテストを重ね、
このボストンピアノの開発には6年の歳月が費やされたといいます。
ハイテクを使い、量産とコストダウンを目的に作られた楽器と言えるでしょう。
ちなみにBOSTONはグランドピアノだけでなく、アップライトピアノもあります。

■機種バリエーション(グランドピアノ)
グレードの高い順に、GP-215、GP-193、GP-178、GP-163、GP-156の合計5機種
※モデル内の数字はいずれもピアノの奥行き(cm)を表します
■機種バリエーション(アップライトピアノ)
グレードの高い順に、UP-132、UP-126、UP-118の合計3機種
※モデル内の数字はいずれもピアノ高さ(cm)を表します

<特徴>
ボストンのグランドピアノは、同サイズの他社のグランドピアノよりも後部の幅が特に広く設計されている。
これを「ワイドテール設計」と呼びます。
そのため、響板の面積が広く取れるため、音がより大きく鳴るとされています。
尚、デュープレックス・スケールにより、楽器自身の音に加えて、倍音による豊かな響きが加わるとのこと。
さらに、音の減衰を抑える(音を長く保持)させるため、スケールデザインは低めの弦長力で設計されている。
2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<附録>
ボストン 製造番号/製造年代 対照表(1991年~2000年) →★
ボストンの公式ホームページはこちら →★

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BOUDOIR
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ドイツ 読み方その他詳細不明
BOYD
BOYD LONDON
読み方:ボイド? イギリス(ロンドン) その他詳細不明
BRACKETT & ROBINSON 詳細不明
BRACKETT, J. W. 詳細不明
BRADBURY


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ブラッドベリ(ブラッドベリー/ブラッドブリー) BRADBURY PIANO CO. INC. アメリカ
※当方の考察では「ブラッドブリー」より「ブラッドベリ」の方が自然な発音と考えられますので、
下記解説ではすべて「ブラッドベリ」を使って説明します。

ブラッドベリは賛美歌や歌曲を多く残した作曲家ブラッドベリによって作り出されたピアノで、
その名が付けられた。コンパクトな美しい作りと、優れた音色を持っている。
主として家庭向きのピアノでモダンな形が多く、当時シカゴに販売店があった。 

ブラッドベリ社の歴史は、紆余曲折を経ている。
著名なピアニスト兼教師でもあったウィリアム・ブラッドベリは、1860年代にブラッドベリ・ピアノ・カンパニーを
設立する前は、ライト・ニュートン&ブラッドベリ・ピアノ・カンパニーに所属していた。
ブラッドベリ社は、もともと1848年にライト&ニュートン社として設立されたが、
1851年にウィリアム・ブラッドベリが同業者と組んで、ライト、ニュートン&ブラッドベリのグループを結成した。
そのわずか2年後、ニュートンがパートナーシップを離脱し、会社は解散した。
ブラッドベリのピアノは、その製造方法や材料のグレードの高さで評価されています。
彼は1950年までピアノの製造を続け、アルトリオ・アンジェラスの再生機構と
プレーヤー・アクションを自分の楽器に搭載する権利を獲得した。

1861年、ウィリアム・ブラッドベリは独立してブラッドベリ・ピアノ・カンパニーを設立した。
1865年、F.C.ライトはルイス・アーネストと提携してライト&アーネスト・ピアノ社を設立し、
1867年にブラッドベリが死去すると、F.G.スミスがこの会社を買収した。
1890年頃まで非常に優れたピアノを製造していた。

ブラッドベリのブランドは、後にマサチューセッツ州レオミンスターに工場を持つニューヨークの
W.P.ヘインズ&アンドが使用し、その後ブラッドベリのブランドは20世紀後半までウィンター&カンパニーで使用。

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、BRADBURYは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
BRADBURY, WM. B. 詳細不明
BRADFORD 詳細不明
BRADLEY
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ブラッドリー アメリカ(フォールリバー/Fall River, Massachusetts) 創業1900年頃

ブラッドリーピアノは、マサチューセッツ州フォールリバーで1900年頃創業した
International Piano Manufacturing Company
(インターナショナル・ピアノ・マニュファクチャリング・カンパニー)によって製造されました。
同社は1900年頃からブラッドリーピアノの製造を開始し、1926年まで製造を続けていましたが、
ブラッドレーピアノは25年ほどしか存在せず、生産量も多くなかったため、ほとんど知られていない。
BRAMBACH
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ブランバッハ アメリカ 創業1823年

1823年に設立されたブランバッハ・ピアノ社は、最も早くからピアノを製造していた会社の一つであり、
当時最大の規模を誇っていた。
ブランバッハの名でピアノを製造していたが、ブランバッハ・ピアノ工場では、
コーラー&キャンベル(Kohler & Campbell)やマシューシェク(Mathushek)など、
アメリカの有名なピアノメーカーのピアノを製造。
1920年代後半からはコーラー・ブランバックの名前を使い、
1933年以降はコーラー&キャンベルの製造番号が付いているものもあるが、
ブランバッハの名前は1957年に廃止された。

ブランバッハピアノの工場は非常に大きく、大量に生産することができた。
そのため、品質が落ちるのではないかと思われがちだが、実際にはそうではなく、
一般的にブランバッハピアノは安定した品質で、純粋な音色を持っていると言われている。
ブランバッハ・ピアノ社は、小さなグランドが一般家庭にマッチし、
より多くの愛好家に豊かでまろやかな音を届けることができると考え、
国内で最も小さなグランドを作ることに注力しました。
ブランバッハ・グランドピアノは、特許を取得したブランバッハ・トーン・エクスパンダーと
カスタム・サウンドボードを搭載していた。
このトーン・エキスパンダーは、フルサイズのグランドピアノと同じように、
音色の量を増やし、広げることができます。
ブランバッハ・プレーヤー・グランドは、ピアノとプレーヤー・メカニズムを組み合わせたもので、
その品質の高さを売りにしていた。
ブランバッハ・グランドに使われているアクションは、すべてブランバッハの工場で作られている。
このアクションは、現代の一般的なピアノの響板に比べて耐久性が高いことで業界内でも評価されていた。
ブランバッハ・グランドには、4フィート8インチ、5フィート5インチの3つのサイズがある。
BRANDTNER, H. RUDOLF 詳細不明
BRANSTON 詳細不明
BRASIL 詳細不明
BRASTED 詳細不明
BREITKOPF & HÄRTEL 詳細不明
BREMITZ 詳細不明
BRENTWOOD 詳細不明
BRETSCHNEIDER ,ALEXANDER 詳細不明
BREWSTER BREWSTER PIANO Co.
ROCHESTER-NEW YORK
詳細不明
BREYER 詳細不明
BRIEM 詳細不明
BRIGGS 詳細不明
BRINKERHOFF
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ブリンカーホフ アメリカ(シカゴ) 創業1906年

ブリンカーホフ社のピアノは、アメリカピアノの製造・販売の全盛期に製造されました。
1906年にウィル・T・ブリンカーホフによって設立され、1911年にイリノイ州シカゴで法人化されました。
ブリンカーホフ社は、伝統的なアップライトピアノ、プレーヤーピアノ、リプロダクションピアノ、
ミニチュアグランドなど様々な種類のピアノを製造し、1950年まで全米の多くのピアノを製造。
同社は当初、シカゴ通りとモーガン通りにある工場で、ブリンカーホフとシュリバー・アンド・サンズの
ピアノを製造していた。その後、M.シュルツ・アンド・カンパニーと提携して製造されたピアノには、
シュルツのシリアルナンバーが付いています。

ブリンカーホフ社のピアノはどれも美しい音色で、ケースのデザインも装飾性の高いものや
美しいシンプルな木製のものが多く見られます。ブリンカーホフのプレーヤーピアノは、
世界最高のアーティストが演奏しているかのように、ピアノが自動的に楽曲を表現することができる
特別な特許装置を備えていました。ブリンカーホフのミニチュア・グランドは、5フィートの大きさでありながら、
大きなグランドの音色を持っていると、多くのピアノ専門家に評価されています。
BRINKMANN 詳細不明
BRINSMEAD, JOHN 詳細不明
BRISTOL 詳細不明
BROADWAY 詳細不明
BROADWOOD & SONS


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ブロードウッド・アンド・サンズ

イギリス(ストラウド) ブロードウッドは多くの演奏者に愛用され、ヨーロッパ各地の王室に納入された。
1780年から1867年のブロードウッドの生産台数は驚異的で、13万5千台ものピアノが作られた。
ジョン・ブロードウッドはモダンピアノの音色や外観、演奏機構に大きな衝撃を与えたという。
ブロードウッドは一流の音楽家や熟練した同業者に囲まれ、永遠の価値を持つ革新的発想を生むための
最高の環境に恵まれたのである。

1783年、ブロードウッド社は2本ペダルのピアノの製作を開始した。
片方のペダルはダンパーを弦から離すもので、もう片方は弦に柔らかい布を当てて
音を弱めるものだった。それまでの操作しづらい膝レバーは、これらのペダルに
取って代わられた。1817年にトーマス・ブロードウッドはウィーンのベートーヴェンを訪ね、
翌1818年にグランドピアノを贈った。それは6オクターヴの広い音域を待ち、3本弦だった。
このピアノは後にリス卜が所有し、現在はハンガリー国立博物館が所蔵している。

1888年、ブロードウッド社は『バーレス』と呼ばれるフレームの特許を取得した。
この圧延綱(あつえんこう)のフレームは外縁部にかかる弦張力に耐えられる強さを持ち、
ストレスバー(弦方向に伸びる数本の鉄骨)を必要としない。
ストレスバーは駒の質量を犠牲にするため、音を弱めてしまう欠点があるためだ。
グランド、アップライトともに、この「バーレス」のピアノが作られた。
ショパンもリストも、イギリスにおける最後の演奏会ではブロードウッドの
グランドピアノを弾いた。リストはこのメーカーの推薦を頼まれ、
『ブロードウッドのように長く持つピアノフォルテは他にない』と書いたという。

1875年、ネアズ隊長率いるイギリスの北極探検隊は、HMSディスカバリー号に
ブロードウッドの小型アップライトピアノを積んで出発した。
また1910年にはブロードウッドの自動演奏ピアノがスコット隊長の南極探検に持参され、
最初のベースキャンプの氷上で演奏されたという。

<歴史>
1732年にスコットランドで生まれ、家具職人の修業を積んだジョン・ブロードウッドは、
1761年にロンドンへ出て、著名なチェンバロ製作者のバーカット・シューディのもとで働く。
1770年にシューディの娘と結婚し、翌年にはロンドンのグレート・パルトニー通り33番の
義父シューディの工房を任される。その工房ではモーツァル卜が演奏したこともあり、
またシューディの親友だったヘンデルはそこで多くの曲を作曲した。
1760年代には、新たに登場した楽器ピアノフォルテがロンドンで話題を呼んでおり、
ジョン・ブロードウッドはこの楽器にますます魅了されていった。
シューディが亡くなった1773年、ブロードウッドはネームボードに「Johannes Broadwood」
(当初は「John」ではなく「Johannes」と署名)の名を入れた最初のスクェアピアノを売り出す。
そしてその8年後に最初のグランドピアノを発売する。
ピアノという新たな市場に専念するため、ブロードウッドは1793年をもってチェンバロの製造を終了。
(※1791年にチェンバロ製造をやめたという文献もあるが詳細不明)
そして1807年に息子のトーマスとジェームズが共同経営者になった際に、社名を
「ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ』に改めた。
1780年から1867年の間のブロードウッド社のピアノ生産高は驚異的で、135,344台ものピアノが生産され、
その中の30,481台がグランドピアノだった。
あらゆるタイプのピアノにおける主要な改良はブロードウッド社によってなされた。
ブロードウッド社はアクションとストラングパック(鍵盤とアクション以外のピアノ本体)の設計で
いくつもの特許を取得している。総木製だった従来のピアノに鋼鉄の棒と金属のヒッチプレートを
いち早く取り入れ、それまでの単一の駒を分割して低音部に独立した駒を設けた。
また、操作しにくい膝レバーを廃止し、代わりに特許を取得した「ピアノとフォルテのペダル」を導入する。
さらにブロードウッド社はイギリス式グランドアクションを改良し、ハンマーが弦を押さえつけたままにならない、
素早いレぺティション(連打)を初めて実現させた。その機構は19世紀後半まで採用され続けた。
前途洋洋に見えたブロードウッド社も、無敵というわけではなかった。19世紀には、世界最大の
ピアノメーカーというイメージを揺るがしかねない大打撃を二度受けている。
一度目は、1821年にエラール社がグランドピアノのレペティション・アクションの特許を取得したことで、
そのあとに国王ジョージ4世がエラール社の楽器を注文したのだ。
このことはジョージ2世の時代から英国王室御用達を守り続けてきたブロードウッド社にとって脅威であった。
そして1851年、ブロードウッド社を窮地に追い込んだのは、またしてもエラール社だった。
今度はロンドン大博覧会で金賞を獲得したのだ。
その後の数年間にブロードウッド社は別のいくつかの博覧会で金賞を受賞し、またジョージ4世以降の
王や女王にもピアノを納めることができて、名誉を挽回したものの、会社の運気は下降し始める。
しかし、1860年代に生産された小型アップライトピアノの人気が状況を好転させるきっかけとなり、
19世紀の終わりごろには、ストレスバーが不要となる革新的な圧延鋼(あつえんこう)フレームの設計が
導入された。1903年にグレート・パルトニー通りの歴史的な建物は取り壊され、会社は東ロンドンの
ハックニーへ移転する。このときのオーナーはシューディ=ブロードウッドの6代目だった。
その後、自動演奏ピアノの完全自社生産が始まるが、会社の財政難は解消されなかった。
皮肉なことに、ブロードウッド社を財政危機から救ったのは、1914年の第一次世界大戦勃発であった。
戦争により多くのピアノ製造業者は廃業を余儀なくされたが、ブロードウッド社の工場は飛行機の
製造を許可され、一機につき125ポンドの収入を得ることができたのだ。そのため、少なくとも経済的には
終戦まで乗り切ることができた。終戦により儲かる戦時中の仕事はなくなり、ピアノ生産が再開された。
しかし、1939年に再び戦争が勃発すると、政府の規定によりピアノ製造会社は合併を強いられることになった。
そしてブロードウッド・ピアノの生産は、サウスロンドン、クラパムの、ウェルプデール、
マックスウェル・アンド・コッド社の工場へ移った。以後20世紀の終わりまで、ブロードウッド・ピアノは
同社のライセンスのもと、ウェルプデール・マックスウェル・アンド・コッド社で生産された。
広範にわたる再編を行い、また時代の変化に合わせてグランド、アップライト、自動演奏ピアノの生産を
切リ変えながらブロードウッド・アンド・サンズは生き残り、驚くほど長い歴史を築き上げてきた。
今日、ブロードウッドのピアノは、2000年にストラウドに設立されたブリティッシュ・ピアノ・
マニュフアクチャリング・カンパニーによって生産されている。
同社はまた、ベントレー、ナイト、ウェルマー、ウッドチェスターなど、ほかのイギリスのブランドの
ピアノも製作している。

<附録>
ブロードウッド・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1932年~2000年) →★
BROADWOOD WHITE 詳細不明
BRODMANN 詳細不明
BRODWIN BRODWIN ブロッドウィン ニューヨーク
詳細不明
※有名なBALDWIN(ボールドウィン)ではないので注意
BROOKS 詳細不明
BRASTED BROTHERS
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ブラステッド・ブラザーズ BRASTED BROTHERS LIMITED イギリス その他詳細不明
BRØDRENE HALS CHRISTIANIA 詳細不明
BRODMANN
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ブロッドマン オーストリア 詳細不明
BRINSMEAD JOHN BRINSMEAD の項目へ

BROTHER

BROTHER piano

BROTHER ピアノ

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ブラザーピアノ

販売元:ブラザー楽器株式会社(愛知県名古屋市)、(ブラザー工業株式会社)
製造元:アトラスピアノ製造株式会社

ブラザー工業株式会社の住所(当時):名古屋市瑞穂区堀田通9丁目35番地

ブラザーミシンが自社の販売網を活用するためにアトラスピアノに発注したピアノ。
ミシンの会社がピアノを販売していた時代もあるんですね♪
アトラスピアノが製造していただけあって、そこそこ良く出来たピアノです。
他の例として家電メーカーのナショナルや、音響機器メーカーのビクターもピアノを委託製造していました。

機種バリエーション GU-172、GU-101、GU-107、GU-113など

ブラザーピアノのアクション全体写真 →★1 →★2 
ブラザーピアノのまくり(蓋)部分のブランド銘柄 →★1 →★2
ブラザーピアノの純正キーカバー →★
ブラザーピアノの検査合格証 兼 調整履歴票 →★

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BROTHER CRESCEND
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ブラザー・クレッシェンド
販売:ブラザー楽器株式会社(名古屋)、(ブラザー工業株式会社)
製造:アトラスピアノ製造株式会社
BROWN & ALLEN 詳細不明
BROWNING 詳細不明
BRUCKNER 詳細不明
BRUEGHEL




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BRUEGHEL ブリューゲル/(ブルーゲル)
製造:株式会社 坂本ピアノ製作所(旧:坂本楽器製作所)

当時の住所(坂本楽器製作所の頃):静岡県浜名郡和田村薬師481(昭和26年創業)
当時の住所(株式会社 坂本ピアノ製作所の頃):静岡県浜松市瓜内町498(昭和42年に法人化)
昭和62年3月31日解散

浜松の株式会社 坂本ピアノ製作所(大成ピアノ製造の前身)で作っていたピアノ
※似た名称あり 注:フルーゲルとは異なる
ブリューゲルのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

<株式会社 坂本ピアノ製作所の歴史>
坂本岩義(大正2年生まれ)が設立。坂本氏は河合楽器と富士楽器で勤務後、ドレスデンピアノの顧問に就任。
その後、38歳の時に独立して坂本ピアノを創業させる。当時16人の従業員と共にブリューゲルピアノを製造。
その他、ピアノ製造の下請け会社としても各社のピアノを製造した。FUKUYAMA(フクヤマ)もその一つ。
法人化した昭和42年(1967年)の際は、資本金200万円で従業員は20人だったとの記録が残っています。
BRUNGER 詳細不明
BRUNNEN ブルンネン 東洋ピアノ製造株式会社
BRUNNER 詳細不明
BRUTHNER
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ブルツナー 大洋楽器工業株式会社
詳細不明

1文字違いで「BLUTHNER」という広田ピアノ株式会社のピアノもありますが別ピアノです。

※ちなみに名称が似ていますがこれも別ピアノで「PRUTHNER/プルツナー」という
そこそこ有名で広く出回っているピアノもあります。詳しくは→PRUTHNERの項目へ
BUCHHOLZ


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BUCHHOLZ ブッフホルツ/ブーフホルツ/(ブッホルツ)/(ブホルツ)

東京蒲田楽器製作所(蒲田ピアノ修理所) 大田区蒲田
斉藤喜一郎氏によって、大田区蒲田で作られていた。
ブランド名は斉藤氏の夫人でドイツ人のブッフホルツの名に由来しているという。
現在のウィスタリア・ピアノ製作所。
トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<ウィスタリア・ピアノ歴史抜粋>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッフホルツ」および「ホルーゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。
ブッフホルツのまくり部分の銘柄マーク部分 →★
BULOW 詳細不明
BURG VAN DEN 詳細不明
BURGASSER 詳細不明
BURGER & JACOBI
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バーガー&ジャコビ アトラスピアノ製造株式会社
BURGDORFER 詳細不明
BURGER & JACOBI AG 詳細不明

BURGMULLER
BURGMÜLLER


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BURGMÜLLER/BURGMULLER  ※スペルは”BRUGMULLER”ではないので注意
ブルグミューラー/ブルグミュラー

■ビオン楽器製作所
■日本シュバイツァピアノ株式会社

磐田市の日本シュバイツァーピアノ(株)で作っていたブランド
BURLING MANSFIELD 詳細不明
BUSH & GERTS


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ブッシュ・アンド・ゲルツ アメリカ(ロックフォード) 創業1885年

1885年、ウィリアム・H・ブッシュは、息子のウィリアム・L・ブッシュとジョン・ガーツとともに、
イリノイ州ロックフォードにW・H・ブッシュ・アンド・カンパニーを設立した。
1890年には資本金が20倍の企業に成長し、Bush & Gertsと改名しました。
1920年には工場と事務所をイリノイ州シカゴに移し、1942年までブッシュ&ゲルツブランドのピアノを製造した。
ジョン・ゲルツは、ドイツのハンブルグで名門ピアノメーカーのオットー・ベルスから技術を学んだ経験から、
芸術性の高いピアノを作ることができた。

ウィリアム・L・ブッシュは、著名なピアノメーカーの名前を騙った
「ステンシル」ピアノの販売を防ぐために尽力した。
ブッシュは、ピアノメーカーの名前と住所をすべてのピアノの目立つところに記載することを提案したが、
これは現在でも受け継がれている。

ブッシュ&ゲルツピアノは、西欧の偉大な革新者の一人であるジョン・ゲルツによって作られたピアノである。
ジョン・ゲルツらが手がけたピアノは、当時としては最大級の規模と設備を持つ工場で、
最高の木材と労働力を用いて丁寧に作られていました。
彼らの高い基準は、美しい音色のピアノを作ることで評価された。

左記トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。寄稿頂き誠にありがとうございます!
BUSH & LANE
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ブッシュ・アンド・レーン アメリカ(シカゴ) 創業1901年

ブッシュ・アンド・レーン社は、1901年にイリノイ州シカゴでビクター・ピアノ・アンド・オルガン社として設立。
ブッシュ・アンド・レーン社は1905年にミシガン州ホランドに移転したが、そこにはより大きな設備の整った工場と
オフィスが建設されていた。ブッシュ・アンド・レーン社は、最新の設備とユニークな奏者のアクションなどの
特許を駆使して、評判の高いブランドを着実に育てていった。

セシリアン、ビクター、パウルス、ファーランドなど、いずれもブッシュ・アンド・レーン社の
製造技術に裏打ちされたピアノである。
ビクターのピアノには1901年以降、セシリアン・ピアノにはセシリアン・プレーヤー・アクション・カンパニーが
買収された1914年以降にブッシュ・アンド・レーンのシリアルナンバーが付けられている。
この会社は1931年に製造を終了したが、1940年代初頭には他社がブッシュ&レーンの名を冠した
ピアノを製造していた。例えば、ウェザー・ブラザーズはコンソールピアノにこの名前を使用していた。

ビクターはブッシュ&レーン社のオリジナル製品であり、著作権を取得して同社の独占所有物となった。
他のブッシュ・アンド・レーン社製品と同様に、Victorは耐久性と信頼性が高く、
心地よい音質を持つ楽器として作られた。

また、セシリアン・ピアノは、汎用性が高く、使いやすく、高度な演奏機構により破壊されないと評判であった。
さらに、ブッシュやレーンのピアノは、当時の他のピアノブランドに匹敵する
甘美な音色を持つことで知られていた。
ブッシュ・アンド・レーン社が販売したVictorとCecilianは、大恐慌で倒産するまで、何千台も販売された。
ブッシュ・アンド・レーン社は、大企業に会社を売却して品質を犠牲にするよりも、
ピアノの生産を完全に停止するという立派な決断をしたのである。
BUTLER BROS. 詳細不明
BUXHARD
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バックスハルト ※バッハルトと発音表記する資料もあり
有限会社 アサヒ工芸社(前身:朝日楽器製作所) 大石寛一氏の創業
創業1966年(昭和41年)※創業年については要調査 →廃業1970年(昭和45年)
当時の住所:浜松市中野町798、浜松市天龍川町677

他に、SUNSHINE(サンシャイン)という鍵盤数が73鍵のピアノもあった。
WAGNER(ワグナー)も製造したとの情報あり。

※スペルは”BAXHARD”や”BAXHORD”という情報も散見されますが、正しくは”BUXHARD”です

<追記>
BUXHARDについて修正受付フォームに匿名希望様から新たな情報を頂きました。
情報ご提供者様によりますと、1957年(昭和32年)~1958年(昭和33年)頃にこのBUXHARDを
ご購入されたとの情報を頂きました。購入時は既に中古として売られていたピアノだったとのことです。
当方でも引き続き調査させていただきますが、1966年(昭和41年)創業という情報が合いません。
ひょっとしたらBUXHARDのブランドを朝日楽器製作所が引き継いで製造したのかもしれませんが、
詳細は当方でも一切不明です。もし何かお分かりになる方がいたら新たな情報お待ちしております。
ちなみに情報を頂いた方によりますと、このピアノは1972年頃まで何とかご使用されていたとのことです。
手放された際に記念で撮影した写真もご丁寧に頂きました(1973年頃とのことです) →★
この度は貴重な情報とお写真を頂きまして誠にありがとうございました!
BYELLORUSS 詳細不明

  上記Bから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

     

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

C. BAER 詳細不明
C. BECHSTEIN BECHSTEIN(→ベヒシュタインの項を参照)
C. HARMAN





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シー・ハーマン/C・ハーマン
※シー・ヘルマンという発音表記する資料も散見されますが”ハーマン”の読み表記が正しいです

製造元:井ヅツ楽器株式会社(ヰヅツ楽器)大阪府堺市堺区
当時のショールーム:大阪市バス住吉車庫前

<井ヅツ楽器 会社住所変遷>
大阪府大阪市住吉区万代西6-10

大阪府大阪市住吉区万代5-14-6

大阪府堺市堺区新在家町東4-3-7

井ヅツ楽器株式会社のはじまりは静岡県袋井市にあった山下楽器の技術顧問であった
榊原清作氏の実用新案技術を多数取り入れて作り始めたと伝えられています。
創業時は大阪市住吉区にあり、最後の住所は大阪府堺市にありました。
小型でありながら3本弦を採用し、高さを抑えたモダンなデザインが売りだったようです。
Cハーマン販売当時、同社が製造する「ローリス&サンズ/LORIS & SONS」と共に売り出されていました。
当時のラインナップとして、U-110W、U-110M、U-5C、U-7Cの4機種がありました。
シーハーマンの当時の定価の記録が残っておりますので列挙します
U-110W:45万円、U-110M:46万円、U-5C:48万円、U-7C:60万円

尚、井ヅツ楽器は他社からもピアノ製造を依頼されてOEM製造をしておりました。
※参考画像→井ヅツ楽器の保証書 →★(ちなみにこれは「KUHLMANN」というピアノの保証書です)

左記トレードマーク画像は「F様」からご寄稿頂きました。
この度は写真のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございました!
C. KONING C. Konig 詳細不明
C. THWAITES
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
シー・スウェイツ (シー・ツワイスという発音表記する資料もあり)
スウェイツ商会
CABLE



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ケーブル CABLE PIANO CO. The Cable Piano Company 創業1880年
エオリアン・アメリカン・コーポレーションの子会社

工場:オレゴン州 販売店:シカゴ
詳しくはAEOLIAN(エオリアン)の項を参照

オルガンの製造を始めたH.D.ケーブルは、1880年にケーブル・ピアノ・カンパニー
(通称:ケーブル・カンパニー)を設立した。
1880年創業のケーブルは、ウォルフィンガー・オルガン社でキャリアをスタートさせた後、
シカゴ・コテージ・オルガン社に移籍した。
1890年、ニューヨークのConover Brothersと合併し、ケーブルの2人の兄弟も経営に加わった。
イリノイ州のシラー・ピアノ社を買収し、1920年にはアメリカ国内にセントチャールズと
シカゴの2つの工場を持つようになった。
最盛期には500人を超える従業員が働いていた。
ケーブル社は、音楽活動やコーラス、野球チームなどの福利厚生を充実させ、
従業員を大切にする社風を築いていた。
1900年代半ばから後半にかけての一連の買収により、ケーブル・カンパニーは
エオリアン・アメリカン・コーポレーションに買収された。
2001年には、ギブソン・ギターズがケーブル社の名前の権利を購入し、中国でのピアノ生産を続けている。

ケーブル・カンパニーは、1920年代には、Conover、Cable、Kingsbury、Wellington、Schillerなどの
名前でピアノを製造していた。
また、コノバー・カローラ・インナー・プレイヤー、コノバー・ソロ・カローラ・インナー・プレイヤー、
カローラ・インナー・プレイヤー、ソロ・カローラ・インナー・プレイヤー、ユーフォナ・インナー・プレイヤー、
ソロ・ユーフォナ・インナー・プレイヤーという名称で、さまざまなプレーヤー・ピアノを発表したのである。

ケーブルピアノ社は、響板とフレームの構造に関する独自の技術を商標登録していた。
アップライトでは「トナーク」、グランドでは「クラウンステイ」と呼ばれ、ピアノの要素を構成する方法は
業界でもユニークで、高い評価を得ていた。
これは、響板を取り付けた後に理想的な音色が得られるよう、
フレームに組み込まれた曲線状のブレースである。

ケーブルピアノの美しい木目調の外観 →★ ケーブルのまくり(フタ)部分の銘柄マーク →★
ケーブルピアノに貼られた各シール類 →★  →★
CABLE, HOBART M. →Hobart Cableの項目へ
CABLE-NELSON
CABLE NELSON


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CABLE-NELSON PIANO CO. ケーブル・ネルソン

1903年シカゴで創業。その後ミシガン州に移り、
1926年にボストンのエベレットピアノ(EVERET PIANO)と合併。
ケーブル・ネルソンのブランドによるピアノは、創業以来合計40万台作られたといい
エベレットピアノの廉価版として広く販売された。

尚、この会社ではKINGSBURY(キングスブリー)、WELLINGTON(ウエリントン)、
SCHILLER(シーラー)というブランドも作っていました。

<さらに詳しい解説>
ケーブル・ネルソン・ピアノの始まりは、1903年にフェイト・S・ケーブルが、
当時有名だった2つのピアノ会社を買収したことに始まります。
レイクサイド・ピアノ社とスウィートランド・ピアノ社である。
1905年に同僚のH.P.ネルソンが入社すると、社名を「ケーブル・ネルソン」に変更した。
買収した2社はシカゴにあったが、合併して新ブランドを立ち上げたことを機に、
共同経営者たちはミシガン州サウスヘイブンに会社を移転した。
彼らのビジョンは、アメリカ中西部の小さな町で会社を設立し、そこで愛用者を増やして
有名になろうというものだった。1926年にエバレット・ピアノ・カンパニーに買収されるまでの約20年間、
同社はこの考えのもとに繁栄した。
当初は同社の一部門であったが、1954年にはハモンド・オルガン社に買収された。
1954年、ハモンドオルガン社がエバレットピアノ社を買収したことで、
ケーブル・ネルソンピアノの製造方法やブランドイメージが大きく変化したのである。
1973年、EverettとCable-Nelsonの両方のピアノ会社がヤマハ・コーポレーションに買収され、
生産拠点はジョージア州に移された。
1990年代から2000年代初頭にかけて、Cable-Nelsonの名前が使用されたが、
2014年現在、ヤマハはケーブル・ネルソンピアノの新製品を生産していない。

ケーブル・ネルソンは、アメリカ中西部の良質なピアノブランドとして知られており、
アップライトピアノ、グランドピアノ、各種サイズのピアノが存在していた。
1900年代前半から半ばにかけての家庭用ピアノの隆盛の中で、ケーブル・ネルソンのピアノは、
品質を犠牲にすることなく手頃な価格であることが評価されていた。
当時、他のピアノブランドと同様に、ケーブル・ネルソンは、ビジネスのやり方がユニークであり、
信頼に値するものであることをお客様に知ってもらいたいと考えていた。
そして、高級な材料を使用しながらも、平均的なアメリカ人にとって、
コストパフォーマンスの高いピアノであることを誇りにしていたのです。
合併や買収を繰り返しながら、Cable-Nelsonは以下の名前でピアノを製造していました。
Lakeside、Radcliffe、Sweetland、Dulcitone Player、Denton、Cottier、Daniels
CÄCILIA 詳細不明
CAHN & CAHN 詳細不明
CALACE
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カラチ 販売元:佐藤商会(名古屋)

佐藤商会が戦前に取り扱ったもの。
その他詳細不明
CALISIA
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CALISIA/カリシア 
ポーランド 創業1878年

CALISIAの工場は2007年に生産を停止。ポーランドで操業していた最後のピアノ工場でした。
2010年以降、Calisiaのブランドは中国で製造されています。その他詳細不明

※ブランドスペルは「GALISIA/ガリシア」ではありません
CALISIA シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
CAMBRIDGE
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ケンブリッジ Cambridge Piano Company

1902年、ニューヨークに設立されたケンブリッジ・ピアノ・カンパニーは、
ニューヨークにあった数多くのピアノメーカーの一つでした。
その後8年の間に、ケンブリッジ社はリッカ&サンズ社に買収され、生産を続けました。
数年後、ケンブリッジ社はジェイコブ・ドール社に買収され、その後ウィンター社に売却されました。
1900年代初頭、ケンブリッジピアノが成功したのは、アップライトピアノのサイズが小さかったからだ。
ケンブリッジピアノには、42インチ、44インチ、45インチ、51インチのサイズがあった。
このサイズは、ニューヨーク周辺の小さな家やアパートに住むピアニストや音楽家に最適だった。
残念ながら、第二次世界大戦が始まった頃には、ケンブリッジのシリアルナンバーは止まっており、
他の多くの製品と同様に製造中止になったことを示している。

ケンブリッジのピアノは、当時、中流家庭の予算内で購入できる価格帯として人気がありました。
価格に加え、サイズが小さかったこともあり、増え続ける中産階級の社会経済的な層に選ばれていました。
その価格にしては、ケンブリッジの楽器は驚くほど美しく、心地よい音色を持っていた。
CAMEO 詳細不明
CAMERON 詳細不明
CAMILLO 詳細不明
CANARIA カナリア 豊楽器製造株式会社(ユタカ楽器)
卓上ピアノを製造
CAPEN ケーペン? アメリカ(ニューヨーク) NEW YORK
詳細不明
CAPMAN
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キャップマン イタリア 詳細不明
CAPPELEN 詳細不明
CARHART & NEEDHAM
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カーハート・ニーダム アメリカ(ニューヨーク) 創業1851年

1851年にニューヨークで設立されたカーハート&ニーダム社は、
オルガンとメロディオン(オルガンの一種)を製造していた。
メロディオンとは、1840年代に流行した小型のリードオルガンのことである。
メロディオンは、1840年代に流行したリードオルガンで、創業者の一人であるJerahmiah Carhartが、
リードオルガンを意味する "melodeon "という名前を作ったとされている。
カーハートは、この名前を作っただけでなく、メロディオンを柔らかく改良するために多くの発明を行い、
その多くが販売されたり、特許を取得したりしました。

カーハート&ニーダム社は、1868年にジョージ・プリンスと提携するまで、
オルガンとメロディオンを製造していた。
カーハート&ニーダム社は、1868年にジョージ・プリンス社と提携するまで、
オルガンやメロディオンを製造していたが、これは後にアメリカの音楽史において
非常に重要な合併であると認識されている。

カーハート&ニーダム社の楽器は、それまでの楽器に比べて、音を外側に押し出すのではなく、
内側に押し出すように設計されている点が特徴であった。
(カーハートの発明により、それまでにない方法でパイプを曲げることができた)
カーハート&ニーダム社のメロディオンは、その落ち着いた音色に加えて、
精巧な木材を使って美しく作られています。
繊細なスクロールや手彫りのディテールは、1世紀半前と変わらない美しさを誇っています。
CARL DÖRR 詳細不明
CARL ECKE
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カール・エッケ 創業1843年

ポーランド(Poznań/ポズナン)
ドイツ(Berlin/ベルリン)
ドイツ(Dresden/ドレスデン)

Carl Eckeは、19世紀から20世紀まで製造していたドイツのピアノブランドです。
ピアノ製造は1843年、今のポーランド(Poznań/ポズナン)で始まり、
当初はグランドピアノのみを製造していましたが、1870年にアップライトピアノも製造を開始しました。
その後、会社は発展して1873年にベルリンに移転、さらにその後ドレスデンに移転しました。
CARL & SONS
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カール・アンド・サンズ 東洋ピアノ製造株式会社
機種バリエーション:CS130等
CARL HARDT


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CARL HARDT/カール・ハルト

販売:福山ピアノ社(東京)
白鍵は2枚象牙のようです。その他詳細不明
※ちなみにアメリカの「CARHART & NEEDHAM」とは違うピアノです

CARL HARDTの全体写真 →★   CARL HARDTのまくり(蓋部分)のブランド名部分 →★
CARL HARDTの特徴的な天屋根部分 →★   特徴的な猫脚 →★   下パネル内部 →★

これらの画像は「ピアノ調律塾様 https://www.piano-juku.com/」からご寄稿頂きました。
この度はたくさんの貴重な画像をご寄稿頂きまして誠にありがとうございました!
CARL HERT

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カール・ヘルト/カールヘルト

大成ピアノ製造株式会社
東洋ピアノ製造株式会社

※アメリカの「CARHART & NEEDHAM」とは違うピアノです
CARL. KIERSTON 詳細不明
CARL SEILER



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カール・ザイラー/カールザイラー

製造:株式会社 プルツナーピアノ(浜松)
発売元:三協ピアノ株式会社(浜松)

プルツナーとともに(株)プルツナーピアノで作られていたピアノ。
鍵盤押さえの部分にPruthner PIANO MFG, CO, LTDと入っています。
発売元は三協ピアノ株式会社。

トレードマークは音叉の後ろにチューニングハンマー2本を交差させたデザインですで、
回りの星形は調律に使うチューニングハンマーのチップ(差し込み部分)の形をモチーフにしています。

カールザイラーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CARL STEINBERG
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宜昌金宝楽器製造(中国湖北省宜昌市)/Yichang Jinbao Musical Instrument Manufacturing Company
シンガポールに販売店があるようですが詳細不明
CARL STEINMANN
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カール・スタインマン ドイツ(ドレスデン) 詳細不明
CARL MAND
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<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
カール・マント(Carl Mand、1811年10月27日 - 1892年8月28日)は、
ドイツのピアノ製作者であった。
カール・マントの経歴に関する情報はわずかである。
彼の父はコブレンツ近郊のホルヒハイムの指物師・ワイン醸造家であった。
彼の邸宅の近くにベルリンの銀行家メンデルスゾーンの別荘があり、
時折フェリックス・メンデルスゾーンが訪れていた。
メンデルスゾーン家は最初にカール・マントの兄弟ニコラウス(Nikoraus)に
ウィーンで音楽とピアノ製作の知識を深めるよう働き掛けた。
しかしながら、ニコラウスが病気になると、カールがウィーンへの旅を始めた。
カールは1827年か1835年までウィーンでピアノ製作者として働いた。
帰郷後、カールはコブレンツで自身のピアノ製造会社を設立し、
この会社はその後数十年もの間大きな成功を収めた荒るそのため、
マントは宮廷御用達称号を得て、彼の会社を自信を込めて「19年間最高賞のみ
(国際博覧会での11の賞を含む)を受賞している世界唯一の工場」と呼んだ。
1909年、マントの会社はコブレンツを拠点とするピアノ製作者ハインリッヒ・クラウス
(Heinrich Knauß)によって買収され、同年にRheinische Pianofortefabrik AG
(ライン・ピアノ工場株式会社)となった。
会社は1911年にKapplerによって買収され、1928年に生産が終わった。
カール・マントの現存する楽器の大半は個人によって所有されている。
コレクションはエーレンブライトシュタイン城塞にあるコブレンツ州立博物館で維持されている。
1900年頃に建築家・デザイナーのヨゼフ・マリア・オルブリッヒによって設計された
独特なデザインのグランドピアノは、ベルリン楽器博物館に展示されている。
この八角形のマント=オルブリッヒ・グランドピアノには他のモデルも存在し、
入り組んだ装飾を持つ黒色モデルはダルムシュタットのMathildenhöheにある。
カール・マントが特許を取得したベル・グランドピアノ(Glockenflügel)および
Eckflügelはとりわけ特殊である。
これらの特に小型のグランドピアノは場所を節約するために部屋の角に置くことができる。
CARLTON 詳細不明
CARLZEILER
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カールザイラー 大洋楽器工業株式会社(浜松) 詳細不明
(プルツナーピアノのカールザイラーとは違うのか??)
CAROD
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キャロッド 中国(湖南省長沙市) 2014年~ 詳細不明
HP:http://www.carodpiano.net/
CAROL OTTO


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C.OTTO
当時国内での販売元:ドーリング商会(デーリング商会)(横浜)※
英語名:J.G.DOERING'S PIANOS ORGANS

キャロル・オットー (CAROL OTTO/Carol Otto)
カロル・オットー  (CAROL OTTO/Carol Otto)

ドイツ製(ベルリン)
キャロル・オットー社は、1866年創立
ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代のメーカー。
当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持っており、
特徴のあるの燭台付きピアノや2本ペダル式のアップライトピアノを多く製造。

※ドーリング商会(デーリング商会)は1874年横浜で創業
CASTELLO
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カステロ イタリア 詳細不明

CASTLE

CASTLE ピアノ

CASTLE PIANO

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キャッスル CASTLE

六郷ピアノ(大田区六郷 →後に茨城県土浦)、キャッスルピアノ製作所

田中貞三氏が田口氏の協力を得て、初め六郷で、後に茨城県土浦で製造した。
2種類あって音は良かったが、外装に厚い材料を使用していたため温度に弱かったとのこと。

私が実際に拝見したキャッスルピアノは、1枚貼りの象牙鍵盤で、とても重厚な作りでした。
当時としては大変珍しく曲線を意識した脚が特徴的です。
所有者様はオーバーホールはせずを処分するとのことで、貴重な象牙鍵盤だけ引き取らせて頂きました。

キャッスルまくり部分(フタ部分)のブランド銘柄 →★  キャッスル全体写真 →★
頂いた象牙鍵盤 →★ ※この象牙鍵盤が欲しい技術者の方へ格安でお譲りいたします(当方は利用の予定なし)

※キャッスルのトレードマークはこれ以外にもう一つ若干デザインの異なるマークもあります。

CASTLE



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キャッスル

鈴木ピアノ製作所
このキャッスルは上記の郷ピアノとは別ブランドで、
トレードマークは星形(チューニングハンマーのチップ部形状)の中に”S”の文字が入ったマークになります。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
CAUWENBERGHE 詳細不明
CHAIKA →TCHAIKAの項目へ
CHAIKOVSKY
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CHAIKOVSKY チャイコフスキー
チャイコフスキーというブランド名で日本国内でも製造販売していたようですが、詳細不明
ピアノのまくり(鍵盤蓋)部分の銘柄ブランドマーク →★

ソ連製のチャイコフスキーはCIAIKOVSKYの項目へ

H, CHALLEN

H, CHALLEN

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チャーレン イギリス/ロンドン
1986年からはマレーシア西部で作れれている

チャールズ・H・チャーレンは1804年にすでに最初のピアノを製作していたと考えられているが、
イギリスのピアノメーカー、チャーレン・アンド・サンズは1830年に設立された。
チャーレンといえば信頼性と耐久性であり、そのピアノの音質は高く評価されている。
チャーレン・ピアノは英国放送協会(BBC)で頻繁に使用されている。

チャーレン社は小型のグランドピアノでよく知られているが、1935年の英国王ジョージ5世即位25周年には、
世界最大のグランドピアノを製作したというエピソードがある。
全長355センチ、弦の総張力は30トンあったそう。

19世紀の最後の四半世紀から20世紀の最初の四半世紀にかけて、チャーレン社は年問約500台の
高品質のピアノを生産していた。この会杜に好機をもたらしたのは、1926年に新社長に就任した元チャペル社の
ウィリアム・エヴァンスだった。
エヴァンスは、チャーレン社が20世紀の初めに開発した全長152cmのベビーグランドピアノを再開発する。
大量生産技術の導入により、チャーレン社はこの楽器の価格を125ポンドから65ポンドに下げることに成功し、
その結果、ベビーグランドはイギリスの家庭からアップライトを追い出すほどの人気となった。
ほとんどのピアノ製造業者に打撃を与えた1930年代の大恐慌も、チャーレン社には影響を及ぼさなかったといい、
ピアノの生産高は1925年の500台から、1935年の2,500台にまで跳ね上がった。
チャーレン社は1932年にブロ―ドウッド社のピアノの生産を引き受け、また1936年には、
スタインウェイ社、ベーゼンドルファー社とともに、BBC(英国放送協会)にピアノを供給する契約を取り付けた。
これによりチャーレンピアノの音がイギリス中の家庭で聞かれるようになった。
1959年のウィリアム・エヴァンスの引退に伴い、チャーレンのブランド名はブラステッド・ブラザー社に売却され、
その後1970年に同社が消滅した際に、バラット・アンド・ロビンソン社へ移った。
1986年からチャーレンピアノは、ヴィエナ・ミュージック・Sdn・Bhd社の工場部門であるミュージカル・
プロダクツ・Sdn・Bhd社によって、マレーシア西部で組み立てられている。

<附録>
チャーレン・アンド・サンズ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~2000年) →★
CHALLENGER 詳細不明
CHALLIOT
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シャリオ(フランス・パリ) 詳細不明
CHAPPELL




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THE CHAPPELL PIANO CO.,LTD.
/Chappell & Company チャペル・アンド・カンパニー
イギリス チャペル社  ※所有:ワーナー・ブラザーズ
※ちなみに教会や礼拝堂に近い言葉である”チャペル”のスペルは”CHAPEL”です(PとLが1つです)

チャペル社といえば、現在、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている風変わりな
スクエア・グラス・ピアノで有名。この楽器には弦の代わりにガラスの棒が取り付けられており、
ダウンストライキング方式のハンマーで叩く仕組みになっている。
チャペル製のコンサートグランドは非常に変わっていて、最高音部に3本ではなく 4本の弦が張られている。

リヒャルト・シュトラウスはチャペル・ピアノについてこう書いている。
「音色は極めて甘く、共鳴しやすい音質。タッチはとても反応が良く、軽い。
英国のメーカーのこのような完璧な楽器に出会えたことは、私にとって素晴らしく快い驚きだった」と。

すでに楽譜出版社を始めていたサミュエル・チャペルと、ヨハン・クラーマーと、フランシス・ラトゥールは、
1811年にチャペル・アンド・カンパニー社をロンドンに設立した。
その後、彼らの会社は1840年代にようやくピアノの製造を開始し、「ウェア・ルーム』と称する
特別なショールームで展示販売を始めた。
クラーマーはロンドンで人気の作曲家、音楽教師であったため、彼自身が店にあるすべてのピアノを
選んだということは、ライバル会社に差をつける良い宣伝になった。
楽譜やピアノの販売の他に、チャペル社はロンドン内のコンサートのプロデュースも行うようになり、
フィルハーモニック協会と密接な関係を築いた。
1840年にチャペル社はロンドンのソーホーでピアノを製造するようになるが、生産量が増えると、
チョークファームの工場へ移転した。
1901年にチャペル・ピアノ・カンパニーとパブリッシング・カンパニーが分離すると
ピアノの生産高は増大し、1920年代と30年代は年間1,000台も生産された。
1929年にチャペル社はアリソン・ピアノ社とカラード・アンド・カラード社を買収し、さらに1938年には
ジョン・ストローメンガー・アンド・サンズ社を買収して規模を拡大した。
1968年、フィリップス・レコード・カンパニーがチャペル・カンパニーを1750万ポンド
(2550万米ドル)で購入する。
そしてワーナー・チャペル社が所有するケンブル社がライセンスのもと、
2000年までチャペル・ピアノを製造した(ワーナー社は独占権を保有し続けている)
今もボンド通りにはチャペルの店があり、楽譜や楽器を販売している。

チャペルピアノのまくり(フタ部分)にある銘柄ブランドマーク →★ →★
チャペルのアクションレールに貼られているシール →★ MADE IN ENGLANDのプレート →★

<附録>
チャペル・アンド・カンパニー 製造番号/製造年代 対照表(1840年~1969年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チャペル& Co.(Chappell & Co.)は、かつて存在したイングランドの企業である。
音楽出版とピアノ製造を行っていた。
1810年にサミュエル・チャペル(c.1782年–1834年)によって音楽教授Francis Tatton Latourと
ヨハン・バプティスト・クラーマーと協力して創業された。
クラーマーは有名なロンドンの作曲家、教師、ピアニストでもあった。
会社の店舗には複数のフロアにピアノやその他の楽器(販売または貸し出し)、楽譜のための広い展示室があり、
ボンド・ストリートの目立つ目印となった。チャペルはロイヤル・フィルハーモニック協会の創設にも取り組んだ。
チャペル社の評判は急成長し 、1819年にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが出版したいと
思っている作品に関して仲間に手紙を書いている;
「ポッターは、ボンド・ストリートにあるチャペルが現在最良の出版社に一つだと言っている」。
サミュエル・チャペルは1834年に死去し、長男のウィリアム・チャペル(1809年–1888年)が会社を引き継ぎ、
母のエミリー・チャペル(旧姓Patey)の代理として会社を経営した。
1843年頃、ウィリアムはクラーマー& Co. に加わり、その後パーシー協会と音楽古物研究協会
(Musical Antiquarian Society)を設立した。
弟のトーマス・ペティー・チャペル(1819年–1902年)が次に経営を引き継いだ。
最初は音楽出版と演奏会の主催に専念していたチャペル社は1840年代にピアノ製造を始めた。
トーマスはチャペル& Co. の出版事業を拡大し、ミュージカルに関する出版に重点的に取り組んだ。
これは今日もチャペルの成功にとって重要である特異分野である。
チャペル社は楽譜販売のための市場を作ることになるかもしれないコンサートやオペラ、その他の催しを主催した。
トーマスはチャペル家が部分的に所有していたセント・ジェームズ・ホールにおける月曜から土曜までの
ポピュラーコンサートを思い付き、出資した(1859年)。
このコンサートは弟のサミュエル・アーサー・チャペルによってうまく運営され、1901年まで続いた。
トム・チャペルの成功の一つはギルバート・アンド・サリヴァンのオペラとアーサー・サリヴァンのその他の楽曲、
古いグノーのオペラ『ファウスト』、バルフのオペラ『ボヘミアの少女』の出版であった。
トーマスは王立音楽大学の最初のDirectorの一人やロイヤル・アルバート・ホールの最初の
支配人の一人でもあった。トーマスは1902年に死去した。
トーマスは音楽出版社協会の創設メンバーであり、協会の初代会長となり、
1881年から1900年まで会長職を務めた。
20世紀の間、チャペル社はイギリスで一流の音楽出版社・ピアノ製造業者となった。
1964年、建物が火災で破壊されたが、その後に再建された。
1970年代末までに、チャペル社はミュージカル作品(ロジャース&ハマースタインなど)の出版で有名な
世界的一流音楽出版社となった。1980年、チャペルは小売事業を売却し、音楽出版のみに専念した。
ロンドンのボンド・ストリートの店舗はヤマハピアノの大流通業者であったケンブル& Co.によって購入され、
ケンブル社はチャペル・オブ・ボンド・ストリートの名称でこの楽器店を経営した。
チャペル& Co. の出版事業は後にポリグラムによって、1987年にはワーナー・ミュージック・グループによって
2億米ドルで買収され、ワーナーの音楽出版部門と合併してワーナー/チャペル・ミュージックが設立された。

チャペルのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CHAPPELL チャペル
国内でもCHAPPELL(チャペル)というブランド名で製造販売していたピアノもあったようですが詳細不明
CHARIS



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カリス CHARIS ※読みはチャリスではない

東洋ピアノ販売  韓国製造 その他詳細不明

※東洋ピアノが扱っていたBÖCKLER(BOCKLER)/ベックラーというピアノのトレードマークと
まったく同じマークということが分かります(文字の部分を除いて)

ちなみに、ドイツ製の「グロトリアン・チャリス」とはまったく別のピアノです
CHARLES J. HOLDER
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1834年、チャールズ・J・ホルダーは、自分の名前を冠した会社をニューヨークに設立した。
興味深いことに、ウェーバーピアノ社のアルバート・ウェーバーは、チャールズ・J・ホルダーのもとで
見習いをした後、会社を設立した。
残念ながら、1800年代半ばから後半にかけて消滅したと思われるこの小さなピアノ会社については、
ほとんど知られておらず、時の経過とともに多くが失われている。

数少ない資料によると、チャールズ・J・ホルダーのピアノは品質が高く、
いくつかの賞を受賞し、高い評価を得ていたという。
また、チャールズ・J・ホルダー社が製造したピアノ・フォルテ
(1800年代初頭に流行した現在のピアノの原型)は、
ニューヨークのアメリカン・インスティテュートでクラス最高の銀メダルを獲得している。
CHARLES STIEFF
CHARLES M. STIEFF
CHAS. M. STIEFF
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チャールズ・M・スティーフ 創業1842年 アメリカ(ボルチモア/BOLTIMORE)
ピアノ内部のフレームには、「ESTABLISHED 1842」と書いてあります。

1831年にドイツからアメリカに渡ったチャールズ・M・スティーフ、
1841年にヨーロッパから輸入したピアノの販売を開始し。
1842年にメリーランド州ボルチモアにピアノ会社を設立した。

スティーフ氏の長男であるジョン氏が会社を引き継ぎ、彼の指揮のもとで会社は大きく成長した。
1876年、ジョンは自分の会社の株式を兄弟に売却した。
スティーフ社は、自社製品だけでなく、Bennett-Bretz社、Davies & Sons社、
Leslie Brothers社、Shaw社の製品も製造し、何十年にもわたってそれなりの成功を収めた。
残念なことに、100年以上の歴史を持つ同社は、1951年に倒産した。
チャールズ・M・スティーフは、高名な実業家として知られており、
最高水準のピアノを製造していた。
グランドピアノとアップライトピアノの両方を製造していたスティーフ社の楽器は、
信じられないほど長く使える耐久性のあるピアノとして業界で知られていました。
CHAS. THWAITES
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CHAS.スウェイツ スウェイツ商会
CHASE, A.B. →A.B. CHASEの項目へ
CHASSAIGNE

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CHASSAIGNE FRERES/Chassaigne Frères
スペイン 詳細不明

画像は「匿名希望様」からご寄稿いただきました。ありがとうございます!
CHAVANNE 詳細不明
CHERNY


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CHERNY チェルニー

製造:東洋楽器製造株式会社(広島市)
広島の東洋楽器製造のワグナー、ヒロタに次ぐ第三のブランドでした。

<参考>
あのピアノ練習曲を数多く残したことで有名なカール・チェルニーの正しいスペルは”CZERNY”ですが、
東洋楽器製造株式会社が作っていたピアノ、ツェルニーのスペルは”CHERNY”です。
CHEW
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→S. CHEW(周ピアノ)の項目を参照
CHICAGO COTTAGE ORGAN & PIANO COMPANY
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Chicago Cottage Organ & Piano Company

シカゴ・コテージ・オルガン・アンド・ピアノ・カンパニーは、
1879年にウォルフィンガー・オルガン・カンパニーという名前で設立された。
F.R.ウォルフィンガー、ジョン・コムストック、そして後にニューヨークでケーブル・ピアノ・カンパニーを
設立したハーマン・ケーブルの3人がシカゴの会社の元々のオーナーであったが、
1885年にコムストックがE.E.ワイズとジョージ・テュークスベリーに株式を売却した。
この時、社名を「シカゴ・コテージ・オルガン・カンパニー」と正式に変更した。

最盛期にはピアノを年間16,000台、オルガンを年間18,000台ほど生産していたが、
その需要に応えるために、シカゴにいくつかの工場や事務所を開設したのである。
1900年代初頭にシカゴ・コテージ・オルガン社の名前は消え、ケーブル・ピアノ社として知られるようになった。

残念ながら、シカゴ・コテージ・オルガンの楽器が出す音や音色については、ほとんど情報がない。
買収されて製造方法のほとんどが変更されるまでの短い期間に製造された様々なモデルやタイプについても、
会社の記録にはほとんど見られない。

また、シカゴ・コテージ・オルガンの音の特徴、音色、音響特性についての歴史的な記述は非常に少ない。
このような愛すべきオルガンの所有者の中には、その価値を証言してくれる人もいるが、
多くの古い、あまり知られていないブランドと同様に、そのような情報の多くは過去に失われてしまっている。
CHICKERING, JACOB 詳細不明
CHICKERING & MACKAYS 詳細不明
CHICKERING & SONS


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チッカリング・アンド・サンズ アメリカ(ボストン)
ボストンとニューヨークにコンサートホールを所有・運営
CHICKERING & SONS

創業1823年。エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品。
※エオリアン(AEOLIAN)の項目も参照

チッカリングは19世紀中盤は一流のメーカーとして君臨していたのは皆様ご存知だと思います。
なんといってもチッカリングを有名にしたのは、現代のピアノを決定づけたといってもよい、
鉄のフレームの特許をとっていることです。
1867年にはパリの世界博覧会で金メダルもとっています。
この金メダルをとったピアノもリストに献呈され、リスト・アカデミーの院長室にあるようです。
リストは贈呈されたチッカリングのピアノが運ばれてきたとき、大感激して2時間も弾きつづけたという。

<歴史>
1823年、ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトを製作。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念する。1840年にはグランドピアノも完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおけるピアノ製造の基礎を築いた。

<附録>
チッカリングピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1980年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
チッカリング&サンズ(Chickering & Sons)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに所在した
ピアノ製造会社であり、優れた品質と設計の楽器の生産で知られていた。
1823年にジョナス・チッカリングとJames Stewartによって「Stewart & Chickering」が創業されたが、
4年後にこの協力関係は解消した。1830年までにジョナス・チッカリングはジョン・マッケイと共同経営者となり、
「Chickering & Company」、後には「Chickering & Mackays」としてピアノを製造した。
1841年に老Mackayが死去し、1853年に会社は「チッカリング&サンズ」として再編された。
チッカリングブランドのピアノは1983年まで作られ続けた。
ピアノ製作者ジョン・オスボンの弟子として働いていたジョナス・チッカリングが1823年、
同僚であったスコットランド人と共同でボストンに工房を開いてスクエア・ピアノの製作を開始した。
1830年、イギリスのブックケースタイプと呼ばれる楽器をモデルにして最初のアップライトピアノを完成した。
その後事業拡大のため実業家のジョン・マッケイと組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、
スポンサーを得たチッカリングはピアノの製作と研究に専念した。1840年にはグランドピアノを完成。
総鉄骨が採用されたこのグランドピアノは特許を取得しアメリカにおける
ピアノ製造の基礎を築いたといわれている。
1841年に事業を担当していたジョン・マッケイが船で遭難し行方不明となってしまい、このためチッカリングは
経営事業にも直接携わるようになった。ロンドンでピアノメーカーの最高の栄誉賞を受けるなど
ピアノ事業は順調だったが1852年、不幸にもピアノ工場が火災に遭い全焼してしまった。
新工場の再建に着手するも、創業者のジョナス・チッカリングは
1853年でこの世を去った。その頃、工場はチッカリング・アンド・サンズと名称を改めており、
チッカリング社のピアノ製造事業は、ジョナスの長男であるトーマス・E・チッカリングが引き継いだ。
トーマスは商才にたけた人物で、将来を期待されていたが若くして死去した。
トーマスの死後はジョナスの次男であるC・フランク・チッカリングが事業を引き継いだ。
1867年、パリ万博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得したが、その数日後、フランク・チッカリングは
当時のフランスの皇帝であったナポレオン3世に拝謁を仰せつかるという栄誉を受け、
音楽芸術に対する貢献として十字勲章を授けられた。
この頃、ヨーロッパにはピアニストとして名をはせていたフランツ・リストがおり、
チッカリングはリストが滞在していたローマまでピアノを届けている。
チッカリングが製作したピアノが運ばれてきたときリストは感激して2時間弾き続けたという。
また「今日、私はリストの壮麗な音のチッカリングを弾いた」と手紙に記している。
1891年にフランク・チッカリングはニューヨークで死去したが、チッカリング社は1904年に
クォーターグランドピアノと呼ばれる当時世界最小のピアノを製作した。
1909年以降チッカリング社はエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収され、
チッカリング一族は経営から姿を消した。


<チッカリング史 時系列解説>
チッカリング&サンズ社は、1823年にジョナス・チッカリングとパートナーのジェームス・スチュワートによって
ボストンに設立された、アメリカで最も初期のピアノメーカーのひとつである。
この会社の初期の歴史は、何度もビジネスパートナーや社名が変更されたことが特徴である。

<以下、チッカリング年表>
1823年 -
  ジョナス・チッカリングがパートナーのジェームス・スチュワートとともに
  「スチュワート&チッカリング」を設立
1827年 -
  チッカリングとスチュワートの提がを解消
1830年 -
  チッカリングが船長のジョン・マッケイと提携し、ピアノの材料を南米から調達
1839年 -
  ジョン・マッケイの息子ウィリアム・マッケイが提携し、
  「チッカリング&マッケイ」という新しい名前でピアノを製造。
1841年 -
  チッカリング社とマッケイ家の提携が解消。
  この短い期間に「チッカリング&マッケイ」として製造されたピアノは、
  現在では非常に珍しく、貴重なものとなっている。
1852年 -
  チッカリングの息子のジョージ、フランク、トーマスが提携し、
  「チッカリング&サンズ」が新しい会社名となる。
1853年 -
  ジョナス・チッカリングが亡くなり、息子たちがビジネスを継続。
1908年 -
  「チッカリング&サンズ」がアメリカ・ピアノ・カンパニーに売却され、
  チッカリング・ピアノの製造を継続。
1932年 -
  アメリカ・ピアノ・カンパニーとエオリアン・ピアノ・カンパニーが合併し、
  チッカリングピアノの生産を継続。
1985年 -
  エオリアン・アメリカン・ピアノ社が廃業し、チッカリングピアノブランドの生産が終了。

<チッカリング&サンズのピアノ技術>
チッカリング&サンズ社は、19世紀を代表するピアノブランドとして、その品質の高さと、
グランドピアノの技術にいくつかの重要な進歩をもたらしたことで知られています。
特にジョナス・チッカリングは、現在のすべてのピアノに標準装備されている1枚の鋳鉄製プレートを
ピアノに追加した。この鉄製フレームは、グランドピアノの高い弦の張力を支えるのに大変役立った。
さらにチッカリングは、スクエアピアノの省スペース化のために、弦を重ねるという新しい弦の張り方を
発明したことでも知られている。これらの功績により、チッカリング&サンズ社は、
1867年に音楽への貢献が認められ、皇帝ナポレオン3世から
レジオン・ドヌール勲章をはじめとする多くの賞を受賞。
1900年代初頭にスタインウェイが台頭してくるまで、チッカリングピアノは当時のコンサートピアノとして
好まれていた。チッカリング社は、自社の職人技とピアノの品質をアピールするために、
ボストンとニューヨークにコンサートホールを所有・運営していた。
実際、リンカーンはホワイトハウスにチッカリングのピアノを数台持ち込み、大統領一家が愛用していた。
CHICKERING BROS. 詳細不明
CHIYODA
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チヨダ 千代田楽器製造所 戦前にあったブランド
CHOLLARD 詳細不明
CHOLLARD & CHOLLARD 詳細不明
CHOPIN


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ショパン

製造元:三高アクション製作所(浜松市薬師町763番地)、及川ピアノ製作所(浜松市)
発売元:三浦ピアノ店(文京区東大前) 

WALDSTEIN ワールドシュタイン(バルトシュタイン)の項目も参照。
戦前から東京文京区東大前の三浦ピアノ店を代理店として売り出された。
ワールドシュタイン(バルトシュタイン)も同様に売り出されていた。
CHRISTENSEN 詳細不明
CHRISTOFORI 詳細不明 CRISTOFORIとは違うのか?
CHRISTMAN 詳細不明
CHU-SENG 詳細不明
CIAIKOVSKY




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CIAIKOVSKY

チャイコフスキー ロシア(ソ連製USSR) RAZNO製造

フレームのロゴにはRazno(ラズノ)と書いてあります。いろいろな楽器を作っていた会社のようです。
(ベリョースカやウラジミールなど)

このメーカーの外装(突き板)はひどく剥がれてきます。
何台か調律したことがありますが、外装、アクション、音色含めかなり酷い作りのピアノで苦労しました。。
※ちなみにあの有名な音楽家であるチャイコフスキーの正しいスペルは、TCHAIKOVSKYです。

スペルは、「CHAIKOVSKY」や「TCHAIKOVSKY」ではないので注意。
※CHAIKOVSKY(チャイコフスキー)というブランド名で日本国内でも
製造販売されていたピアノが存在するようですが、詳細不明。その銘柄ブランドマーク →★
CITY LIFE



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CITY LIFE シティー・ライフ 株式会社河合楽器製造所

カワイが作った廉価版小型ピアノ。
ピアノの各所を細かく見ますと、鍵盤が1枚板からではなく、中央部分で継いである
2枚の接ぎ合わせ板を使用していたり、フェルトブッシングの代わりに段ボールのような硬い紙を使っていたり、
アクション部品を新たに開発した新素材(プラスチック等)に変更したりしています。
「シティーライフ」という名称からも分かるように、都会の団地向けの小型軽量ピアノという位置づけで
河合楽器が開発したとも言われています。小型ということもあり、出せる音量は控えめな感じがします。

シティーライフのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
CLAIR


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クレール 有限会社クレールピアノ製作所

東京蒲田楽器製作所の創始者である斉藤喜一郎氏が戦後、
横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立して製作したピアノ。
現在のウイスタリア・ピアノ製作所

<ウィスタリア・ピアノ歴史(抜粋)>
1924年、創立者斉藤喜一郎は1920年から23年までピアノ製作技術研究のためドイツに留学、
帰国後東京蒲田楽器製作所を設立し、「ブッフホルツ」および「ホルーゲル/ホリューゲル」を製作する。
戦後、横浜に(有)クレールピアノ製作所を設立。西ドイツピアノ製作業界視察のため再渡欧、
特にグロトリアン・スタインウェッヒピアノ会社の親交を得てピアノ製作技術の指導を受ける。
1956年、製作者の紋章に象り、ウィスタリア・ピアノ製作所と改称。
CLARENDON PIANO CO アメリカ(イリノイ州ロックフォード/ROCKFORD ILL.)
その他詳細不明
CLARK MELVILLE 詳細不明
CLASSENTI 詳細不明
CLASSIC 詳細不明
CLEA
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クリア 有限会社クリア商会
CLEAR
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クリアー 株式会社 井上楽器製作所
CLEMENT
CLÉMENT
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クレマン 韓国 SAUJIN 詳細不明

CLEMENT/CLÉMENTのまくり(蓋部分)の銘柄ブランドマーク →★

※SAUJINの項目も参照 
CLEMENTI 詳細不明
CLINE 詳細不明
COBLENZ
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Königl. Hof-Pianofabrik 詳細不明
COCKUIJT 詳細不明
COLLARD & COLLARD


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コラード・アンド・コラード イギリス(ロンドン) 詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
コラード&コラード(Collard & Collard)は、かつて存在したロンドンに拠点とする
有名なアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
社名は2人の兄弟フレデリック・ウィリアム・コラードとウィリアム・フレデリック・コラードに由来する。
1767年、ロンドン・チープサイド通り26番地に音楽販売および製造業者である
Longman & Broderipが設立された。
Longman & Broderipが販売する楽器は、ピアノメーカーのGeib and Guilfordが製造した。
現在知られている最も古いLongman & Broderipの楽器は1770年製の5オクターブの
スクエア・ピアノであり、ボストンの博物館に展示されている。
Longmanの共同経営者は何度か変わり、社名は1771年にはLongman & Lukey、
1774年にはLongman, Lukey & Comp. と呼ばれていた。
1778年に作曲家でピアノ教師のムツィオ・クレメンティが会社に加わり、
会社はLongman & Clementiとなった。
クレメンティの後の共同経営者の一人が木製家具職人のフレデリック・コラードであった。
コラードは楽器製作者として、特に響板の専門家として需要があった。
クレメンティが販売を担当したのに対して、コラードはピアノ生産に責任を持つようになった。
クレメンティは非常に保守的であり、ピアノ製造における革新に反対していた。
ウィリアムとサモシン・コラードの息子フレデリック・ウィリアム・コラードは、
1772年6月21日にサマセット州ウィベリスクームで洗礼を受けた。
14歳の時にロンドンへ移り、Longman, Lukey & Broderipに雇われた。
弟で共同経営者のウィリアム・フレデリック・コラードは、1776年8月25日にウィベリスクームで
洗礼を受けた。ピアノ製造技師および発明家としての才能に加えて、彼は詩や文学にも情熱を持っていた。
1799年、Longman & Co. は経営難に陥り、John Longman、ムツィオ・クレメンティ、
Frederick Augustus Hyde、フレデリック・W・コラード、Josiah Banger、
およびDavid Davisの新会社が事業を引き継いだ。
1800年6月28日、LongmanとHydeが引退し、会社はMuzio Clementi & Co. となった。
しばらくした後、弟のウィリアム・F・コラードが共同経営者として加わった。
1817年6月24日、Bangerが共同経営を下りた。
1831年6月24日、F・W・コラード、W・F・コラード、クレメンティの間の共同経営が終了した。
コラード兄弟は弟のW・F・コラードが引退する1842年6月24日まで事業を継続し、
F・W・コラードが単独の経営者となり、彼の2人の甥フレデリック・ウィリアム・コラードJr. と
チャールズ・ルーキー・コラードが共同経営に加わった。
1832年の後、長年クレメンティの名前で販売されていたピアノのブランドが
「コラード&コラード」と命名された。
多くの特許が取られ、主に演奏機構とフレームシステムの改良が含まれた。
会社はすぐに音楽出版を中止し、ピアノ製造に集中した。
例外として、彼らは1858年までイギリス東インド会社向けのラッパ、横笛、太鼓の製造も行なった
(1858年にインドの統治権がヴィクトリア女王に譲渡され、東インド会社は解散した)
コラードは1851年のロンドン万国博覧会にグランドピアノを出品した。
会社は2度の大火にあった。1807年3月20日、トテナム・コート・ロードにあった工場が全焼した。
1851年12月10日、カムデン・タウン、オーバル・ロードに新たに建設された工場が全壊した。
弟のウィリアム・フレデリック・コラードは1842年にピアノ製造業から引退し、
1866年10月11日にフォークストーンで死去した。
兄のフレデリック・ウィリアム・コラードは1860年1月31日にチープサイド通り26の自宅で88歳で死去した。
彼は1786年にロンドンに着いてからずっと同じ住所に居住した。
より多くのドイツのピアノメーカーがイギリスの市場で成功し始めたため、コラード&コラードは
1900年からイングランドにおけるピアノ製造の落ち込みに巻き込まれた。
1929年、コラード社はチャペル& Co.に買収された。
1963年の火災でコラードとクレメンティの全ての記録が失われた。
1980年、チャペルのピアノ製造および小売事業はケンブル&カンパニー(Kemble & Company)に売却された。
COLBY 詳細不明
COLONIAL 詳細不明
COLONIET
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コロニエット

WESER BROTHERSが製造していたブランド
→詳しくはWESER BROTHERSの項目へ
COLORATURA



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コロラトゥーラ

製造元:HAILUN楽器(中国) 出荷最終調整:アサヒピアノ(中国人社長、浜松)
ピアノ線(ミュージックワイヤー)は、レスロー弦を使用しているとのこと。

ピアノ自体のの雰囲気や作り、製造&販売背景が私がよく調律する
「ウエンドル・アンド・ラング」というピアノによく似ています。
ピアノの音色はまだ実際に聴いたことがないので感想はまだ書けませんが、
今後、調律する機会があればここに感想をアップさせていただきます。

<参考>
コロラトゥーラとは、クラシック音楽の歌曲やオペラにおいて、速いフレーズの中に装飾を施し、
華やかにしている音節のこと。具体的にはトリルが多用される。
これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルトの歌劇『魔笛』における
第2幕の夜の女王によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。

<ハイルンピアノ詳細:Wikipediaより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、
FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。

ハイルンピアノ公式HP:http://www.hailunpiano.com/
COLTOT
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コルトー 販売:内外ピアノ社(東京千代田区神田神保町1-1) 詳細不明
CONCERT
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コンサート 羽衣楽器製造(株)浜松市 詳細不明
CONN キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
CONOVER
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コノーバー/(コノバー) ケーブルピアノ社製(アメリカ・オレゴン州)
生涯をかけて音の研究に没頭したJ.フランク・コノーバーが作り出した最高級品質のピアノとのこと

この下の「CONOVER CABLE」と同一のピアノか?不明
CONOVER CABLE
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1880年、ミズーリ州カンザスシティにコノバー社が設立された。
1890年には、コノバー社とケーブル社が合併し、コノバー・ケーブル社が設立された。
1890年にコノバー社とケーブル社が合併し、コノバー・ケーブル社が誕生した。
この合併は、両社の歴史の中で重要な時期であり、その後のピアノの生産に大きな影響を与えた。

合併後すぐにシラー・ピアノ社を買収。
コノーバーとシラーのピアノブランドのモデルは、同社の最高価格帯のピアノであった。
1904年になると、The Conover Cable CompanyはMason and Hamlin Piano Co.を
倒産から救う機会を得て、新しい支店を開設した。
この時点で、コノバー・ケーブル社は、メイソンとハムリンの販売店も手に入れた。
結局、コノバー・ケーブル社は、エオリアン・コーポレーションに買収される
20世紀初頭の多くのピアノメーカーと一緒になった。

この上の「CONOVER」と同一のピアノか?不明
CONSERVATOIRE
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コンセルバトワール Conservatoire アトラスピアノが国立音大の楽器研究室で作っていたブランド
※詳しくはアトラスの項を参照
CONSOLAT DE MAR 詳細不明
CONTINENTAL 詳細不明
CONSOLE
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コンソール 日本 村瀬克己氏 詳細不明
CONWAY 詳細不明
CORBERT
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コルベール 日本 小出一三氏 詳細不明
CORNISH 詳細不明
COSMOPOLITAN
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コスモポリタン 日本 詳細不明
COSMOS


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コスモス

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
その他にも違うブランドでピアノを製造していたとの記録あり。
COSMOS HARVARD コスモス・ハーバード 大倉楽器工業株式会社
COSMOS NOBEL コスモス・ノーベル 大倉楽器工業株式会社
COSMOS PRINCETON コスモス・プリンストン 大倉楽器工業株式会社
COSMOS ROYAL コスモス・ロイヤル 大倉楽器工業株式会社
COTTIER
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Cable Nelso(ケーブル・ネルソン)n社が製作していたブランド
→詳しくはCable Nelsonの項目へ
COTTO 詳細不明
COWBELL

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COWBELL カウベル
レスターピアノ製造が作っていたピアノのようですが、詳細不明

※レスターピアノ製造株式会社についての詳しくは→LESTERの項目へ

<参考>
カウベル(英: cowbell)とは、牛 (cow) などの放牧してるような家畜の首に付け、
見失わないようにするための金属製の鐘鈴 (bell) のことです。
CRAMER


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J.B.Cramer クラーマー/(クラマー)
イギリス(ロンドン)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J・B・クラーマー& Co.(J. B. Cramer & Co.)はロンドンにかつて存在した楽器製造、楽譜出版、
音楽販売業者である。1824年にヨハン・バプティスト・クラーマーによって創業された。
ボンド・ストリートにあった建物は1964年に会社がケンブル& Co.に買収された時に閉鎖された。
1824年に音楽家のヨハン・バプティスト・クラーマーとRobert Addison、Thomas Frederick Bealeによって
共同で創業され、「Cramer, Addison & Beale」と呼ばれていた。
ヨハン・バプティスト・クラーマーは1833年末に事業への関与をやめ、
1844年にAddisonはBealeとの協力関係を解消してRobert Hodsonとの事業を始めた。
Robert Hodsonは以前ルイス・ヘンリー・ラベニューと協力関係にあった人物で、
AddisonとHodsonはコンデュイット・ストリートの反対側のリージェント・ストリート210番地にあった
Cramer & Co.の道路の向こう側に「Addison & Hodson」を設立した。
Cramer & Co. 社はその後Cramer, Beale & Co. と呼ばれた。
次にウィリアム・チャペルがBaeleの事業に加わったが、1847年に関係を解消し、
事業はThomas Bealeによって行った。
チャペルは再び事業に加わったが、最終的に1861年に引退した。
当時「Cramer, Beale & Chappell」という名称が出版物上で使用された。
1862年、George WoodがBaeleとの事業に加わり、その期間は「Cramer, Beale & Wood」という
名称が使われた。1864年までに、Baeleは会社を離れ、名称は「Cramer, Wood, & Co.」に変わった。
主な店舗はリージェント・ストリート201番地、コンデュイット・ストリート67番地、
コンデュイット・ストリートとリージェント・ストリートの角にあった。
この住所は1820年代から1890年代までこの会社との結び付きがあった。1873年に会社は
「Cramer's Great City Warehouse」または「Cramer's City Warerooms」と呼ばれた展示場を開業した。
(最初はムーアゲート・ストリート43から46番地、後に40から42番地にも拡大した)
1896年から1901年に主要な店舗はリージェント・ストリート207および209番地に移転し、
その後1902年までにオックスフォード・ストリート126番地に移った。
1912年、主要店舗はニューボンド・ストリート139番地に移され、
1964年にピアノ製造会社ケンブル& Co.に買収されるまでここで営業を続けた。
ケンブルは限られた期間「J. B. Cramer & Co.」ブランドを使い続けた。
CRANE & SONS イギリス CRANE & SONS, LTD. 詳細不明 
CRANES
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鍵盤蓋にEst 1851とあるので、1851年設立?
トレードマークは2種類あるようですが、その中の1つがREID-SOHN、KAFMANN、SAMICK、
SCHNABEL、WEINBURGなどと同じマークなので商標権を獲得した韓国メーカーが現在製造?
詳細不明
CREABEL
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クリーベル 
販売:協立楽器 製造:大成ピアノ製造株式会社
※注:他にもクリーベルという名称のピアノあり
CRISTOFORI
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クリストフォーリー(クリストフォリ) 発売元:三協ピアノ株式会社(浜松市) 詳細不明
CRISTOFORI



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CRISTOFORI クリストフォリ

製造元:大成ピアノ製造株式会社
発売元:株式会社 渡辺商店

その他詳細不明

CRISTOFORI

CRISTOFORI

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CRISTOFORI クリストフォリ

製造元、発売元:東洋ピアノ製造株式会社
製造国:インドネシア→最終調整:日本

18世紀にピアノを発明したとされるイタリアのBartolomeo Cristoforiにちなんで
命名されたクリストフォリシリーズ。
家具調のRU-118と木目調ピアノのスタンダードなデザインのRU-121など。
CR-110、CR-121、C-126などもあり。

鍵盤押さえ部分には「TOYO PIANO MFG. CO:LTD」というシールが貼られております。
トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
CROWN




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CROWN クラウン アメリカ(シカゴ)
1870年設立 ジョージ・P・ベントピアノカンパニー

4本ペダルが特徴でチェンバロ風に音色を変えられるとのこと。

<クラウンピアノの歴史>
1870年に設立された「クラウン」ピアノは、当初あまり知られていないピアノ名であったが、
ジョージ・P・ベント・ピアノ・カンパニーによって製造されたもので、名誉あるピアノ会社に成長した。
しかし、世界大恐慌により1929年頃にジョージ・P・ベント社がピアノの製造を中止したため、
クラウンピアノは製造中止となったが、Crownのブランド名で1940年代後半まで別会社で生産されていた。

ジョージ・P・ベントは「クラウン」ブランドのオルガンも生産しており、
20世紀末にはシアーズ・ローバック・アンド・カンパニーが限定的に販売・流通していた。
ブランド名は他に「Concord」というブランドも製造していた。
The Geo. ベント社は現在、ケンタッキー州ルイビルのアドラー社が所有しており、
アドラー社は「クラウン」ピアノを製造している。

世紀末のクラウンピアノの代表的な革新技術は、「オーケストラ・アタッチメント」と
「練習用クラヴィーア」で、これらはいずれもフットペダルの操作でコントロールできる特別な機能だった。
クラウンは、他の近代的なピアノメーカーではあまり採用されなかったユニークな機能であり、
今でもリンデブラードの店頭で見かけることがありますが、斬新なものでした。
クラウン・コンビノーラピアノは88音というフルスケールを演奏し、チューブは柔軟性のある金属製で、
シルクで覆われており、当時の広告によれば、一生使えるという。

CROWN COMBINOLAの4本ペダル部分 →★  CROWNピアノの全体写真 →★
ピアノの蓋にあるブランド名の部分 →★ ※当時輸入元だった十字屋楽器店のプレートが貼ってあります
鉄骨右側にある文字部分の拡大写真 →★  製造番号の部分 →★
これらの画像はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。たくさんの画像をありがとうございました!
CUIJPERS, J.F. 詳細不明
CUNNINGHAM
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CUNNINGHAM PIANO COMPANY カニンガム/(カニングハム) 創業1891年
ピアノのまくり(蓋の部分)には「CUNNINGHAM PHILADELPHIA USA」と書いてあります。

パトリック・カニンガムは、1891年にカニンガム・ピアノ・カンパニーを設立した。
ペンシルバニア州フィラデルフィアの工場では、カニンガムの名を冠したピアノのほか、
ジラード、フォレスト、ペインター&ユーイングのピアノも製造していた。

1924年には、オーバーブルック・ピアノ・カンパニーを買収し、会社は再び成長しました。
2008年に父親から会社を受け継いだローズ・カーとドリス・レーバー姉妹が会社を売却するまで、
会社は何世代にもわたって受け継がれてきました。

ティム・オリバーとリチャード・ガラッシーニという2人の男性が、カニンガム・ピアノ・カンパニーを買い取り、
100年以上ぶりに家族経営ではなくなったのです。
しかし、ティムとリチャードの下で、カニンガムピアノは繁栄した。
2人は、同社の最も人気のあるモデルであるマッチレス・カニンガムを再導入し、
第二次世界大戦前の設計図に基づいてデザインやスケールを更新して新たな命を吹き込んだ。

現在、カニンガム・ピアノ・カンパニーはフィラデルフィアにオフィスを構えているが、
マッチレス・カニンガム・ピアノ・シリーズは中国で製造されている。
世界大戦、不況、音楽産業の近代化などを乗り越えて、カニンガム・ピアノ・カンパニーが存続しているのは
非常に珍しいことで、人気と品質の高さを物語っていると言えるだろう。
CURRIER


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キュリエール CURRIER アメリカ

インターナショナル・ミュージカル・インストゥルメント社
会社名はやや大げさな名前ですが、大衆的なピアノを作る会社で、
工場はノースカロライナにあり、アメリカのピアノ工場としては
10本の指に数えられるほどの大規模な工場です。
ハワイ州、アラスカ州を含むアメリカ50州すべてに代理店を持ち、
ヨーロッパ、南米、カナダ、カリブ海諸島などにも輸出されています。
この会社は歴史こそありませんが、スピネットの小型のものから
一般的なアップライト、そしてグランドにいたるまでその種類は
極めて多く、さらに会社の中に独自の配送部門も持ち。全米各地へ
工場から自社のトラックで輸送が可能だそう。
伝統的な品質を誇るというよりは、販売力で勝負しようとする会社といえよう。

ボストンで同じ名前のキュリエール(CURRIER)というピアノが
作られているが、これとは全く無関係です。
こちらのキュリエール社は100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。
CURRIER


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アメリカ ボストン
100年以上の歴史を持つ有名なピアノメーカーです。上記キュリエールとはまったく別の会社です。
CURRIER & GILBERT 詳細不明
CZAPKA & SOHN 詳細不明
CZERNY
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あのピアノ練習曲を数多く残したことで有名なチェルニーの正しいスペルは”CZERNY”ですが、
東洋楽器製造株式会社が作っていたピアノ、ツェルニーのスペルは”CHERNY”です。
→この上方、CHERNYの項目へ
CZERNY
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チェルニー ロシア(ソ連) 詳細不明

  上記Cから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

     

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

D.W. KARN →KARNの項目へ
D'ALMAINE 詳細不明
D'ESTE 詳細不明
DAESUNG 詳細不明
DAEWOO
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大宇財閥
※韓国のピアノメーカーで「DAEWOO」はピアノブランド名ではないようです
DALE FORTY 詳細不明
DALIBOR 詳細不明
DANEMANN



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W.DANEMANN & CO. ダネマン イギリス 詳細不明

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
DANEMANN, W ダネマン 詳細不明
DANIËL ダニエル 詳細不明
DANIELS
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ダニエルズ
Cable Nelso(ケーブル・ネルソン)n社が製作していたブランド
→詳しくはCable Nelsonの項目へ
DARIUS
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ダリウス
日本ピアノ株式会社
本社:東京都中央区日本橋本町4-1(本町ビル内)
工場:静岡県磐田郡袋井町袋井駅前 (現:袋井市)
DASSEL 詳細不明
DAVENPORT & TREACY 詳細不明
DAVID À PARIS 詳細不明
DAZARL
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ダザール 日本 詳細不明
DE BLAISE 詳細不明
DE HEUG
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ベルギー(シャルルロア) 1892年創業

創業者:Pierre De Heug(1867年生~1932年没) 家族経営

1905年、De Heugのピアノはリエージュの万国博覧会に参加し、そこで銅メダルを獲得。
そこで広く知られるようになった。
1908年、大規模な火災によりピアノ工場が焼失するも再建。
1932年にPierre De Heugが亡くなり、Paulは兄弟の株を買い取り、その工場の所有者になる。
1934年、建築士に依頼し、新しい店を建てる。
1938年、会社はパートナー形式の形をとり、「De HeugFréres」となる
その後、会社はピアノ製造にとどまらず家具の製造、とりわけキッチン家具の製造に乗り出す。
1980年、倒産
DE VOE & SONS
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De Voe & Sons キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
DEBAIN ET CIE 詳細不明

DECKER BROTHERS

DECKER BROTHERS

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デッカー・ブラザーズ
創立 1865年(1862年?) ニューヨーク

デビッド・デッカー、ジョン・デッカー

<デッカーブラザーズピアノの歴史>
デビット・デッカーとジョン・ジェイコブ・デッカー兄弟は、
1862年にニューヨークでデッカー・ブラザーズを設立。
この会社は、シカゴのデッカー・ブラザーズやニューヨーク州アルバニーのデッカー・アンド・サンとは
別の会社であることに注意が必要です。
デビットとジョン・ジェイコブは非常に独創的で、自分たちの楽器に関連するものやそうでないものなど、
多くの特許を持っていた。
1885年にデイビッド・デッカーが引退した後、ジョン・ジェイコブが引き継いで1896年頃まで会社を運営したが、
その時点で閉鎖されてしまった。
デッカーのピアノは非常によくできていて、さまざまな面で時代を先取りしていました。
DECKER & SON
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デッカー・アンド・サン ニューヨーク州アルバニー 詳細不明
DELAPINO
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デラピノ
製造:アトラスピアノ製造株式会社 販売:静岡県楽器製造協同組合
DELMAR 詳細不明
DEMUSA
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デムッサ

ドイツ(旧東ドイツ)のピアノはすべてデムッサ公団で取り扱われていた。
その他詳細不明
「DEMUSA」はピアノブランドではない。 
DENGLER 詳細不明
DENTON
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Cable Nelso(ケーブル・ネルソン)n社が製作していたブランド
→詳しくはCable Nelsonの項目へ
DH. BALDWIN


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DH.ボールドウィン 中国  当時:協立楽器(神戸)で販売
※アメリカのボールドウィンとはまったく関係ありません。

THE中国製。外装はキレイに作られてはいるが、ピン味が悪くその他作りは日本製には及ばずといった感じ。
調律は相当手こずります。大変なピアノでした。
ちなみに、”OTTO MEISTER(D.H.ボールドウィン)”というピアノとほぼ同じ雰囲気です。

DHボールドウィンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

DIAPASON


DIAPASON


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ディアパソン 販売:浜楽商事(株) 製造:浜松楽器工業(株) 現在はカワイの所有するブランド
「ディアパーソン」と伸ばして呼ぶ人や、「デアパソン」という人もいます。

「浜楽商事株式会社~株式会社ディアパソン」時の本社住所:浜松市寺島町200番地

※ディアパソン(Diapson)はフランス語(および英語)で「音域」や「音叉」の意味ですが、
下記で紹介のNHK放送内では「純粋な音」と解説しております。詳細は不明です。

1948年(昭和23)、大橋幡岩氏と馬淵真蔵氏が浜松楽器工業をと創設。
大橋幡岩(おおはしはたいわ)氏の設計で、アップライトピアノ、グランドピアノともに
すばらしい音色を持ち、低音が特に広がりのあるダイナミックな音色。
浜松楽器当時はヤマハ、カワイに次ぐ第三のメーカーと言われた時代もあり、
たいへん多くの愛好者を持っています。
しかしその後、経営が行き詰まり河合楽器の資本傘下に入りました。
私見としてディアパソンのアクションは非常に出来が良いと思います。
除響板(高音域の鳴りをより際立たせるため響板の一部を三角形に切り欠いた構造)を採用している。
この除響板はドイツのベヒシュタインを参考にしていると言われています。
※ピアノ販売最盛期、大成ピアノ製造(株)で外注製造していた頃もあり(製造番号にTが入る)

一番上のトレードマークは大橋幡岩設計(大橋デザイン)の型番No.132です(S43年製造)
上から二番目のトレードマークは大橋幡岩設計(大橋デザイン)の型番No.125です(S48年製造)
ディアパソンのアクションに貼られたブランドシールと、旧式プレート →★1 →★2
ディアパソン全体写真 →★
ディアパーソンピアノのまくり(蓋部分)にあるメーカーブランド銘柄マーク →★
ディアパソンのフレーム部分にある大橋デザインのマーク →★1 →★2
ディアパソンのキーカバー →★  ディアパソンの保証書 →★
こちらはディアパソンの超初期の頃のピアノで、製造番号はなんと”2234”です(昭和22年)→★
※上記古い方のアクションレールに貼られたプレート写真と、製造番号2234の画像は
この度「匿名希望様」からご寄稿頂きました。お写真のご寄稿誠にありがとうございます!

ディアパソンの製造番号による製造年は、 8000番→昭和36年頃、15000番→昭和40年頃、
60000番→昭和50年頃、100000番→昭和58年頃、110000番→平成元年頃、115000番→平成5年頃です

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
株式会社ディアパソン(DIAPASON)は、かつて存在した浜松市のピアノ関連会社である。
DIAPASONブランドのグランドピアノおよびアップライトピアノの卸販売を行っていた。
河合楽器製作所の子会社であったが、2017年6月1日に河合楽器製作所と合併して解散した。
Diapsonはフランス語(および英語)で「音域」や「音叉」の意味ですが、
下記で紹介のNHK放送内では「純粋な音」と解説しております。詳細は不明です。
ディアパソンピアノは2018年現在、カワイの一ブランドとして販売されている。

<ディアパソン社史>
■1947年(昭和22年) - 大橋幡岩氏が曳馬木工所を設立し、ディアパソンピアノの試作品を製作。
■1948年(昭和23年) - 大橋幡岩氏が浜松楽器製作所の技術部長に就任。ディアパソン第1号が完成。
■1949年(昭和24年) - 浜松楽器製作所と曳馬木工所が合併し、浜松楽器工業株式会社が設立。
■1958年(昭和33年) - 浜松楽器工業 (株) が河合楽器製作所の子会社となる。
 ※この年、河合楽器製作所に吸収合併されると大橋幡岩氏は退職し、同年「大橋ピアノ研究所」を創設。
 ※その後の「大橋ピアノ研究所」については→「OOHASHI」の項目を参照
■1986年(昭和61年) - 株式会社ディアパソン設立。
■2017年(平成29年)6月1日 - 河合楽器製作所と合併し、株式会社ディアパソンは解散しました。

ピアノの製造はカワイが行っていた。多くのモデルはカワイのピアノを基にして、
天然素材や輸入のアクション部品を組み込んで調整したもので、総一本張りの弦、総アグラフなど
製作に手間のかかる方式を採用している。
会社解散時には、大橋の設計を使用したグランドピアノは全長183 cmのDR-5のみであった。
このモデルは、現在ほとんどのグランドピアノで使われている高音部の倍音を増強するための
デュープレックススケール方式を採用していない。

<ディアパソンHPからのメッセージより>
株式会社ディアパソンは、株式会社河合楽器製作所と平成29年6月1日をもって合併し、
株式会社河合楽器製作所が存続会社となり、株式会社ディアパソンは解散いたしました。

「浜楽商事株式会社~株式会社ディアパソン」時の本社住所:浜松市寺島町200番地(現在は浜松市中区)
河合楽器製作所に合併吸収後、ここは「(株)河合楽器製作所 浜松技術調律担当」として稼働していましたが
現在は閉業しております →Googleマップでの風景写真も載せておきます →★(C)GoogleMAP

ディアパソンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DIAPASON CUSTOM
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ディアパソン・カスタム
DIAPASON ROYAL



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ディアパソン ロイヤル

発売元:浜楽商事(浜松) 製造:ディアパソン(浜松)/外注製造(製造会社不明) 
ディアパソンロイヤルのトレードマークはディアパソンのワシのマークとは違いますね。

このディアパソンロイヤルは、ピアノ製造最盛期に一部の販売店向きに外注で製造していました。
契約満了後もその製造会社はしばらくの間ディアパソンロイヤルの名称を使い製造を続けていたとのことです。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
DIEDERICHS FRERES 詳細不明
DIETMANN
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ダイエットマン 南アフリカ(ウェリントン Wellington) 詳細不明
DISKLAVIER 詳細不明
DITTRICH 詳細不明
DOBBERT 詳細不明
DOCHTERMANN PIANO 詳細不明
DOES, VAN DER 詳細不明
DOHNERT
DÖHNERT
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デイネルト
DOHNERT/DÖHNERT
Y.H. DOHNERT/Y.H. DÖHNERT
磻田ピアノ研究所(日本ピアノサービス)
DOHNERT, GEBR 読み方不明 ドイツ 詳細不明
DOINA
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ドイナ ルーマニア 詳細不明
DOLCE
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DOLCE ドルチェ 日本 詳細不明

※参考:DOLCEとは音楽用語で甘く、優しく、柔らかくという意味
DOMINION PIANO AND ORGAN CO. 詳細不明
DONATH, MAX 詳細不明
DONGBEI
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ドンペイ 中国 詳細不明
DORFER

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ドルファー/(ドルハー)

第一楽器工芸株式会社(浜松)
新東海楽器製造株式会社(浜松)
沢根ピアノ製作所
広田ピアノ株式会社

沢根覚氏が材料を提供して製作していたものであったと伝えられています。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
DORIMA
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ドリマ ルビンシュタインピアノ製造(株) 静岡県掛川市

※正しいスペルは”DREMA”ではなく、”DORIMA”です
DÖRNER 詳細不明
DÖRNEBERG 詳細不明
DORIZAC
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ドリザック 東洋ピアノ製造株式会社
DOSS, ROBERT 詳細不明
DOUBLE

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ドゥーブル/ドーブル

製造:東洋ピアノ製造株式会社
発売元:静岡県楽器製造共同組合
DOULTON
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ダルトン?ドルトン? 中国 詳細不明
DOUTRELIGNE 詳細不明
DRACHMAN
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Estey Piano Corporation
→詳しくは「Estey」の項目へ
DREINHÖFER, WILHELM 詳細不明

DRESDEN




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ドレスデン DRESDEN

<初期>
ドレスデンピアノ(株)浜松市
大成ピアノ製造(株)浜松市和田町
<その後>
株式会社 クロイツェルピアノ
東洋ピアノ製造株式会社
浜松楽器工業株式会社

発売元:株式会社 渡辺商店

製造会社が同じなので、クラウスのトレードマークと文字が違うだけでほぼ同じです。
その他詳細不明。

ドレスデンのまくり(フタ部分)の銘柄マーク →★
画像はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

ドレスデンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
DREYER & CO. 詳細不明
DRIGGS, PARMELEE & CO. 詳細不明
DRIGGS PATENT PIANO CO. 詳細不明
DRIGGS & TOOKER 詳細不明
DUCK-SON & PINKER 詳細不明
DUCAT WILLMOTT
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Ducat Willmott & Co. ダケット・ウィルモット(ダカット・ウイルモット)
LONDON/ロンドン その他詳細不明
DULCETTE 詳細不明
DULCITONE
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ダルシトーン 富士楽器製造株式会社 (外国ピアノ輸入商会) 詳細不明
DULCITONE PLAYER
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Cable Nelso(ケーブル・ネルソン)n社が製作していたブランド
→詳しくはCable Nelsonの項目へ
DUNHAM, JOHN B. 詳細不明
DUNHAM, JOHN B. & CO. 詳細不明
DUNHAM & SONS 詳細不明
DUO ART
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DUO ART (デュオアート) アメリカ 詳細不明
DUYSEN
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ドイセン ドイツ 詳細不明
DYNASTY
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ダイナスティ 日本? 詳細不明

上記Dから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。


 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

E. GREEGE イー・グリーグ ベルリンピアノ製造株式会社
この下の”E. GREIG”とは違うピアノなのか?詳細不明
E. GREIG




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イー・グリーグ  E.GRIEG

発売元:(株)クニユキピアノ商会/クニユキピアノ株式会社(東京都神田須田町)
製造元:六郷ピアノ製作所、株式会社 富士楽器製作所

機種:No.10など

神田須田町にあったピアノ店の国行重槌氏(明治41年生)が六郷ピアノなどに作らせていたピアノ。

イーグリーグのまくり(蓋部分)にある銘柄マーク →★
トレードマーク画像と外観の写真は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ご寄稿ありがとうございます!
E. STEINER
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イー・スタイネル
戎ピアノ製作所/戎(えびす)ピアノ製作所

※漢字は「戒」×ではなく「戎」〇です
EAGLE イーグル 堀田洋行氏
EAGLEEK
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イーグリーク 大洋楽器工業株式会社

EARL WINDSOR

EARL WINDSOR

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EARL WINDSOR アール・ウィンザー
フローラピアノ製造(株) 浜松市白鳥町792番地(当時)

音色、作りは、まさにTHEフローラピアノといった感じです。

アールウインザーのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★  アールウィンザー(フローラ)の保証書 →★
■機種バリエーション:W112等

アールウインザーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EASTEIN




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EASTEIN イースタイン

製造:東京ピアノ工業株式会社(宇都宮市) 1949年創業(→1973年倒産)
本社:東京都(深川)、東京都(銀座)
※1973年、東京ピアノ親和会として再発足(→1990年廃業)
再発足後は「東京ピアノ製作所」という名称?(ピアノ据付け調律記録カードに印字されていました)

<分かっている当時の住所>
本社:東京都中央区銀座西7-5(弥生館)
工場:栃木県宇都宮市中戸祭町942番

松尾新一氏(明治35年生)が社長で、松本ピアノ系の技術者を集めて、
戦後、栃木県の宇都宮で念入りに製作したピアノとのこと。
特に、当時グランドピアノは特徴のある小型の良品であった。
ピアノ製造の大部分が浜松に集中する中、イースタインは関東のピアノ工業の一大勢力であった。
機種バリエーション:U型・N型・C型・E型・B型・T型(掲載の画像はT型)

イースタインのキーカバー →★  イースタインのアクション →★  イースタインピアノ内部 →★

<補足:Wikipediaより引用抜粋>
東京ピアノ工業株式会社(とうきょうピアノこうぎょう)は、かつて存在したピアノ製造業者である。
1949年創業。イースタイン (EASTEIN) ブランドのピアノを生産していたことで知られる。
その他、東京ピアノ工業のブランドとしては、森健氏の初期ブランド、UNIVERSAL(ユニバーサル)もある。
当時、本社は東京都(深川)、ピアノ製造工場は栃木県(宇都宮市)にあった。
■沿革
1949年4月発足。発足時の社長は松尾新一、工場長は瀬島利四夫。
1964年、ピアノ調律師の杵淵直知を技術顧問に迎えた。
1973年3月4日倒産。
1973年7月10日社員有志により、自主生産組織東京ピアノ親和会として再発足。
1990年6月15日廃業。

EASTEINというブランド名は、東京ピアノ工業の浜松より東側という意味からの「EAST」と、
スタインウェイ・アンド・サンズ(STEINWAY & SONS)を連想させるSTEINを組み合わせて作られた。
イースタインのブランドは、アップライトピアノではブリュートナーのコピーのB型、
ベーゼンドルファーのコピーのT型などがある。
グランドピアノも製作しており、円形支柱など構造と音色に特徴があるとされる。
→UNIVERSAL(ユニバーサル)の項目も参照

イースタインのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
EASTERN イースタン 日本 詳細不明
EASTMAN 詳細不明
EAVESTAFF
※下記は参考画像

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イーブスタッフ 福山ピアノ?

※トレードマークはフクヤマピアノとほぼ同じですが、マークの上部、王冠部分が、
イーブスタッフでは交差した音叉のマークになっている点と、下のリボン?に入っている文字が
SELECTED PIANOになっています。
EAVESTAFF
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W.G.EAVESTAFF & SONS イーベスタッフ イギリス(ロンドン)
アクションやチューニングピンが鍵盤の下にあるという珍しいピアノも製造
その他詳細不明
EBART

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読み方(イーバート?) 中国 詳細不明

鉄骨部分にはトレードマークはありません
EBEL & SOHN 詳細不明
EBEL, CARL 詳細不明
ECHO
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エコー 第一楽器工芸株式会社、新東海楽器(浜松) 詳細不明
ECKE, CARL 詳細不明
ECKSTEIN 詳細不明
ED SEILER 本当のザイラーは”SEILER”の項目参照
ED SEILER
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エド・ザイラー フィリピン 詳細不明
ED. WESTERMAYER 詳細不明
EDELSTEIN




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エーデルスタイン/(イーデルスタイン) 中国(北京)

北京にあるシンハイ/星海(XINGHAI/SHINGHA)の輸出向けピアノに付けられたブランド名称
その他詳細不明

<参考>
アトラスピアノの前身である(有)日米楽器工業所の「ADELSTEIN」と1文字違いで紛らわしいですが、
こちらはADELSTEINとはまったく関係はなく、中国製造のピアノです。
名称を真似している感が否めませんがピアノ製造業では良くある話です。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

※シンハイ(XINGHAI/SHINGHAI)の項目も参照
EDELTON


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エデルトン

富士楽器(外国ピアノ輸入商会・東京ピアノ商会)、周ピアノ製作所(周興華洋琴専製所)

東京ピアノ商会(外国ピアノ輸入商会改称)で取り扱った国産ピアノの高級品。
※大塚ピアノ商会でも販売
周ピアノに発注して輸入部品を使用させていた。
パネルに彫刻のあるものが多かった。 
EDOUARD JULES アメリカ(フィラデルフィア、ニューヨーク)
HEPPEピアノ社? 詳細不明
EGTVED 詳細不明
EHRBER
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エルバー オーストリア 詳細不明
EILERS
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アメリカ(オレゴン州ポートランド) 1899年創業
ポートランド(Portland)は、アメリカ合衆国オレゴン州北西部マルトノマ郡にある都市

Eilers Piano Companyは、1899年にオレゴン州ポートランドのHy Eilersによって設立されました。
元々は大規模な小売店でしたが、同社は高品質のピアノと自動ピアノの製造を開始し、
なんと10代から20代の間に彼は成功を収めました。
EILERSは「バンガロープレーヤーピアノ」と呼ばれる非常に人気のある自動ピアノのラインを生産し、
これはしばしば珍しい職人の家具スタイルで作られていました。
EILERSのピアノは主に西海岸に分布しており、今日では米国中部または東部ではめったに見られません。
大恐慌の始まりで、会社は1930年までに廃業しました。

<参考情報>
これと同じメーカー製のピアノは、日本国内の広島市内に「被爆ピアノ」として保存されております。
爆心地から約1.8Kmの広島市西区西観音町で被爆したピアノとのことです。
EISAKA

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エイサカ
伊藤鍵盤製作所
有限会社 伊藤ピアノ技研(浜松)
発売元:株式会社 永栄楽器

伊藤ピアノ技研が製作した「エリーゼン(EREIZEN)」とまったく同じトレードマークです
EISENBERG
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アイゼンベルグ 東洋ピアノ製造株式会社
EKSTEIN
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エクスタイン ロシア(旧ソ連製)
チャイコフスキーというピアノと同様のピアノだと思われますが詳細は不明
EKSTRÖM 詳細不明
ELBRIDGE
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Elbridge エルブリッジ

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
ELBURN
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エルバーン アメリカ(カンザスシティー)

エルバーンは、ミズーリ州カンザスシティの
J.W.ジェンキンス・ミュージック・カンパニーで製造されたピアノです。
1910年から1964年まで製造されていた。
Elburnピアノに関する情報はあまり多くありませんが、注目すべきは、
この工場が世界大恐慌と2つの世界大戦を生き延びたことです。
1900年代のピアノ製造業界としては、かなり珍しいことである。

アップライトピアノ、グランドピアノ、プレーヤーピアノ、スピネットピアノ、コンソールピアノなどがあり、
Elburnシリーズはミズーリ州とその周辺地域で非常に人気がありました。
興味深いことに、これほど人気があり、長い間生産されていたにもかかわらず、
Elburnの音や音色についての情報はほとんどありません。
このことが、Elburnの魅力をさらに高めている。
ELCKÉ 詳細不明
ELEGANT
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エレガント 浜松の中部楽器製造(株) 詳細不明 
ELGATON

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エルガトン アトラスピアノ製造株式会社
ELIAS 詳細不明
ELINGTON
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エリントン

発売元:株式会社 渡辺商店(浜松)
製造元:大成ピアノ製造株式会社、→その後、株式会社 クロイツェルピアノ

機種バリエーション:U-150、U-500等

アメリカ製の”ELLINGTON”と似た名前なので注意(アメリカのエリントンはLが2個です)
ELISEN & SONS



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エリーゼン・アンド・サンズ
東洋ピアノが小売店様向けブランドをつけて中国で製造し卸販売を行ったピアノ。

機種:J110C、J110CW、U116C等 ピアノは背が低く、どれも家具調が特徴です
その他詳細不明

※「EREIZEN」という伊藤ピアノ技研(浜松市)のピアノもあります (スペルが”L”ではなく”R”)
ELIZABETH
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エリザベス 小出一三氏 詳細不明
ELLINGTON




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エリントン ELLINGTON ボールドウィン社 創業1893年
アメリカ(オハイオ州シンシナティ市)

エリントンピアノ社は1893年に設立され、ピアノ業界で最も広く知られているボールドウィン社が管理。
1930年頃には製造中止となり、Gibson Guitarsが2001年にBaldwin Piano and Organ Companyを
買収した際に、他のブランド名と共にエリントンの名前を取得しました。
エリントン社はシンシナティの工場で、グランドピアノ、アップライト、プレーヤーピアノ(自動演奏)など、
さまざまなサイズ、タイプのピアノを生産していた。
エリントンピアノは全盛期には、オーナー企業であるボールドウィンピアノのブランド力を背景に、
市場で最も価値のあるピアノと言われていた。
また、エリントンピアノは工場で厳しい検査を受けているため、品質が高いことでも知られていた。
特に「エリントン・マニュアロ」は、音色とテクニックを兼ね備えた優れたピアノとして人気を博した。

★★★
日本の大成ピアノが作っていたエリントン(ELINGTON)とはスペルが異なり、別のピアノです。
日本の大成ピアノのエリントンは”L”が1個で、アメリカのエリントンは”L”が2個重なります。

<参考資料>
広島平和記念公園にあるレストハウスに常設展示されている「明子さんの被爆ピアノ」がこのメーカーです。
このピアノを愛用していた河本明子さんは広島に投下された原爆により19歳という若さで亡くなります。
当時明子さんは学徒動員中での作業中、爆心地から約1Kmという場所で被爆しました。
廃墟と化した町からなんとか自宅に戻るも、その翌日の夕刻、両親の目の前で息を引き取ります。
死因は急性放射能障害でした。
明子さんは戦前、両親が暮らすアメリカのロサンゼルスで生まれ、6才で日本に帰国する際もこのピアノを
大切に日本に持ち帰りました。明子さんは生前、このピアノをこよなく愛していたようです。
爆心地から約2.5Kmの距離にあった河本さんの自宅(三滝町、現在西区)にあったこのピアノの親板には
原子爆弾による強烈な爆風によって割れたガラスの破片が今でも突き刺ささり残っています。
「ELLINGTON CINCINNATI USA」と内部に刻印された明子さんのピアノは、
製造番号(54444)ということから、1926年(大正15年/昭和元年)に作られたことが分かっています。
エリントンは、アメリカのオハイオ州(シンシナティ市)に本社があった、米国を代表するピアノメーカーである
ボールドウィン社の「エリントン」という製品です。
明子さんのピアノは、シンプルな外見から家庭用に販売されていたと思われます。
この明子さんの被爆ピアノを通じて、世界に原爆の悲惨さを末永く伝えていってくれたらと心から願います。
<上記内容は、中國新聞の記事から一部抜粋引用させて頂きました>

エリントンのまくり(蓋部分)にある銘柄マーク →★  エリントンの内部写真 →★

★★ 写真のご寄稿を頂きありがとうございます ★★
これらELLINGTONの写真はすべて広島市平和記念公園内のレストハウス(2階ピアノカフェ)に展示されている
「明子さんの被爆ピアノ」の実物写真です。今回、特別にHPにも公開していない貴重な写真をご提供頂きました。
写真のご提供:HOPEプロジェクト様 この度は写真のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございます!
「明子さんの被爆ピアノ」を解説した公式ページです→https://hiroshima-resthouse.jp/facility/piano
少額ですが当方からも「明子さんのピアノ」保護ケース設置のための寄付をさせて頂きました →★
ELSNER






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ELSNER エルスナー

クラウス商事株式会社
製造:大成ピアノ製造株式会社(販売元:協立楽器)
→その後、東日本ピアノ製造株式会社→さらに、東洋ピアノ製造株式会社

トレードマークには「KRAUS PIANO SALES」と書いてあり、タカ(ワシ)のマークが印象的です。
トレードマーク画像は4枚とも「Atelier Sonorite」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
機種バリエーション:U-133、132DW等

※KRAFT(クラフト)というピアノのトレードマークにもそっくりですが詳細不明。

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック

エルスナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ELSTE エルステ イタリア 詳細不明
ELTO エルト 松本ピアノ工場(東京の月島)
ELUZE
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エルゼ アトラスピアノ製造株式会社
ELUZE
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ELUZE エルゼ 製造:SAMIC社(サミック) 韓国 象嵌外装が特徴的なピアノ その他詳細不明

アトラスピアノで製造していた頃の「ELUZE」の商標を買い取って製造したピアノかもしれません
 ELYSIAN

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Elysian チャペルピアノ製造

イギリス(ロンドン) その他詳細不明

EMERSON

EMERSON

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エマーソン

製造元・販売元
中部楽器製造(株)
フローラピアノ製造(株) 1930年~
新レスターピアノ製造株式会社(当時の住所:浜松市竜禅寺町809)
大成ピアノ製造株式会社 (浜松市和田町)

機種バリエーション:KU-300等

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EMERSON
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エマーソン アメリカ ウイリアム・エマーソン作

1849年にウイリアム・エマーソンによって作り出されたピアノで、
「ピアノの音は、その音量より音質が大切である」という理念のもとに
完成された最も美しいピアノの一つとして有名である。
このピアノは「甘い音のエマーソン」として知られ、その後
エオリアン・コーポレーションの製品になりました。
EMMER, WILHELM 詳細不明

EMPEROR

EMPEROR ピアノ

EMPEROR PIANO

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エンペラー

製造元:河合楽器製作所(株)
カワイのセカンドブランドで音色は非常にまろやかな印象。
メルヘンピアノと同様なピアノです。
私自身、とても好きな音色のピアノで調律もしやすいです。

トレードマークはカワイのメルヘンとは違い、基本的にカワイピアノと同じですが、
エンペラーピアノ製造初期の頃は一番下のようなトレードマークもありました。
この一番下のトレードマークは「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
これ以外にも王冠をモチーフにしたトレードマークもあるようですが詳細不明。

エンペラーの最大の特徴は、まくり(鍵盤蓋)がグランドピアノと同じ形状です →★

■機種バリエーション
MY202、MY303、MY606、MY707、MY808など

<附録>
カワイピアノ 製造番号/製造年対照表(1951年~1988年) →★

<ピアノ調律技術者向け附録>
張弦作業に役立つ当該機種ミュージックワイヤー配線仕様 →★

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EMPIRE
※トレードマークなし
EMPIRE エンパイア

株式会社 西川楽器製作所(横浜市神奈川青木町) 
※(西川楽器は日本楽器に合併吸収されまでの1884年~1921年まで稼働)
※(西川ピアノ時代のピアノ製造期間は1916年~1921年までとの記録がある)
日本楽器製造株式会社(横浜工場)

鍵盤数73鍵のピアノがメイン
ENSCHU


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ENSCHU エンシュー 遠州楽器制作株式会社(浜松市)
令和元年創業

「日本で最も新しいピアノメーカー」と自社で公表しております(令和4年3月現在)
ちなみに、かつて日本国内にあった遠州楽器(遠州ピアノ製造株式会社)とは違う会社です。
会社名に「製造」とは付けず、「制作」としているところが新しさを感じますね。

ピアノ内部のトレードマークは富士山と日の出、そして向かい合わせになった2羽の鳳凰が描かれており、
そのトレードマークの中央には縦書きの漢字で「遠州楽器制作」と入っています。
今までの国内メーカーのトレードマークにはなかった「漢字」を使っているところがとても斬新です。
左記トレードマーク画像(上)は「匿名希望様」、(下)の画像は「@ポピー様」からご寄稿頂きました。
この度はご寄稿頂きまして誠にありがとうございます!

機種バリエーション:アップライト→E-121、グランド→E-150

会社住所:静岡県浜松市北区新都田1丁目4-10 A-1
ホームページ:https://enschu-gakki.co.jp/

※HARRODSER(ハローザー)というブランドも製造?詳細不明
EPWORTH
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Epworth Piano and Organ Company エプワース・ピアノ・アンド・オルガン社
アメリカ(イリノイ州シカゴ) 創業1855年

エプワース・ピアノ・アンド・オルガン社は、イリノイ州シカゴに設立された
ウィリアムズ・ピアノ・アンド・オルガン社が製造していたピアノ製造会社である。
1855年に設立されたウィリアムズ・ピアノ・アンド・オルガン社は、
エプワースの他にもいくつかのピアノラインを製造していましたが、
その中でも最も人気のあるピアノの一つでした。
興味深いのは、エプワースのピアノを購入できる唯一の方法が通販だったことだ。
エプワース社はショールームを持たず、通信販売の普及を利用して楽器を動かしていたのです。
しかし、ウィリアムズ・ピアノ・アンド・オルガン社は、大恐慌の開始とともに閉鎖され、
エプワース・ピアノは永遠に途絶えてしまったのである。

エプワースは特にその甘美な音色が特徴である。
音色の良さに加えて、熟練した職人が丹精込めて作り上げた楽器である。
エプワースの信頼性は、当時の音楽界でも高く評価されていた。
ERARD




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エラール ERARD
ERARD & CIE, S.& P.

フランス 創業1780年 言わずと知れた伝統あるピアノです。

1820年から1830年にかけてセバスチャンエラールと
セバスチャンピエールは現代のグランドピアノの原型となる
レペティション機構であるダブル・エスケープメント・アクションの
特許を取得するなど数々の画期的なピアノの改良を共同で成し遂げています。

アルフレッド・ドルジはエラールについてこう述べている
「セバスチャン・エラールはその精巧な発明によってピアノを高いレベルへ引き上げ、ピアノはすべての
偉大な作曲家が音の詩を表現するために好んで用いる楽器になった」
※アルフレッド・ドルジはツィンマーマン社を買取り、1890年代中頃まで週に3000台のオートハープを製造。

<歴史>
セバスチャン・エラール/セバスティアン・エラール(1752~1831)はストラスブールに生まれた。
父はドイツ系の指物師エールハルト(Ehrhard)で、セバスチャンも1877年に刊行されたメンデルの
百科事典にはまだドイツ人として出ていたという。
セバスチャンは、子供の頃から父の工場を手伝いながら、職人としての腕を磨くことが出来た。
だが、彼はもともと機械いじりが好きで、学校では幾何が得意な科目だったという。
父を早くに失って、1768年にパリに行き、チェンバロ工場に勤めることになったが、そこの工場では
学ぶことがなかったので、その後他のチェンバロ工場に移り、そこの主人からは彼の才能をはじめから
認めてくれたおかげで、設計から製作まで全てを任せてくれて作ったチェンバロが大成功となった。
このチェンバロはフラジオレットのレジスターとペダルを備えたもので、それがブランシェリー家の
珍品収集館に納められて、パリで評判となり、それに関する1776年の「ジュルナル・ド・パリ」誌の記事は、
そのまま1780年の年鑑にも転載されて、彼の名は一躍注目されるようになった。
そんなことから彼はヴァレロイ候爵の信頼を得て、その宮殿の中に工場を構えて、1777年には当時
フランスに輸入されていたドイツとイギリスのピアノを手本にして、5オクターヴの突き上げ式の
スクエアピアノを完成させる。これがフランスにおける最初のピアノとなった。
エラールの仕事はその後もますます調子ずいて、1780年頃にはストラスブールから兄弟のひとりである
ジャン・パブティストを呼び寄せて、サン・ジェルマンのブルボン街に本格的な店を出すまでに至った。
しかしその後、ピアノを作ろうとするエラールに対し、営業妨害になると考えたチェンバロ製作者たちが
抗議をしたが、エラールはルイ16世から支援を受け、営業権や資材調達などピアノ製作の許可を受けた。
エラールがマリー・アントワネット妃のために「ピアノ・オルガニゼ」を製作したのはこの頃であった。
それは2面の鍵盤を持ったピアノとオルガン兼用の楽器で、切り替えによってオルガンにもピアノにもなった。
1789年、フランス革命によって店は破壊されてしまい、1792年、エラールは拠点をロンドンへ移し、
1796年までパリに戻らなかった。
1800年代の初めに、エラールはグランドピアノの設計の改良を始める。
独立したハンマーフレンジやアグラフ、レペティション・アクションなど、業界で広く使われるようになる
特許を次々に取得していき、1838年にはハーモニックバーの特許を取得した。
19世紀を通して、エラールは絶えずピアノの実験を行い続け、響板の設計やハンマーのサイズの改良、
打弦位置などを改良していった。その他、音色に関する実験も行い、エラールピアノは音楽上の質に対し、
計り知れない良い影響をもたらした。
1831年、セバスチャン・エラールが結石病で亡くなると、甥のピエールが会社を引き継ぎ、
エラールのピアノを有名人や著名な音楽家が使用する楽器として定着させていった。
例えば、エラールを使用していた人物としては、ヴィクトリア女王や、メンデルスゾーン、リストなどが
使っており、ヨーロッパの資産家や音楽家にとって、エラールは入手できるピアノの中では最高の楽器と
見なされていた。1870年代にアラール社は最も洗練されたコンサートグランドピアノを製作した。
そのピアノはかなり力強く響き渡る音を作り出すことが出来て、しかもエラールユーザーが慣れ親しんでいた
エラールの多彩な音色を兼ね備えたピアノであったという。
1914年以降、エラール社の歴史は下降線をたどる。それは2つの世界大戦と大恐慌の影響ばかりでなく、
ドイツとアメリカのピアノがピアノ製作における新たな理想を確立していったからでもあった。
ドイツやアメリカの分厚い音はエラールのクリアな音よりも演奏の粗が目立たないため、アマチュアの
ピアニストにとってはむしろ弾きやすかったためであろうと言われている。
フランス市場が開放されると、エラール社のピアノはドイツやアメリカのピアノに圧倒された。
20世紀を通して、エラールのピアノはErard et Cie(エラール・エ・コンパニー)、
Guichard et Cie(ギリシャール・エ・コンパニー)、Erard et Blondel(エラール・エ・プロンデル)など、
さまざまな異なるブランド名で生産され、1960年にエラール社はガヴォー社と合併した。
1961年にはこの共同企業体にもうひとつの偉大なフランスのメーカー、プレイエルが加わる。
そして1971年には、シンメル・カンパニーが、エラール、ガヴォー、プレイエルのブランド名を買収した。

<エラール社の特徴>
1808年に、エラールはアグラフと、最初のレペティション・アクションを開発した。
この機構により鍵盤が完全に元に戻らなくとも次の打鍵が可能になった。このアクションはさらに
1821年に改良され、現代広く使われるグランドピアノアクションの基礎となったと言われている。
1838年、エラール社は高音弦をしっかり支えるためのハーモニックバーの特許を取得した。
これは現代の多くのピアノが備えているカポダストロ・バーの開発にインスピレーションを与えた。
当初、エラールのピアノは鍵盤が重いとされていたが、その音色は力強くクリアで、コンサート用としては
理想的だった。そのクリアな音色はアマチュアのピアニストが弾くと粗が目立つことが良くあったが、
熟達した奏者なら自分の音を作ることが出来るため、プロの音楽家には好まれた。
1870年代中頃に最初に製作されたコンサートグランドは、GGGからc5まで合計90鍵あった。
ダイナミックレンジは格別に広く、かなり強い音が鳴り、それでいてエラール独特なクリアな音色は
損なわれることなかったといいます。
エラールは、作曲家で有名な、ガブリエル・フォーレと、モーリス・ラベルが実際にエラールピアノを所有し、
クロード・ドビュッシーもその響きに慣れ親しんでいたと伝えられています。

<附録>
エラールピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1800年~1988年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エラール(仏: Érard)は、ピアノとハープを含む楽器のブランドである。
名称は創業者のセバスチャン・エラール(1752-1831年)と、
その甥のピエール・エラール(1796-1855年)に由来。
セバスチャン・エラールによって作られた最初のフォルテピアノは1777年に遡る。
その後、セバスチャンはアクション機構に関する多数の特許を取得してピアノ自身を発明した。
「ダブルエスケープメント」と呼ばれているこのシステム(1821年)によって、
鍵盤が完全に上がりきるのを待たずに音を出すことができ、より速い演奏が可能となる。
すぐに全てのグランドピアノがこの機構を採用した。
セバスチャンはまた1808年に弦を留めるためのフレーム上のアグラフを考案した。
1810年には、グランドピアノのペダルを考案した。
エラールはまた1810年にダブルアクションのペダルハープを考案した。
これによって全ての音、全ての調が演奏できるようになった。
ブランドは19世紀末に頂点に達したが、20世紀の始めにはエラールのピアノは衰退していった。
何度かの名称の変更があり(Blondel & Cie、Guichard & Cieなど)、1960年に工房はガヴォーと合併した。
1800年製のNo. 28はハイドンが所有し、1803年製のNo. 133はベートーヴェン、
1867年製のNo. 33932(38932に番号が付け直された)はヴェルディが所有した。
リストやラヴェルといったその他の作曲家もエラールを所有していた。
<エラール家>
ペール・ラシェーズ墓地にあるエラール家の墓
セバスチャン・エラール(1752年4月5日ストラスブール生まれ)
チェンバロの技師として1777年に最初のピアノ(スクエア・ピアノ)を製造
創業のために兄のジャン・バティストと協力した
最初のチェンバロ形のピアノを1790年に製造
革命時にはロンドンへ移住
1796年にパリで新会社を設立
1831年没
ジャン・バティスト・エラール(1750年-1826年)、セバスチャンの兄
ピエール・エラール(1796年-1855年)、セバスチャンの甥、ロンドン工房の長
1823年に「ダブルエスケープメント」の特許を取得

<別解説>
セバスチャン・エラールは、1700年代半ばにパリでチェンバロの製作を始め、
1777年に最初のピアノを製作しました。
彼の楽器は非常に有名で、国王からライセンスを得てフランス宮廷用のピアノを製作していた。
フランス革命によって事業が破壊されると、彼は家族をロンドンに移し、すぐにピアノの製作を再開。
1796年にパリに戻ったエラールは、フランスとイギリスの両方の工場を支配し、
ロンドンの工場は親戚が経営していた。
1831年、セバスチャン(フランス革命時のドイツとフランスの敵対関係の中で名前の綴りを変えた)が
亡くなり、息子のピエール・エラールが会社を引き継いだ。
1800年代を通じて、Erard & Cie、Guichard et Cieなど、さまざまな名前でピアノを生産した。
1961年にはプレイエル社と合併し、その約10年後にはドイツのシンメル・ピアノ社が
エラールの名称の権利を取得した。
1990年、シンメル社はPleyel、Erard、Gaveauのピアノ名の生産を中止した。
エラールの名前で生産されたピアノは、マニュファクチュール・フランセーズ・ド・ピアノが
歴史的複製のために行っている。
ERARD

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エラール/エラード? 東洋ピアノ製造
機種:D-1、D-3等 詳細不明

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
この度はご寄稿頂きまして誠にありがとうございます!

※上記本場フランスのERARDとは別のピアノです。
ERARD
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エラール 韓国 詳細不明
ERBE, J. 詳細不明
EREIZEN




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エリーゼン EREIZEN
有限会社 伊藤ピアノ技研(浜松市) その他詳細不明

トレードマークを見ると、内部にはHAMAMATU/ITO PIANOと入っていますね。
エリーゼンのまくり(蓋部分)にあるブランド銘柄マーク →★
同じ伊藤ピアノ技研が製作していた「エイサカ(EISAKA)」とまったく同じトレードマークです。

これらEREIZENのトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
この度はご寄稿頂きまして誠にありがとうございます!

機種バリエーション:220等

※ちなみに「ELIZEN & SONS」という中国製ピアノ(東洋ピアノ販売)のピアノもあります
中国製の方はスペルが”R”ではなく”L”です →詳しくはELIZEN & SONSの項目へ
ERNST KAPS


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エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック
(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)

1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリック(Ernst Kaps Piano Fabrik、エルンスト・カプス・ピアノ工場)は、
1858年に創業されたドイツのピアノ製造会社であり、
最初の工場はドレスデン・Seminar通り220から22番地にあった。
カプスはザクセン王国御用達称号を得た。
エルンスト・カプス・ピアノフォルテファブリックはエルンスト・カール・ヴィルヘルム・カプス
(Ernst Karl Wilhelm Kaps)によってドイツ・ドレスデンで創業された。
エルンスト・カプスは1826年12月6日にデーベルンで生まれ、1887年にドレスデンで死去した。
カプスは1879年にスウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に任命された。
息子のエルンスト・オイゲンは1864年に生まれ、1910年の初頭にドレスデンで死去した。
報告は、会社が破産管財人の管理下に置かれることになった結果、自らの命を絶った可能性を示唆した。
彼の次男のヴィルヘルム・カールは1872年に生まれ、1943年にトルケヴィッツで死去した。
しかしながら、1912年のザクセン王国における大富豪の財産と収入の年鑑はカプス家の2名、
ヴィルヘルムとゲルトルート・カプスがそれぞれ130万マルクの財産と
11万マルクの年収を得ていたことが記されている。
1876年、カプス社はフィラデルフィア万国博覧会に出品した。1922年、1874年にドレスデンでヨハン・クーゼ
(Johann Kuhse)によって創業されたピアノ製造会社と合併し、
エルンスト・カプス・ピアノ・ファブリックAGとなった。
1925年、カプス/クーゼ・ピアノフォルテAGと呼ばれていた工場は隣り合わせで両方のピアノブランドを作った。
ドレスデン工場は1930年に閉鎖し、この時点で会社の最終製造番号は37500と報告されていた。
ドレスデン工場は1885年以来37,500台のアップライトピアノおよびグランドピアノを生産し、
安定して年間1000台のピアノを製造。ドレスデンのAltmarkt13番地とSchloss通り18番地には展示室があり、
パリ、ロンドン、ロシアのイルクーツク州とサンクトペテルブルクにも支店があった。
エルンスト・カプスブランドのピアノの生産はオーストラリア企業の所有の下で2012年に再開した。
ピアノに高張力鋼鉄弦と銅巻き弦のシステムを考案し使用し始めたのはカール・ベヒシュタインの教師であった
ジャン=アンリ・パップ(1789年–1875年)である。
パップは、1826年に交差張弦も発明し、その他多くの成功を収めた発明とあまり成功しなかった発明を残した。
また、ヒッチピンとブリッジ(駒)の間に位置する追加のプレッシャーバーの設計を発明した。
(同様のシステムは後の1972年にC・F・セオドア・スタインウェイによって特許が取られた)
現在は「デュープレックス・スケーリング」と呼ばれている。
パップはハンマーのための圧縮フェルトの使用も導入した。これらのうちかなりの数が今日も使用されている。
パップのより成功を収めた発明の一部は、エラール、シュタインヴェーク、スタインウェイ、
そしてエルンスト・カプスといったピアノ製作史のかなり初期の少数の製造業者によって採用された。
パップと議論し、エルンスト・カプスはパップの設計を拡張して、1865年に二重交差張弦方式を考案した。
この設計は低音、中音、高音の3種類の高さのブリッジを用い、それ以前は問題を抱えていたベビーグランドピアノの
生産を可能にした。これによってピアノ製作史の初期に全長154 cmのピアノの生産が可能となった。
この発明やアップライトピアノにおける「パンツァーシステム」と呼ばれるものを含むその他の
効果的な発明の結果として、カプス社は1930年のドレスデン工場の閉業まで長年の商業的成功を収め、
この工場では37,500台のピアノが生産された。
エルンスト・カプスは様々な興味深い発明について数多くの特許を取得した。
これらのうちの一つが「共鳴体(resonator)」である。これは上面に響孔が開けられた共鳴胴から構成される。
これらは、ブリッジの配置に沿って中音および高音のブリッジの真下に固定された。
この目的は、より大きな振動体と追加の同時に発生する倍音を作り出そうとするもので、
より豊かでより色鮮かな音を生み出そうとする手間のかかる努力であった。
共鳴体とベビーグランドピアノ(二重交差配弦グランドピアノ)を含むカプスの発明と
開発はしばしば特許が取られた。
グランドピアノの蓋に響板を拡張する装置といったその他類似の独創的な発明がエルンスト・カプスによって
特許取得された。革命的であったものの、ほとんどは経済的に実用的ではなく、商業的には生産されなかった。
パーシー・グレインジャーはドレスデンのエルンスト・カップスによって作られて母のローズ・グレインジャーに
提供されたウォルナット合板と象牙鍵盤のアップライトパーラーピアノで演奏を学んだ。
グレインジャーの隣には母が教師として座り、1日に2時間ピアノを練習したと伝えられている。
1895年、グレインジャー家はドイツに渡り 、ピアノはローズがピアノを教えにいっていた
Thomas P. Husband夫妻の家に売却された。
Husband夫妻はこのピアノを40年間保有し、1935年にメルボルン大学のグレインジャー博物館へ寄贈した。
ピアノは現在修復され、「Percy Grainger Museum Melbourne Australia」に展示されている。
ERNST CHLADNI 詳細不明
 ERNST HOMEYER
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HOMEYER/ERNST HOMEYER ホーマイヤー ドイツ(ライプツィヒ) 旧東ドイツ その他詳細不明
ERNST HOMEYER
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エルンスト・ホーマイヤー(ERNST HOMEYER)
株式会社 スタインリッヒ製作所、三葉楽器製作所

上記ドイツ製のピアノと同名ですが詳細不明 →STEINRICHの項目も参照
ERSTE PRODUKTIV-GENOSSENSCHAFT 詳細不明

ESCHENBACH

ESCHENBACH



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エッシェンバッハ

初期は大成ピアノ製造株式会社で作っていたようですが、出回っている大部分は韓国製です。
ワインバーガー(WB110)や、ローゼンストック(RS101)等と同系のピアノです。
当時の販売は協立楽器/協立インターナショナル(別名:全日本ピアノ卸センター株式会社)

初期製品の作りは本当に酷かったですが、徐々に良くはなってきました。
当時販売価格30万円ほどのスピネットタイプの小ぶりな機種(U-1)が一番人気。
U-122は一般的なサイズのアップライト。音色はTHE韓国製。

エッシェンバッハのまくり(蓋部分)の銘柄マーク →★

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ESSENFELDER 詳細不明
ESSEX


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ESSEX エセックス 韓国  製造:ユンチャン社

2001年、ユンチャン社はスタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズとのコラボレーションで、
スタインウェイ社が設計したエセックス・ピアノ(ESSEX)の生産を開始しました。

<広告から抜粋>
エセックスはスタインウェイのピアノづくりの伝統と現代テクノロジーを駆使した研究開発から誕生。
固有の設計、大規模な生産システム、慎重に考慮した生産環境などにより、高い品質を保ちながら、
以前では考えられなかった価格帯を実現させました。
音楽とその才能の開花の歓びを享受する機会はあらゆる方々のものと信じるスタインウェイにとって、
大きな喜びとなりました。
そしてエセックスピアノのもう一つの特徴はその姿の美しさとデザイン・バラエティーの豊かさです。

エセックスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ESTEY


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エスティ/(エステー) ESTEY PIANO CORPORATION/Estey Piano Corporation
アメリカ(インディアナ州) 1869年創業

エスティのピアノ工場はインディアナ州のブルッフトンという小さな町にあって、
1869年に創立以来、代々優れた技術が受け継がれてピアノが製造されました。
このブルッフトンは一時期、ピアノの町として世界的に知られていたといいます。
あらゆる種類のピアノを製造しこれらは過去の世界各国の博覧会に於いて、
連続の賞を受賞するなど、極めて性能の良いピアノとされています。
さらにそのピアノの外装にいたっては非常に美麗で芸術的なものが多いのが特徴。
エスティピアノの突出すべき特徴としては、バイオリンブリッジ機構と呼ばれる
ピアノに重大な改良を加えたことが挙げられる。
これはバイオリンの駒のような形のブリッジを付けることにより、音質や音量、
そしてサスティンの音も驚くほど良く改良されたと言われています。
この方法はさほど複雑な仕組みではなく、高音部のブリッジに溝(くぼみ)を付け、
これによりブリッジ本体の容積と重みを減らすことにより、音の振動を容易に
響板へと伝えることが可能にするという工夫です。
さらに、エスティのダイレクト・ブロー・アクション(特許)は普通の
エリミネーティング・アクションに比べ、トラブルが少なく、タッチも確実で、
音量・音質ともに優れ、さらにはレスポンスが良いとされています。
1964年以来、エスティピアノはイギリスのナイトピアノと提携し、
ナイトピアノの優れた技術もそのロイヤルシリーズに取り入れたとのことです。
尚、リッペンやリンドナーなどと同様にプラスチックアクション機構を採用し、
熱帯地方や多湿地帯へのピアノの輸出を可能にしたとも伝えられています。

<別解説>
エスティ・ピアノ社の歴史は、20世紀に入ってからの買収や様々なオーナーの間での取引された。
1869年、Jacob Esteyが社長となり、Levi Fuller、John Boulton Simpson、Julius Esteyという
数人のビジネスパートナーとともに設立された。
シンプソンはアリオンピアノ社のオーナーであった。
シンプソンはアリオンピアノ社の経営者であったが、エスティ社との提携により、
社名をエスティ・ピアノ社に変更したのである。
ニューヨークに工場を建設し、アップライトピアノとグランドピアノの製造を開始した。
ジェイコブ・エスティは、1846年にバーモント州でリーバイ・フラーとともにエスティ・オルガン社を設立した。
1846年にバーモント州でJacob EsteyがLevi Fullerと共同で設立したオルガン会社で、
リードオルガンやエレクトリックオルガンを製造していたが、川沿いにある工場には
グリストミルやダムがあり、アーリーアメリカンブランドとして知られていた。
エスティ・オルガン・カンパニーとアリオン・ピアノ・カンパニーが合併して
エスティ・ピアノ・コーポレーションとなったことで、両社のノウハウと確立された顧客基盤が融合した。
1901年には、ピアノだけでなく、大型の教会用オルガンも製造していた。
1917年には、ジュリアス・エスティ自身を含む創業メンバーの多くが亡くなり、
エスティの息子であるジェイコブとハリーに会社が託された。
このとき、ジョージ・W・ギッテンスが会社を買収した。
それから10年も経たないうちに、同社はBKセッターグレンに買収され、インディアナ州ブラフトンに移転。
1982年に工場に落雷があり、火災で全焼するまで、何度か買収が行われた。
アメリカで最も古いピアノ製造会社のひとつであるEstey社のピアノは、19世紀から20世紀にかけて
高い評価を得ました。緻密なケースデザインと高品質な素材で知られるエスティ-ピアノは、
時代ごとに様々なスタイルのものが作られました。
20世紀に生産されたエスティピアノ社のピアノには次のようなブランドがあった。
Alexander/ Anderson Brosr/ Chase & Bakerr/ Lancaster
Malcolm Lover/ Metropolitanr/ N.W. Nelsonr/ Schumann
Settergrenr/ Voughr/ Wegman/ Drachmannr/ Meldorf
Bellmanr/ Sowardr/ Purcellr/ Wanamaker
ESTONIA


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エストニア ロシア(ソ連)
ソビエト連邦当時、最も優れた性能のブランドと称される

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エストニアピアノ工房(エストニア語: Estonia Klaverivabrik)は、1950年にエストニア・タリンで
エルンスト・ヒース(ドイツ語版)によって創業されたピアノ製造業者である。
エストニアピアノの大半は現在アメリカ合衆国で販売されている。
エルンスト・ヒースは1893年に自身の会社E. A. Ihseを設立した。
1915年、ヒースは事業を売却し、他の会社で働いた。
1923年、ヒースはAstron社の第一人者と経営者になった。
第二次世界大戦とそれに続くソビエト連邦によるエストニアの占領によってエストニアにおける
ピアノ生産は停止した。工場は破壊された。エルンスト・ヒースのみがグランドピアノ生産を続けた。
1950年、ヨシフ・スターリンの命令によって、人民家具工場を基にして、タリンピアノ工房が設立され、
新たなピアノはエストニアと呼ばれた。1951年4月、初のエストニアグランドピアノが国家委員会に贈呈された。
1950年から1990年までは国営企業であり、2種類のグランドピアノモデル(190cmおよび273 cm)を製造し、
ソビエト連邦のあらゆる場所に供給していた。
会社は1991年のソビエト連邦の崩壊(英語版)とエストニアの独立回復後に衰退し、
1993年に工場は私営化された。
ソビエト連邦の崩壊により1990年代初頭に工場が下り坂になった後、工場はインドレク・ラウルによって
再生された。ラウルは会社に投資し、アメリカ合衆国へ製品を紹介した。
1995年、会社はラウルに売却され(当時はニューヨークにあるジュリアード音楽院の
ピアノ専攻の博士課程の学生)、ラウルが会社の経営を引き継いだ。
必要な部品および材料(ドイツのレンナー社のアクションとハンマーなど)は現在輸入されている。
2003年、新工場建物が完成した。
ソビエト連邦が存在していた間に製造されたエストニアピアノは驚くほど強く、優れた安定性、速い機構、
壮大なシンギングトーンを示す。この時期のピアノが今日見付かるのは極めてまれであり、
ほぼ消滅したブランドである。
ソビエト連邦の崩壊後、1990年代初期に製造された新たなピアノは製造欠陥に悩まされたが、
2002年頃以降に製造されたピアノは素晴らしい品質とユニークで甘いシンギングトーンを示す。
2003年ー2005年に行われた追加に改善によってエストニアグランドピアノは最高峰の品質を持つピアノとして
格付けされている。
コンサートピアニストのマルカンドレ・アムランはエストニアピアノを自分のために選んだ後、
「エストニアピアノの職人の技能は最大の尊敬の念を抱かせることができ、私はこのピアノが繊細な音楽家にとって
不可欠なものであり続けると確信している」と述べた。

ETERNA

ETERNA

ETERNA TENRYUGAKKI


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エテルナ

天竜楽器製造、日本楽器製造株式会社
※正式には「天龍楽器製造株式会社」のようです  竜× 龍○
当時の天龍楽器の住所:浜松市和田町534-2

日本楽器の系列に入ったとき、社長小倉太郎氏が
日本の第二のメーカーを目指して販売に力を入れました。
後に日本楽器で製造したもので、後に紹介するカイザーやミキと同様のピアノです。
発売元は神戸市生田区の国際楽器。

アクション本体はヤマハ製を使っていて、ヤマハのロゴが入っているものが多くあります。→★
このピアノはチューニングピンが緩くなる現象(通称ピンズル)が多く発生します(天龍楽器時代)
もちろんチューニングピンの打ち替え修理でトルクは戻ります。
日本楽器の製造になってからは、雰囲気的にほとんどヤマハに近い感じになっています。

■機種/モデル バリエーション
アップライトピアノ E1B、E10BL、EB30BL等
グランドピアノ EG430B、EG530B 等

画像の上2枚は天龍楽器時代のもので、下2枚は日本楽器製造になってからのものです。
※天龍楽器時代のトレードマークではTENRYU GAKKIになっており、
日本楽器製造になってからのトレードマークでは、NIPPON GAKKIになっているところに注目。

日本楽器の製造になってからのエテルナのキーカバー →★  エテルナのまくり部分の銘柄部分 →★

エテルナのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
ETUDE

トレードマークなし
エチュード ETUDE ロシア製(旧ソ連製)

今までに5~6台ほど調律したことがあり、ピアノの作りは正直酷かった印象です。
その他詳細不明。
下記のような「ETYDE」という同じ旧ソ連製のピアノもありますが詳細不明

※このピアノにはトレードマークがないことを確認済み

ETYDE
RAZNO ピアノ

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エチュード ETYUDE ロシア製(旧ソ連製)

ピアノ本体に書かれているブランド銘柄マークの部分の「Y」が「U」に見えて、
一見すると「ETUDE」かと思ってしまいますが、正しいスペルは「ETYDE」のようです。

上記のような「ETUDE」という同じ旧ソ連製のピアノもありますが詳細不明
EUPHONA

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アメリカ(シカゴ) ケーブル社 Cable Company Chicago
その他詳細不明

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
EUTERPE

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EUTERPE

オイテルペ/エウテルペー/エウテルペ
ドイツ(旧西ドイツ フォイリッヒ) その他詳細不明
EVERETT


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EVERETT エバレット/(エヴァレット)・ピアノ・カンパニー/Everett Piano Company
創業1883年 アメリカ 工場:ミシガン州サウスヘブン

1883年に創業でアメリカのピアノメーカーのうちで最も古いものの1つに数えられる。
工場はミシガン州のサウスヘブンにあり、近代的な設備を誇る。
エバレットのグランドピアノの特徴としては、背面に木材を使わずダイナテンションという
独特な鉄製レバーで組み立てられていることにある。
この特殊な構造により弦の張力とケースの耐久性が増し、強大で素晴らしい音色が得られるとのこと。
一時はヤマハの資本傘下になったこともあります。
※現在エバレット・ピアノは、中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー、アートフィールド・ピアノ、
マカオ・ピアノカンパニーが生産している。

<歴史>
1883年、楽器小売店のジョン・チャーチ・カンパニーが、エバレットのブランド名で少数のアップライトと、
グランドピアノの生産を、ボストンで始めたのが始まり。19世紀当時、ボストンはピアノ製作の中心地だった。
最初の頃は、大衆向けのピアノを生産していたが、フランク・L・リーが社長になると、会社は方針を変え、
最上位品質のピアノで評判を得るようになる。
エバレット・ピアノ・カンパニーが高品質のピアノメーカーとして認められるまでには何年もかかったが、
スウェーデン人のピアノ設計家ジョン・アンダーソンの力を借りて、エバレット・ピアノは20世紀初めには
一流の演奏家たちに選ばれる楽器となった。
しかし、エバレット社は自社製品の質を全面的に信頼し、比較的小規模な会社に留まったために、
競争が激化していくピアノ市場に於いて、地位を確立出来なくなっていった。
1926年、ケーブル・ネルソン・カンパニーがエバレット・ピアノ・カンパニーを買収する。
そして、自動演奏ピアノの生産生産に手を出してみたものの、1920年代後半から1930年代にかけての
戦争と不況により、生産と売り上げはさらに落ち込んだ。
第二次世界大戦後、会社の売り上げは伸び、エバレットのスタジオ・アップライトは特に学校で人気を獲得し、
1956年には増大する需要に応えるためにミシガン州のサウスヘブンに新工場が建設された。
1962年、ピアノ市場への参入を望んでいたハモンド・オルガン・カンパニーがエバレット社を買収するが、
ピアノ業界でそれほどの利益が見込めないとわかると、エバレット社は投資家グループ、ユナイテッド・
インダストリアル・シンジケートに売り渡された。
その後、1973年にエバレット社は現ヤマハ株式会社(当時:日本楽器株式会社)に売却される。
そして、サウスヘブン工場は近代化され、エバレットとヤマハの両方のピアノが生産されるようになった。
その後、1986年にヤマハがアメリカ工場をジョージア州へ移転したのに伴い、エバレットの工場での
生産は中止された。それ以降、エバレットのブランド名ライセンスは、1989年まではボールドウィン社が
保有していた。そして1995年からはライトウッド・エンタープライジス・インコーポレイテッドがエバレットの
ブランド名を使用し、現在は中国のドンペイ・ピアノ・カンパニー(東北鋼琴)がエバレットを生産している。

<附録>
エバレットピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1885年~1989年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
エヴェレット・ピアノ・カンパニー(Everett Piano Company)(単にエヴェレット・ピアノとも)は、
ジョン・チャーチ・カンパニーによって創業されたピアノ製造会社である。
以前は日本の会社であるヤマハによって所有されていた。
1883年にジョン・チャーチ・カンパニーによってマサチューセッツ州ボストンで創業された。
当時はピアノ産業のトップ企業の一つであった。1926年6月、エヴェレットはCable-Nelson Pianoと合併し、
ボストンからミシガン州サウスヘイヴンへ移転した。
多くの作曲家がエヴェレットのピアノを使用したが、小型のピアノに対する需要が増した。
それに応えて、エヴェレットはグランドピアノの製造から離れ、1946年に小型ピアノのみを作った。
エヴェレットは静電リードオルガンも開発し、1935年から1941年までOrgatronブランドを製造した。
第二次世界大戦によって生産が休止する前に、この事業はルドルフ・ウーリッツァー・カンパニーに売却され、
ピアノに焦点を再び合わせた。
1949年、John A. Hensがdyna-tensionスケールを開発した。
これはより良い音を可能にするためにピアノの弦をより高い張力の下に置く。
Balanced Tension Backを持つエヴェレットピアノのみがこの特徴を有していた。
1962年、ハモンドオルガン・カンパニーがピアノ産業に参入するためにエヴェレット・ピアノ・カンパニーを買収。
その後の1973年、ヤマハがエヴェレット・ピアノ・カンパニーを購入し、サウスヘイヴンでヤマハピアノと
エヴェレットピアノを共に製造した。
ヤマハが1986年にジョージア州トーマストン(英語版)の工場にピアノ生産を移した時、
エヴェレットピアノはヤマハとの契約によってボールドウィン・ピアノ・アンド・オルガン・カンパニーによって
サウスヘイヴンでの製造が続けられた。
しかしながら、この契約はその後に打ち切られ、エヴェレット社は最終的に1989年に終わった。

<別解説>
1883年、ボストンでジョン・チャーチ氏(ジョン・チャーチ&カンパニー)とフランク・A・リー氏によって
設立されたエバレット・ピアノ・カンパニーは、当初、商用グレードのピアノを製造する目的で設立されました。
1926年6月、エバレット社はケーブル・ネルソン・ピアノ社と合併し、製造拠点をボストンから
ミシガン州サウスヘブンに移した。
エバレットという社名は、覚えやすく、綴りやすいという理由で選ばれたと言われている。
ライゼナウアー、ナイツェル博士、シャミナード、カレーノなどの音楽家やピアニストたちが、
ライブで演奏するときには必ずエバレットのピアノを要求するなど、エバレット・ピアノ・カンパニーは
早くから世界的に認められていた。1954年にハモンドオルガン社に売却された後、
1973年頃にヤマハに売却された。1980年代後半にヤマハはEverettの生産を中止したが、
1990年代に入って民間企業がEverettの名を復活させた。
なお、日本でも一時的に「エバレット・グランド」が生産されたことがある。
エバレットの名前は100年前から業界で広く認知されているが、世紀末の初期の楽器は
現在ではあまり見られない。家庭での小型ピアノの普及が進み、グランドピアノの市場が縮小していたため、
Everett社は1946年にグランドピアノの製造を中止し、家庭やスタジオで使用する小型ピアノの製造を
開始するために製造設備のすべてを投入しました。
1936年にジョージ・ステイプリー氏が買収したことが、同社の歴史の転機となった。
スタペリー氏は、バランス・テンション・バックを発明した大学院生エンジニアである。
1946年に発表されたEverett社のBalanced Tension back構造(特許取得済み)は、
科学的なピアノの構造において非常に重要な改良でした。
この開発により、Everettは音色の自由度を40%高め、よりソリッドな音色を実現しました。
1949年、エバレットは長年の研究の成果として、ダイナテンション・スケールを搭載した
最初の小型ピアノを発表した。
このダイナテンション・スケールは、アメリカのピアノスケール設計の第一人者である
ジョン・A・ヘンズが開発し、完成させたもので、Everett社のピアノの設計に特有のものであった。
EXCELTONE エクセルトーン Chase-Hackley Piano Company アメリカ(ミシガン州マスキーゴン)
詳細不明

  上記Eから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

F. BACH 詳細不明
F. CHOPIN
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エフ.ショパン 日本 戦前のブランド 詳細不明
F. DÖRNER & SOHN 詳細不明
F. QUANTE
F. QUANTÉ
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エフ・クウォンテ フランス(パリ) 詳細不明

スペルはQUANPÉ(QUANPE)ではなく、QUANTÉ(QUANTE)です。
まくり(蓋部分)にある銘柄文字の「T」の部分が「P」に見えます。
F. ROSENER 詳細不明
FABBRINI 詳細不明
FAHR ALBERT
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ドイツ 読み方不明(ファール・アルバート?、ファー・アルバート?) 詳細不明
FALCONE

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ファルコーネ 中国 詳細不明

下記、ピアノディスク社が所有していた本場ファルコーネとは違います。
中国の企業が商標を買い取ったのか?不明
このブランドに限らず、中国の企業は世界中の有名ピアノ企業の商標をたくさん買い取っています。

機種バリエーション:CF12等

画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
 FALCONE


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ファルコーネ Falcone Piano Company
現所有:ピアノディスク社

この会社はイタリア出身のピアノ技術者サンティ・ファルコーネによって1984年に設立された。
ファルコーネの目標は、世界トップレベル品質のグランドピアノを手頃な価格で提供することだった。
ファルコーネは1978年に、成功していた小売店チェーンを売却し、ピアノ製作の実験をスタートさせた。
ボストンの投資家と技術者を集め、1982年に長さ183cmの最初のグランドピアノを作り上げ、
その翌年には、274cmのコンサートグランドを完成させた。
1984年、ファルコーネ社は11人の技術者を雇い、月にわずか2台のピアノを製作した。
1987年には40人が月に5台製作するようになり、会社はマサチューセッツの古い靴工場を買って、
最上階をコンサートホールに改造した。
1989年、ファルコーネ社は、ゾーマー・アンド・カンパニーを買収。
買収されたゾーマー・アンド・カンパニーはすでにメイソン・アンド・ハムリンのブランド名を所有していたため、
ファルコーネ社はゾーマー(SOHMER)のブランド名も取得した。
サンティ・ファルコーネは1991年に会社を実業家のバーナード・グリアに売却し、
ファルコーネのブランド名はメイソン・アンド・ハムリン・カンパニーに取り込まれた。
1994年、メイソン・アンド・ハムリン社の倒産に伴い、ファルコーネ・ピアノの生産は終了。
その後、1996年にピアノディスク社がメイソン・アンド・ハムリン社を買い取り、
このファルコーネのブランドも所有している。
今のところ、このファルコーネというブランドでピアノ製造が再開される予定はない。

<特徴>
ファルコーネ社は、「サウンドボード・キャリブレーター」という響板の調整装置の特許を取得した。
これは響板の張力を調整でき、ピアノの音色を変化させられるというものである。
ファルコーネ社はグランドサイズで、9ft、7ft 4in、6ft 1inの3種類のピアノを生産。
これより小さなピアノは手作り楽器としての良さを失うと信じており、小さなピアノは生産しなかった。
ファルコーネピアノの音質は、全音域を通してどのようなダイナミクスで弾いても、豊かで均一であると、
ジャズ界やクラシック界の有名ピアニストの多くが認めている。

※その他、MASON & HAMLINや、SOHMERの項目も参照
FAMILY
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ファミリー 東海楽器製造株式会社
FAMILY
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ファミリー 東和楽器木業股份有限公司 

日本の河合楽器製作所との技術提携のメーカー。社長は陳文聰氏。
工場は桃園県大渓にあって従業員数は最盛期で500人を超えたこともあり、
ピアノ工場としてはかなりの規模。
ブランドはKAWAIという名称も使っていたが、アップライトの一部には
FAMILYというブランドも開発していた。
FANDRICH 詳細不明
FANDRICH & SONS 詳細不明
FANTAGIA ファンタジア 河合楽器が一時期出していたピアノの愛称(ブランド名ではない)
FARFISA 詳細不明
FARRAND 詳細不明
FAUTH
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フォース 日本 戦前のブランド ※ドイツ製アクションに同名のものがあるが詳細不明
FAYETTE S. CABLE 詳細不明
FAZER
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ファツェル フィンランド 詳細不明

HELLASは1989年、このFAZERも買収し、
フィンランド国営企業として2つのブランドのピアノを製造。
ピアノ背面に一般的にある支柱(バックポストと言います)がないのが特徴。
鉄骨のみで弦の張力を支えています。
FAZER MUSIK 詳細不明

FAZIOLI





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ファツィオリ イタリア

住所:Via Ronche 47, 33077 サチーレ(サチレ) 設立:1981年

1981年のフランクフルト・ミュージック・フェアに於いて、それまで誰も知らなかったイタリアのメーカーが、
新しい設計の4台のピアノをお披露目した。
そのわずか20年後、ファツィオリ・ピアノは、世界最高のピアノメーカーの候補として自ら名乗りを上げた。

ファツィオリ・ピアノは豊かな音色で、音とタッチが均一であり、フルオーケストラと協演しても
耳障りな音にならずによく通る響きを持っている。
ファツィオリはグランドピアノのみ製作され、すべて手仕事生産である。
全長308cmのグランドは、現在入手可能なコンサートグランドピアノの中で最大。
そのピアノには4本目のペダルがあり、踏むとハンマ―が弦に接近して音が弱くなるが、
ウナコルダペダルのように音色を変化させることはない。
ファツィオリ・ピアノは、ふたつのアクションとペダルリラをセットで購入することも可能で、
演奏者は好きなときにボイシングの異なるアクションに取り換えることができるのが特徴。

響板に使用される木材は一般的なスプルースではなく、
イタリアのフィエンメ渓谷から伐採された赤トウヒが使用されている。

<広告より>
1981年ピアニストでありエンジニアであるPaolo Fazioli (パオロ・ファツィオリ) 氏によって設立、
グランドピアノのみを少数生産しています。
ヴェネチアの北東60kmに位置する木工産業で有名なSacile (サチーレ) に工房を構え、
素材選びに始まり細部の仕上げにまで徹底したこだわりを持ち、ハンドメイドを追求するため、
生産数は年間数100台程のみ。
また、出来上がった全てのピアノを社長パオロ自ら試弾してチェックするという
徹底したこだわりによって、"名誉あるピアノ" が生み出されているのです。

<歴史>
機械工学の知識と、ぺサロの音楽院でディプロマを取得したほどのピアノ演奏技術とを
合わせ持つパオロ・ファツィオリは、ピアノに何を求めればよいかを知るユニークな立場にある。
それまでに試したどのピアノにも満足できず、ファツィオリは35歳のときに、家族が経営する
大きな家具店で働くという保証された道を捨て、まったく新しいピアノの設計と製作に賭けた。
家族の工場の隅に店を構え、パオロはあらゆる既存メーカーのピアノの研究に取りかかった。
そして、木材のシーズニングから音響学にいたるまでの、さまざまな分野の専門家からなる
チームを結成し、多くの研究と実験を重ねたのちに、4つの試作モデルを作り出した。
それらはすべてグランドで、全長156、183、228、278センチの4タイプだった。
パオロの最大のリスクはイタリア語のブランド名を用いることだった。なぜなら、
イタリアのピアノ産業はクリストフォリの時代以来、ほぼ休眠状態にあったからである。
しかしパオロは、ピアノが十分優れたものならきっと市場を獲得できるはずと信じ、
意思を曲げなかった。この企業がまさに大成功であったことは、ほとんど疑う余地がない。
4つの試作品はすベて1981年のフェア終了後に売れ、製造を開始した1年目にさらに6台のピアノが製作された。
1986年には新たなふたつのモデルの生産が開始された。それらは全長228cmと308cmの大きなグランドである。
ファツィオリは今も手作りで、2001年の夏に移転した特設工場では生産高が年間80台から120台へと増えた。
新しい会社内には研究施設とコンサートホールも併設されている。

<附録>
ファツィオリ・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1981年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ファツィオリ・ピアノフォルティ(伊: Fazioli)は、1981年に創業したイタリアのピアノメーカーである。
創始者兼現社長、パオロ・ファツィオリは、家具職人の家に生まれ、ロッシーニ音楽院でピアノを、
ローマ音楽院で作曲を専攻した後、ファツィオリ社を1981年に創業した。
綿密な手作業をふんだんに盛り込み、世界で最も高額なピアノとして知られている。
また独立アリコート方式、「第4ペダル」など特殊な設計でも知られる。
現時点で世界最長サイズ(奥行き308センチメートル)のモデルも製作している。
工場はイタリア北部のサチーレにある。
この際、各分野の専門家たちに、ゼロからピアノを設計する計画への参加を要請。
ミケランジェリのピアノ調律も務めたピアノ調律師兼製作者のチェーザレ・アウグスト・タローネの
弟子らを招聘し、1980年に最初のモデルを完成させた。
製品ラインナップはグランド・ピアノに限定されている。生産台数は、2009年時点で年間120台程度とされる。
ピアノの音色を決定づける響板は、フィエンメ峡谷産のレッドスプルースが使用されている。
またファツィオリの響板は、製作が終わってから2年間、空気管理された倉庫で熟成される。
他メーカーでは機械によるハンマーのフェルト作りが一般的であるが、
ファツィオリはフェルトに硬化剤を使用せず、
手作業でフェルトを作る。これにより弾力に優れたハンマーが得られる。
現代の一般的なピアノ製造工程では、ピアノ内部の鉄製フレームを鋳造する際、真空吸引法を用いる。
これは鋳型の隅々に鉄を確実に流し込み、作業を短時間で進めることができるという利点を持つが、
ファツィオリでは、伝統的な方法で時間をかけて鋳造している。
多くのピアノの中高音部の駒からヒッチまでの弦(バックストリング)には倍音を豊かに響かせるための
アリコートブリッジが取り付けられている。
通常のアリコートブリッジは一体型で、各音程毎にアリコートブリッジの位置を独立して
調節することは不可能である。
ファツィオリでは各音のブリッジを個別に移動できる独立アリコート方式を採用している。
ただし、独立式アリコートブリッジはファツィオリのみに見られる特徴ではない。
ファツィオリでは、駒の基礎(カエデとマホガニーとの積層材)上に貼る木材に
カエデとシデとツゲの3種を用い、硬度の違いを生かして音域ごとに
(低音から中音域にカエデ、高音域にシデ、最高音域にツゲ)3種を順に使用するよう設計している。
駒の表面の加工も、熟練した職人の手作業で仕上げられる。
通常の3本のペダルのさらに左側に4番ペダルのあるものがあり、この特許を取得している。
このペダルによって、ハンマーと弦の距離が短くなり、同時に鍵盤が浅くなる。
ファツィオリはこれを「音色を変えることなく音量のみが小さくなる」としている。
これによってピアニッシモの効果が得られるだけでなく、グリッサンドや速いパッセージに利点がある。
4番ペダルは、モデルF308のみ、標準仕様である。
他機種ではオプションで4本ペダル仕様にすることが可能であるが、追加料金が必要となる。
また購入後にペダルの増設はできない。
ファツィオリでは防錆と美観を考慮し、金属部品に金メッキ処理を採用している。

<ファツィオリは、下記6種類のグランドピアノを製造>
■F156 ※ヤマハで例えるとC1とほぼ同じサイズ
■F183 ※ヤマハで例えるとC3とほぼ同じサイズ
■F212 ※ヤマハで例えるとC6とほぼ同じサイズ
■F228(通常のセミコンサート・グランドピアノ) ※ヤマハで例えるとC7とほぼ同じサイズ
■F278(通常のフルコンサート・グランドピアノ) ※ヤマハで例えるとCFXとほぼ同じサイズ
■F308(ファツィオリ独自の特大コンサート・グランドピアノ) ※ヤマハにはないサイズです
→機種番号のFに続く数字は、ピアノの奥行きを(センチメートル単位で)表しています。
※ただし、F308の現行機種の実際の奥行きは302cmになっておりますので注意。
※ちなみにベーゼンドルファーのフラッグシップモデルである「インペリアル」の奥行きは290cmです

《日本における納入先施設(一般公開施設のみ) 上から納入時期が早かった順です》
栗東芸術文化会館さきら(滋賀県栗東市)F278 ※日本で初めてファツィオリを納入したホール(1999年?)
北上市文化交流センター さくらホール(岩手県北上市)F278 ※2005年 アルド・チッコリーニが再来日し演奏
石川県こまつ芸術劇場うらら(石川県小松市)F212 ※詳細は公開されていない
美浜町生涯学習センターなびあす(福井県三方郡美浜町)F308 ※2012年納入、F308の設置としては国内初
豊洲シビックセンター(東京都江東区)F278 ※2015年9月納入、舞台壁が総ガラス張りで夜景が見えるホール
渋谷ホール(東京都渋谷区)F212 ※2018年11月納入
風テラスあくね(鹿児島県阿久根市)F278 ※2019年1月納入
フェニーチェ堺(堺市民芸術文化センター)(大阪府堺市)F308(特注モデル) ※2019年3月納入
中札内文化創造センターハーモニーホール(北海道中札内村)F278 ※2020年1月納入

《日本における納入先施設(非公開施設で判明している場所) 上から納入時期が早かった順です》
幕張ベイタウン・コア(千葉県千葉市美浜区)F278 ※2002年4月納入、利用は共催イベントのみ審査あり
渋谷教育学園幕張中学校・高等学校田村記念講堂(千葉県千葉市美浜区)F278 ※2009年納入

ファツィオリの調律もお任せください(但し、ホールの調律は毎回施設側の許諾が必要です)→★
FEIGL, ALOIS 詳細不明
FEINTON
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フェイントン 北朝鮮 パコやグラチアと同系ピアノ 詳細不明
FELIX SCHULER
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フェリックス・シューラー 昭和楽器 詳細不明

スペルは”FELIX SHULLER”ではない
FENNER 詳細不明
FERD. THÜRMER
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フェルディナント・ テュルマー 1834創業 ドイツ

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Ferd. テュルマー・ピアノフォルテファブリック(Ferd. Thürmer Pianofortefabrik)は、
ドイツ・ボーフムのピアノ製造会社である。
テュルマー家は100年以上ピアノの製造を続けて、現在はボーフムに工場を持つ。
1834年にフェルディナント・テュルマー(Ferdinand Thürmer)によて創業された。
第二次世界大戦で工場はソビエトに破壊されたが、戦後に再建され成功を収めた。
公式HP:https://www.ferdthuermer.de/

FEURICH

FEURICH

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フォイリッヒ (ホイリッヒ)  ドイツ(旧西ドイツ) 1851年創業
ジュリアス・フォイリッヒはドイツ・ライプツィヒでピアノ製造会社FEURICH社を創業

ユリウス・グスタフ・フォイリッヒは、パリのプレイエルの工場でピアノ製作を学び、
1851年にドイツに帰ってライプツィヒに会社を設立した。
フォイリッヒはそれまでドイツで知られていなかったアップライトピアノ製作の詳細な
知識を持ち帰った。1930年代には、フォイリッヒのグランドピアノは世界中の40以上の
コンサートホールに所蔵されるようになった。

フォイリッヒはユリウス・ブリュートナーと同じ街で開業することになったため、
当初、フォイリッヒ社はアップライ卜のみを、ブリュートナー社はグランドのみを製作するという
取り決めがなされた。しかしその平和な合意も4年しか続かず、競争心に動かされたふたつの会社は
ともに両タイプのピアノを製作するようになる。
フォイリッヒ社は着実に成長していき、20世紀の初めには良質のピアノを製作していた。
第一次世界大戦が始まった1914年、フォイリッヒ社の360人の従業員は、年間1,000台のアップライトと
600台のグランドを生産した。1920年代には生産高が落ち込むが、それでも社長のカール・ミューラーは、
経営不振に陥ったベルリンのオイテルペ社とW・ホフマン・カンパニー社を買収した。
第二次世界大戦ではライプツィヒの工場が破壊されたが、
戦後ミューラーは3つすベてのメーカーのピアノの生産をベルリンで開始する。
1949年、創業者のひ孫のユリウス・フォイリッヒはミューラーの支援を受け、ラングラウに新工場を建設する。
以後、この場所はオイテルぺ社の工場になった。
1958年に会社は国営化され、グループはオイテルペ・ピアノ・カンパニーの旗印のもと着実に成長し続け、
1979年のピーク時には276人の従業員が年間2,500台のアップライトと250台のグランドピアノを生産した。
1991年7月、ベヒシュタイン社がオイテルペ・ピアノ・カンパニー社の株の過半数を買い占める。
自治的経営を認められたフォイリッヒ社は、5キロほど離れたところに新たな工場地を見つけて、
1990年代の大半は徐々に生産高を増やした。現在フォイリッヒ社は、グンツェンハウゼンの工場で
アップライ卜とグランドピアノを安定して生産しており、1920年代と30年代の自社の美しい楽器をモデルにした
コンサートグランドの製作を計画している。

※現在のフォイリッヒは中国メーカーの傘下なのでBVK認証は受けておりません。BVK認証とは →★
トレードマークの下が中国製造のものです。

<附録>
フォイリッヒ・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1860年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
フォイリッヒ(Feurich)は1851年にザクセン王国ライプツィヒで創業したピアノ製造会社であり、
1948年までライプツィヒで生産していた。
現在、フォイリッヒブランドのピアノは中国の海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場と
ウィーンの6区の工場で製造されており、ウィーンの7区に所在する
ヴェンドル・ウント・ルングGmbHによって流通されている。
フォイリッヒはライプツィヒに歴史的ルーツを持つピアノ製作者一族およびピアノブランドである。
フォイリッヒピアノは現在中国寧波市にある海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場で生産され、
ウィーンのピアノ販売・開発会社ヴェンドル・ウント・ルングの指揮の下で世界中で販売されている。
加えて、2016年からは、オーストリア・ウィーンの6区にも生産施設が存在する。
創業者の曾孫のユリウス・フォイリッヒは2012年からはもはやフォイリッヒブランドの権利と
フォイリッヒピアノの生産には関わっていない。
ライプツィヒはパリ、ロンドン、ウィーンに次いで、ヨーロッパの音楽文化の
最も重要な都市の一つであった。
ここで、1851年にユリウス・グスタフ・フォイリッヒ(1821年-1900年)が
「Pianofortefabrik Feurich」を創業した。
1860年までに、400台以上の楽器が製造販売された。
その後、より大規模で現代的な工場が建設された。世紀の代わり目には、
1万4千台近いアップライトピアノとグランドピアノが作られた。
フォイリッヒに加えて、ピアノ製造業者のブリュートナー、シンメル、Gebr. ツィンマーマン、
フップフェルト、およびその関連産業もライプツィヒを拠点としていた。
ユリウス・グスタフ・フォイリッヒとヘルマン・ハインリヒ・フォイリッヒは
ザクセン王国王室御用達の称号を与えられた。
その後、自動ピアノの時代が訪れた。フォイリッヒはこの産業における
多くの非常に成功した企業と協同した。
機械式楽器製造者であるヒューゴ・ポッパーとは親交を深めた。
M・ウェルテ&ゼーネによる自動演奏システムウェルテ=ミニョンやフップフェルトによる
Phonola、PhilipsによるDucaが導入された。
第一次世界大戦はこの地域に厳しい挫折をもたらした。
そのため、ピアノの代わりに様々な戦争物資のための包装容器が次第に製造されるようになった。
1919年までに、3万4千台以上のアップライトピアノとグランドピアノが製造された。
インフレーションの間、通貨の価値が維持されず、人々は通貨を素早く有形資産へと変換したため、
ピアノ生産は全速力で行われた。
後に、大恐慌が来ると、人々は通貨を生活必需品に使わなければならず、
ピアノ生産は大幅に低下した。フォイリッヒはこの時期、無線機器のための筺体も生産した。
第二次世界大戦中、戦争必需品(光学機器や抗対空砲火ヘッドライトのための梱包用箱)の生産を
再び余儀無くされた。1943年、工場建物は爆撃され、生産施設や会社に歴史的に関係のある
全ての展示品、その他の書類、設計のための模型が失われた。
当面はハーモニウム工房テオドール・マンボルクでの生産が続けられた。
戦後、工場の修復が行われ、1950年にようやく新らしい楽器が工場から出荷された。
ユリウス・フォイリッヒJr. は1951年に西ドイツへ逃れ、ミッテルフランケンのピアノ製造業者
オイテルペ(Euterpe)に加わり、共同経営者となった。
フォイリッヒ・ブランドのピアノも生産されていた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)当局は
ライプツィヒで経営を行っていたユリウス・フォイリッヒSr.にラングラウでの事業の継続に難色を示した。
1958年、ユリウス・フォイリッヒSr. は事業の国営化を勧告された。
その後、東ドイツに残っていた残りのフォイリッヒ家の人々も西側へ逃れた。
1959年、「ユリウス・フォイリッヒ・ピアノフォルテファブリックGmbH」が西側で新たに設立された。
日本のピアノメーカーヤマハとカワイの出現により、ドイツのメーカーが数を保つのが次第に困難となった。
1991年、オイテルペ社(したがってその傘下のフォイリッヒ社)が
ベヒシュタイン・グループによって買収された。
楽器は当初ベヒシュタインのベルリン工場で生産された。
フォイリッヒのCEOであったユリウス・マティアス・フォイリッヒはフォイリッヒの社名が
それほど重要ではない役割しか果たさないことに不満だったため、
1993年にベヒシュタイン・グループからフォイリッヒの株式を購入した。
再び独立してから3年後の1994年、フォイリッヒはフランクフルト・ムジークメッセ
(楽器と音楽の国際専門見本市)に出品した。
ニュルンベルク近郊のグンツェンハウゼンの自社工場が完成するまでは、
楽器はライプツィヒのレーニッシュ社によって製造された。
1999年から2009年までは、全てのフォイリッヒ・アップライトピアノおよびグランドピアノは
グンツェンハウゼン工場で一流のピアノ職人によって手作りされた。
1998年までに、フォイリッヒ社は76,210台のピアノを生産した。
以後、特に118 cmと123 cmの2種類のアップライトピアノと172 cmと227 cmの
2種類のグランドピアノが少量生産された。
2010年と2011年に、ウィーンの企業ヴェンドル・ウント・ルング社とフォイリッヒ・クラヴィア・
ウント・フリューゲルファブリカツィオーンGmbHとの間で業務提携が行われた。
意図はポートフォリオの拡大であった。一方では低価格帯のピアノを中国での安価に生産し、
それと同時にグンツェンハウゼン工場で手作りされたアップライトピアノとグランドピアノが売り出された。
グンツェンハウゼンにおける生産の経済発展により、2012年1月1日からの業務提携の解消が
2011年末に決定された。
2010年、ヴェンドル・ウント・ルング社はフォイリッヒの株式の大半と世界的な商標権利を取得した。
2012年にはフォイリッヒ社の買収が完了した。
今日、フォイリッヒ・ピアノの研究開発・設計はウィーンで行われ、生産のほとんどは中国・寧波市の
海倫鋼琴(ハイルンピアノ)の工場で行われている。
フォイリッヒ社の売却後、フォイリッヒ家のユリウス・フォイリッヒは
J.F. Pianofortemanufaktur GmbHの代表取締役社長となった。
フォイリッヒの商標は売却されたため、この会社はフォイリッヒ・クラヴィア・ウント・
フリューゲルファブリカツィオーンGmbHとは関係がなく、製品は「J.F.」というブランドの元で
それ以来販売されている。
1985年、「Pédale Harmonique」と呼ばれる第四のペダルによる新たな音響効果の開発が始まった。
ペダルが完全に押し下げられると、従来のダンパーペダルと同じ挙動となる。
ペダルが中間まで押し下げられると、全てのダンパーが持ち上がるが、演奏され放された鍵の
ダンパーのみが弦に落ちる。演奏されていないその他の弦はダンパーで消音されないままになる
(ソステヌート・ペダルの逆の挙動)。
2006年、試作品がムジークメッセ・フランクフルトに出品された。
ピエール・ブーレーズはこの革新を好意的に論評した。
 FIBICH
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読み方不明
チェコスロバキア製 (現在:チェコ共和国) ペトロフ社のブランド
FIBIGER 詳細不明
FIEDLER
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フィドラー ドイツ 詳細不明
FIEDLER, GUSTAV 詳細不明
FINETONE
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ファイントーン 株式会社 富士楽器製作所(外国ピアノ輸入商会?) 詳細不明
FINGER 詳細不明
FIONA 詳細不明
FIRST


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FIRST ファースト

東京楽器製造(株)(株式会社 森技術研究所、森技研)
当時の住所:東京都江東区深川平井町2-5

沢山清次郎氏が森健氏の後を受けて東京深川の東京楽器製造株式会社で製作したもの。
東京楽器は森健氏が東京の深川で多年の経験を生かして名器を作ろうと工場を設立した。
FISCHER
J. & C. FISCHER


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ジェー・アンド・シー・フィッシャー  J.& C.FISCHER/J. & C. Fischer Pianos
エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品
工場:ニューヨーク 創業1840年

FISCHERは極めて古いメーカーで、創設者のフィッシャーはフェルディナンド一世
(18世紀から19世紀にかけてのナポリ王。マリア・テレサの娘を王妃とし、
ナポレオンと戦って敗れ、暴君であったと歴史上の記録に残っている)のお抱えの
ピアノメーカーであったということから、さぞピアノの発祥地であるイタリアの伝統を
伝えるピアノであったのであろう。
この創始者、フィッシャーの二人の息子のジョン・フィッシャーとチャーレス・フィッシャーとが
アメリカでピアノの製造を始めたので、そのブランドはジェー・アンド・シー・フィッシャー
(J. & C. FISCHER)となっています。
フィッシャーはアメリカのピアノ工業の発達のために大きく貢献したメーカーです。

<別解説>
孫のジョンとチャールズが会社をアメリカに移す前に、フィッシャーは一族のピアノ作りを始めました。
フィッシャーは18世紀末にウィーンからイタリアのナポリに移り住んだ。
ナポリでピアノ製作を始めたフィッシャーは、すぐにその名を知られるようになり、
「ナポリ王フェルディナンド1世のピアノ製作者」として宮廷に任命された。
その後、息子のカール・フィッシャー(ジョンとチャールズの父)は、ナポリで父の事業を引き継ぎ、
自分の息子たちにも教えて、1839年には海を越えてニューヨークの中心部で生産を開始した。
有名なウィーンのピアノ職人の孫にあたるジョンとチャールズ・フィッシャーは、
ウィリアム・ナンズが引退する1840年まで、ナンズ&フィッシャー社からJ.C.フィッシャー社に
社名を変更するまで、ナンズとパートナーを組んでいた。
1896年には、年間5,000台近くのピアノを生産し、すでに10万台目の生産を達成していた。
1908年にJ.C.Fischer社がAmerican Piano Companyに買収されてから一連の買収が始まり、
オフィスはニューヨークに残りました。
1985年にはウーリッツァーがJ.C.フィッシャーを買収し、1995年にはボールドウィンが
J.C.フィッシャーを買収した。
ギブソンは2001年にBaldwin Piano Companyを買収した際にこの名前を取得しました。
現在、J.C.フィッシャーピアノは中国で製造され、アジアの輸入品としてアメリカで販売されています。
FISCHER, CARL 詳細不明
FLEMMING
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フレミング 株式会社 福山ピアノ社
ブランドのスペルは”FLEMING”ではなく”FLEMMING”で、Mが2個重なります
FLICKLER


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FLICKLER フリックラー

大洋楽器工業有限会社・(株)プルツナーピアノ・及川ピアノ製作所  いづれも浜松
昭和31年から38年まで大洋楽器工業で作られており、
その後プルツナーピアノを経て、昭和45年から及川ピアノのブランドとなった。
FLINGEL


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FLINGEL フリンゲル

発売元:ピオバ楽器社(神田神保町) 製造:広田ピアノ株式会社(川崎?)
野口喜象氏が神田ピオバ楽器を経営していたときに発売したピアノ。
昭和11年頃、広田ピアノ製作所で作られた。 
FLOBAL
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フローバル 浜松 中部楽器製造(株) 詳細不明

※大洋楽器工業株式会社という資料もあるが不明
FLOBEL →FROBELの項目へ
フローラピアノ製造(株)の作っていたフローベルのスペルは”FLOBEL”ではなく、”FROBEL”です

FLOBERGER

FLOBERGER

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フローベルガー

この機種は1台しか調律の経験ありません。詳細不明。 

”キャッスル(CASTLE)” というピアノのトレードマークにやや似ていますが詳細は不明。

フローベルガーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

FLORA

FLORA

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フローラ
フローラピアノ製造株式会社、日本鍵盤製造株式会社

昭和37年に、浜松市に設立されたフローラピアノ製造(株)で作られていたブランドです。
当時8機種が作られていました。

音色はややシャリシャリした感じです。。まさにTHEフローラといった音色(分かる方は分かるはずです)
ちなみに、アールウィンザーというピアノもフローラピアノ製造です。
上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フローラのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FLORA
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フローラ 台湾 詳細不明
FLOWER
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フラワー 羽衣楽器製造株式会社
FLUGEL


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FLUGEL(FLÜGEL) フルーゲル/フリューゲル

坂本ピアノ製作所/坂本楽器研究所(大成ピアノ製造の前身) 浜松市
昭和24年から昭和46年まで作られていた。
FOCKÉ 詳細不明
FOCKÉ, GEORGES 詳細不明
FORCKENBECK

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FORCKENBECK フォルケンベック

東洋ピアノ製造株式会社
FORENEDE 詳細不明
FORO
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォロ(FORO) 福楽鋼琴股份有限公司 台湾(中国)

工場は台中県石岡郷。従業員数200人を超えたこともあり、グランドピアノからアップライトまで。 
FOREST



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FOREST フォレスト

■ 東京楽器製造株式会社
■ 森技術研究所
■ アトラスピアノ製造株式会社
■ 有限会社 ツルミ楽器
■ トニカ楽器製造株式会社

東京楽器製造(株)東京都江東区深川平井町、(トニカ楽器(三田?))
森健氏が東京の深川で多年の経験を生かして名器を作ろうと工場を設立したのが東京楽器製造。
FORESTは森氏の姓からとったもので独特の設計で音色は美しかったとの情報。
尚、多数の有能な技術者を養成して、これらの技術者は十八会と呼ぶ会合を続けていた。
その後、トニカ楽器扱いに。
FU-10、FU-20、FU-30、FU-50、FU-55、FU-70、FU-80の7機種があった。

FOREST(フォレスト)のトレードマークは当然ながらトニカピアノとほぼ同じトレードマークです。
音符が3つ交差したトニカのトレードマークはこちら →★
エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フォレストのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FORREST 詳細不明
FORSTEI VON MELOS


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※下記は参考画像

FORSTEI VON MELOS
フォルステイ・フォン・メロス

製造元:レスターピアノ製造株式会社
製造元:東洋ピアノ製造株式会社

<一番上のトレードマーク画像>
モルゲンスターン(MORGENSTERN)とまったく同じトレードマークで、韓国のサミック社製の5機種
REID-SOHN、KAFMANN、SAMICK、SCHNABEL、WEINBURG(現在把握しているもの)とも酷似。
比較した画像はこちら →★ これらトレードマークの類似点については現在調査中です。

<上から2番目のトレードマーク画像>
文字の部分が”F V M”になっていますね。→FORSTEI VON MELOSの頭文字から
匿名希望様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<一番下のトレードマーク画像>
画像は参考で、アポロピアノのトレードマークです。
”FVM”の文字の部分だけが違うことが分かります。
FORSTEIN
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォルスタイン 東洋ピアノ製造株式会社
 FORSTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォルスター ドイツ 詳細不明 
FORSTER
FÖRSTER



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FORSTER/FÖRSTER フォルスター

福島昭彦氏
ベルリンピアノ製造株式会社 ※当時の住所:浜松市(現:浜松市東区)原島町195番地
有限会社 光輪楽器製作所

昭和34年から昭和46年まで作られていた。

トレードマークには「BERLIN PIANO・CO・HAMAMATSU JAPAN」と入っています。
マーク内にはライオン?とみられる動物が向かい合わせに描かれていてとても印象的ですね。
このトレードマークは「wakopin様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

似た名称で”エー・フォスター/A.FOSTER”(同じベルリンピアノ製造株式会社)や、
このすぐ下の”フォスター/FOSTER”(大和楽器製造株式会社)というブランドもあるので要参照
FÖRSTER, AUGUST 詳細不明
FOSTER
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フォスター 大和楽器製造株式会社

似た名称で”エー・フォスター/A.FOSTER”(ベルリンピアノ製造株式会社)や、
このすぐ上の”フォルスター/FORSTER”(ベルリンピアノ製造株式会社)もあるので要参照
FORTH フォルス/フォース アカシアピアノ製作所
FOUDRICH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フードリッヒ
有限会社 野田ピアノ 詳細不明
FOUGEL フーゲル 明音楽器製作所
FR. HELMHOLZ →HELMHOLZの項目へ
FRANCESCA TEH AEOLIAN CO.(エオリアン社) ニューヨーク
その他詳細不明
FRANCIS BACON
(BACON, FRANCIS)

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FRANCIS BACON PIANO CO. 創業1789年 アメリカ(ニューヨーク)

フランシス・ベーコン・ピアノ・カンパニーの歴史は、1789年にさかのぼります。
ジョン・ジェイコブ・アスターが会社を設立し、その30年後にはロバート・ストダートと
ウィリアム・デュボアを迎え入れました。
1841年から1871年まで「Raven & Bacon」という社名を冠していた
フランシス・ベーコンやトーマス・レイヴンなど、最初の40年ほどはさまざまな人物が
入社・退社を繰り返していた。
その後、ベーコン家の数世代にわたる存続を経て、1904年にベーコン・ピアノ・カンパニーとして法人化された。
ベーコン・ピアノ・カンパニーは、1900年代初頭からコーラー社やキャンベル社との取引を開始し、
1933年にはコーラー社やキャンベル社の大企業に完全に統合されたため、ベーコン・ピアノの中には
コーラー社やキャンベル社のシリアルナンバーが付いているものもある。

フランシス・ベーコン・ピアノは、ニューヨークに本社を置くピアノメーカーで、アップライトピアノ、
グランドピアノ、プレーヤーピアノ、電気式表現ピアノ、リプロダクションピアノなど、
さまざまなタイプのピアノを製造・販売していた。
ベーコンピアノは何十年にもわたって製造されてきた実績があり、創業当初からその優秀さが望まれていました。
1876年のフィラデルフィア万国博覧会をはじめ、1800年代後半から1900年代前半にかけて、
このブランドのピアノはいくつものメダルや賞を受賞しました。
ベーコン・ピアノの価格帯は、中程度のものが多い。
FRANKE. H.
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ドイツ フランケ 詳細不明
FRANKLIN

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FRANKLIN
フランクリン アメリカ(ニューヨーク)
その他詳細不明

左記トレードマーク画像は「ミルキー杏様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
FRANZ MEYER 詳細不明
FRANZ OESER



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FRANZ OESER

フランツ・エーゼル/フランツ・エーザー/フランツ・ウーザー/フランツ・オーザー
オーストリア=ハンガリー帝国(ハンガリー製)

オーバーダンパーの写真 →★  外観写真 →★  銘柄マーク →★  響板デカール →★
写真ご寄稿:平田康裕様よりご提供いただきました
FREDERIC フレデリック 東京楽器研究所
FRENCH, JESSE
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アメリカ 読み方不明、詳細不明
FRIEDMAN
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フリードマン 東洋楽器製造株式会社(広島) 詳細不明
FRIEDRICH




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フリードリッヒ FRIEDRICH

福島ピアノ研究所
東京楽器研究所
東日本ピアノ製造株式会社
株式会社バロック
静岡楽器製造株式会社

神楽坂の途中に福島ピアノ店という専門店があり、
元輸入商だった福島昭彦氏が材料を提供して作りました。

福島貿易商はもともと横浜にあり”福嶋”が本姓で、
中国の天津や上海にもフリードリッヒのブランドがあり、
それらと契約もあったと伝えられています。
当時、発売店は新宿区神楽坂通り三丁目にありました。
機種バリエーション:F104等

左記トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
この度は画像をご寄稿頂きまして誠にありがとうございました!

東日本ピアノ製造(株)の「バロック(BAROCK)」や「クリーベル(KRIEBEL)」の項目も参照

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック
FRIEDRICH EHRBAR 詳細不明
FRITZ DOBBERT




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フリッツ・ドッベルト/フリッツ・ドベルト ブラジル(サンパウロ)

ローズウッド材の本場なので外装が美しいものが多い。その他詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
フリッツ・ドッベルト(Fritz Dobbert)は、ブラジル・サンパウロを拠点とするピアノ製造業者である。
1950年5月13日創業。
ラテンアメリカで最大のピアノメーカーであり、ブラジルのアコースティックピアノのトップ企業である。
工場はドイツ人のOtto Halben、CelioおよびThyrso Bottura兄弟によって、
Canindé地区でIndústria de Pianos Halben(ハルベン・ピアノ産業)として創業された。
1956年、会社はPirituba地区の倉庫複合施設へ移転し、
Pianofatura Paulista(サンパウロ・ピアノ製造)と解明した。
この時にはHalbenは既に会社に関与していなかった。
Pianofatura Paulistaは20種類を超えるピアノブランド名を使用した。
1958年、工場従業員で職人のFritz Wilhelm Ernst Otto Dobbertがピアノの新しい設計を開発した。
このピアノは非常に成功を収め、彼の名を冠した。
間もなく、Pianofatura PaulistaはFritz Dobbertブランドのみを使用するようになった。
長年にわたって、Fritz Dobbertはブラジル最大のピアノメーカーの一つとしての地位を確立してきた。
2015年5月、65周年を迎えた時に、工場はPirituba近郊を離れて、オザスコのより近代的な施設へと移転した。
会社は現在創業者の2世代目によって経営されている。
公式HP:https://www.fritzdobbert.com.br/pianos/fritz-dobbert/
公式FBページ:https://www.facebook.com/FritzDobbert/

フリッツドベルトのその他の写真です →★

FRITZ KUHLA

FRITZKUHLA

FRITZKUHLA ピアノ

FRITZKUHLA 特製38号

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FRITZKUHLA フリッツ・クーラ/(フリッツクーラ)

製造:東洋ピアノ製造株式会社(浜松市)
鉄骨部分には”TOYO PIANO”と刻印があります。
音色はデフォルトではやや堅めのピアノですね。
東京藝術大学や武蔵野音大の指定ピアノだった時期あり?(不確定情報)

<読み方>
○ フリッツクーラ  × フリッツクーラー

ピアノのトレードマークとしては珍しい三角形をしています。
他にも三角形のロゴもありますが、このページの中から探してみて下さい^^

<機種バリエーション>
特製30号、特製38号、特製50号、特製70号など
フリッツクーラのまくり(蓋内部の右上部)にある大きくて独特なブランド銘柄マーク →★

フリッツクーラのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FRITZKUHLA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリッツクーラ ドイツ 1872~ その他詳細不明
FRITZ KHULA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリッツ・クーラ フィリピン 詳細不明
FRIXSHURER
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
フリックスシューラー 本間ピアノ楽器工作所
FROBEL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FROBEL フローベル フローラピアノ製造株式会社(浜松)

※フローラピアノ製造株式会社が作る代表ピアノ、”フローラ”のスペルはFLORA”なのですが、
同じフローラピアノ製造が作るこの”フローベル”のスペルは”L”ではなく何故か”R”になっています。
FUCKS & MOHR
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
FUCHS & MÖHR フックス・アンド・メーア ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
FUJI


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FUJI フジ

富士楽器製造株式会社(富士ピアノ製作所)
シェーンベルグ製造当時の富士楽器が昭和11年に作ったピアノのブランド。
創立者は野田秀治氏。二代目は野田満氏である。 
FUKUSHIMA


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FUKUSHIMA フクシマ

福島ピアノ研究所(東京都大井町)、東京楽器研究所

福島ピアノは大井町の東京楽器研究所で作り出されたものである。
この研究所の所長であった福島琢郎氏は、ピアノの技術者としては飛び抜けた人であった。
彼は早稲田大学の商学部を卒業後、日本楽器に入社しているが、
当時の農商務省と音楽学校の推薦で渡米し、スタインウェイで2年ピアノの製造技術を学び取ったが、
帰国後、理論と技術が噛み合わず、日本楽器を飛び出している。

福島氏の父親は三井の重役で、当時のエリート中のエリートであったため、
三越の重役その他の出資を得て、さらに実際の技術者として、後にヒロタピアノを作った
日本楽器の広田米太郎氏を招いて、1918年に株式会社東京楽器研究所を設立した。

名前は研究所であったが、実際はピアノ工場で、福島氏は音楽学校の顧問もしていたので、
その製品は品質も優れていたが、販売機構を持たなくても飛ぶように売れていった。
当時のヤマハのアップライトは最低500円であったが、関東のメーカーのピアノの方が値段が高く、
ニシカワが650円、フクシマが最も高く800円だったという。
ちなみに1918年の大卒の初任給は40円だそうです。

製造台数はわずか500台程度であったが、この研究所で技術を習得した多くのピアノ技術者たちが、
後の関東地方のピアノ製造を支えたのである。
技術者として活躍した方々は次の通り極めて多い。
木下乙弥氏、藤原梅太郎氏、太田一郎氏、山崎秀雄氏、清水栄一氏、伊藤辰雄氏、橋本勝美氏、
足立三郎氏、斉藤喜一郎氏、渥美亘弘氏、竹内友三郎氏、森吾市氏、大越勇喜氏、淵田栄氏、
松崎妙氏、大岩隆平氏、大友雅一氏、飯国一郎氏、福井辰利氏、大井長一氏、の各氏。
FUKUYAMA


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フクヤマ

株式会社 福山ピアノ社
大成ピアノ製造株式会社
有限会社 興和楽器製作所
坂本ピアノ
株式会社 坂本ピアノ製作所
FUKUYAMA DELUXE
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フクヤマ・デラックス 株式会社 福山ピアノ社

FUKUYAMA & SONS

FUKUYAMA & SONS

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フクヤマ/フクヤマ・アンド・サンズ

株式会社 福山ピアノ社(本社住所:東京都千代田区神田神保町1の14番地)※当時
東京ピアノ工業株式会社
富士楽器製造株式会社
フローラピアノ製造株式会社

明治12年生れの福山松太郎氏が明治末期より神田小川町に開業した福山ピアノが、
昭和40年代になって自らの姓をつけて製作した自信作とのことである。
高級品を目指して努力したと伝えられています。

音色、出来栄えともになかなか良いピアノだと感じます(※ただしピアノの個体差は大きいです)
ピアノの蓋には、FUKUYAMA & SONSと書かれています。

上のトレードマーク画像がアップライト、下のトレードマーク画像がグランドです。
グランドピアノの方のトレードマークは、「I様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

フクヤマのグランドのフタ部分にある銘柄マーク →★  フクヤマピアノのキーカバー →★
フクヤマピアノの保証書 →★ (株) 福山ピアノ社の本社は千代田区神田神保町1丁目14番地とあります

フクヤマのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
FUKUYAMA & SONS SPECIAL
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フクヤマ&サンズ スペシャル 株式会社 福山ピアノ社
FURSTEIN (FARFISA)
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フルシュタイン(ファルフィサ) イタリア 詳細不明
FURTADOS
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インド 総合楽器メーカーでピアノもわずかに製造しているようです
その他、詳細不明

公式ホームページ:https://www.furtadosonline.com/
フェイスブックページ:https://www.facebook.com/FurtadosIPT/

上記Fから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

G & GRAND
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ジー・アンド・グランド 東日本ピアノ製造(株)、株式会社バロック
1953年創業の東日本ピアノ製造。

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック
G. RÖSLER →RÖSLERの項目参照
G. SCHWECHTEN →SCHWECHTENの項目へ
GABRIELGAD
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ガブリエルガド 竜生楽器研究所
GALNER
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ガルナー 遠州ピアノ製造(株)浜松  昭和31年より昭和36年まで生産されていた。
GARTCHEN
<注意>
<ご注意>
■スペル:GARTCHEN
■読み:ガルトヘン
■製造:(株)シュベスターピアノ製作所
と解説している資料もありますが、これは下記の「GARTEN」とスペル表記を間違えているものと推測されます。
協信社ピアノ製作所(シュベスターピアノの前身)が過去に製造したピアノは「GARTEN」です。
「GARTEN」についての詳しくは、このすぐ下にある「GARTEN」の項目を参照

※ちなみに、よく似た名称でGERTCHEN(ゲルトヘン)というピアノもあります(松本楽器製造株式会社)
GARTEN


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GARTEN/ガルテン、(ガーテン)、(ガーデン) ※読み方不明
製造元:協信社ピアノ製作所(東京蒲田 北糀谷工場)
※協信社ピアノ製作所は、シュベスターピアノ製造KKの前身になります

シュベスターピアノ製造株式会社(旧:協信社ピアノ製作所)はヤマハ、カワイに次ぐ
日本で3番目に古いピアノメーカーです(ピアノ製造をしていなくても何らかの事業継承している中において)
シュベスターピアノ製造株式会社についてのさらに詳しい解説は→「SCHWESTER」の項目へどうぞ

シュベスターピアノ第1号機(1929年/昭和4年製造)は、大田区田園調布の佐治家(病院)へ初めて納品され、
その後昭和50年代に修復されたのち、ピアノは武蔵野音楽大学(東京都練馬区羽沢1-13-1)へ寄贈されました。
現在このシュベスターピアノ1号機は武蔵野音楽大学(江古田キャンパス)内に併設されている
楽器ミュージアム(鍵盤楽器コーナー)に展示保存されております。※一般公開中(要予約)
楽器ミュージアムに展示中のGARTENピアノのキャプションボードです →★

先日、武蔵野音楽大学楽器ミュージアム様から特別な許可を頂き、当ピアノの調査に伺わせて頂きました。
シュベスターピアノの記念すべき第1号機は病院へ納入されたとのことですが、この「病院」というのは
当初私は人間の病院だと思っていたのですが、実は犬の病院(当時の病院名:田園愛犬病院)ということが
同大学内に保存されていた資料や、その他の情報により判明致しました。
その後、このGARTENピアノはシュベスターピアノ創立50周年に合わせて修復された後、
1979年(昭和54年)11月25日、佐治家から武蔵野音楽大学内の楽器博物館へ寄贈されました。
ちなみに現在の同大学の博物館名は「楽器博物館」から「楽器ミュージアム」に改称されております。

ところで「GARTEN」の名称の由来ですが、これは東京大田区にある田園愛犬病院の初代院長であった
佐治正次郎氏のご夫人のお名前に含まれる1文字、「園」から「GARTEN」という名称が付けられました。
※ここでは敢えて正確なお名前は伏せております。
ドイツ語で「GARTEN」とは「庭・庭園・菜園・果樹園」という意味ですのでその名付けの理由が分かりますね。
これらのことから、この「GARTEN」は佐治家のために特別に作られた1台だということが分かります。

<参考>
田園愛犬病院の初代院長、佐治正次郎氏は日本におけるペット医療の発展に大きく貢献された方です。
ちなみに、この動物病院は現在も3代目の方が大田区田園調布で病院を経営されており、
こちらの動物病院(現在の病院名:佐治動物病院)様の公式ホームページの病院沿革によりますと、
「1929(昭和4)年、佐治動物病院は日本初の犬の病院として、田園調布に開院しました」とあります。
昭和4年ということは、開院と同時期にシュベスターピアノ第1号機「GARTEN」が納入されたことになります。

今回、武蔵野音楽大学様から特別な許可を頂き、GARTENの撮影もさせて頂きましたので公開させて頂きます。
■ ガルテン(GARTEN)ピアノの上前パネルを開けた全体写真(右から)→★
■ ガルテン(GARTEN)ピアノの上前パネルを開けた全体写真(左から)→★
■ 下前パネルも開けた状態の全体写真 →★  ■ 下前パネルを開け、巻線部分を撮影 →★
■ アクション内、キャッチャー部分拡大画像 →★  ■ 象牙鍵盤拡大画像 →★
■ まくり(鍵盤蓋)部分にあるGARTENのブランドレッテル文字 →★  少し引いた画像 →★

ピアノの外観は黒色でごく普通の雰囲気のピアノで、戦前の古いピアノなのでもちろんペダルは2本でした。
上前パネルや下前パネルは近年の一般的なピアノより軽量な作りでした。
鍵盤材質ですが黒鍵はエボナイトのようですが、白鍵の方は天然象牙の2枚貼りでした。
上前パネルには美しい象眼モールが施されておりましたので、上記各画像を参照してください。

<トレードマークについて>
一般的にピアノ内部(フレーム部分)にはそのピアノブランドを象徴するトレードマークがあるのですが、
このGARTEN(ガルテン)にはそのトレードマークはありませんでした。その部分の拡大画像 →★
特徴的だったのはフレーム表面で、波紋のような美しい模様が大変特徴的でした。

今回このピアノの調査と撮影は、武蔵野音楽大学楽器ミュージアム様からの特別な許可により実現致しました。
通常、ミュージアム内での写真撮影は一切禁止ですのでご注意下さい。手を触れることも禁止となっております。
この度は「GARTEN」ピアノの調査と撮影にご協力頂きました武蔵野音楽大学様へ心より感謝申し上げます。
ご協力をいただき誠にありがとうございました!訪問日:令和4年5月10日
GAVEAU



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ガヴォ― フランス(パリ) 創業1847年  プレイエル社が製造

ジョセフ・ガブリエル・ガヴォー(Joseph Gabriel GAVEAU)は、
1824年ロモランタン(Romorantin)生まれ。

ガヴォーはいくつかの工房で修業と経験を積んだ後、1847年にパリに自身の工房を作る。
当初からガボーは丈夫で良いアップライトピアノを作ることに拘り、エラールの設計を真似て
アップライトピアノアクションで、特にジャックの角度についての改良に取り組みました。
そして、「ガヴォ―アクション」と呼ばれる独自の特色を持つアクションを作り上げました。
ガヴォーは高い品質のチェンバロと、特に小型のアップライトピアノで素晴らしい名声を獲得しました。
彼のピアノに対する評判は高まり、セルヴァン通りに工場を構えます。

1890年頃には200人の職人を雇い年間1500台を生産するほどまでに大きくなりました。
1893年、70歳になった彼は会社を息子のガブリエル・ウジェーヌとエチエンに譲り、
会社名は"Société GAVEAU"となりました。
1896年からはパリ近郊のフォントネー・スー・ボワ(Fontenay sous bois)にモダンな新工場を建て、
約300人の職人を雇い生産量は年間2000台にのぼりました。
この工場では多くのパリの有能な職人たちが育てられました。
エティエンヌ・ガヴォー(Etienne Gaveau)は経営を担当し、パリ中心部に本社を構え、
1908には自社のピアノを宣伝するためにコンサートホール「サル・ガヴォ―」を建設しました。
1911年、兄弟は仲違いし、ガブリエルは独自の会社を興し、グランドピアノ製作で新しいアイデアを取り入れ、
木材にこだわって作られたおしゃれな外装の小さなグランドピアノを製作することで独自のスタイルを構築。
1930年頃、子会社のM.A.G. (Marcel と André Gaveau)が設立され、丈夫で小さくてしかも安価な
アップライトピアノの製造を担当。
1939年に戦争が始まった時、ガヴォ―社は95,000台目のピアノを製造したところでした。
エチエンは1943年に死去し、息子のマルセルとアンドレは困難の中でも経営を続けました。
1960年、エラール社と合併し、"Société Gaveau-Erard"と名付けられました。
その後プレイエルも加わり、"LES GRANDES MARQUES REUNIES"(大メーカーの集合)となりましたが、
1965年に倒産、工場は閉鎖。
しかし、不安定な財政状況は続き、この複合企業はドイツのシンメル・カンパニーに買収された。
シンメルとの契約が1994年に切れると、この人気のあるフランスのメーカーは再びフランスへ戻った。
1996年以降、ガヴォーのピアノは、フランス南部のプレイエル社の工場で生産されている。
※Rameau(ラモー)もプレイエル社が製造

<附録>
ガヴォー・ピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1855年~1988年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ガヴォー(Gaveau)はかつて存在したフランスのピアノ製造会社である。
1847年にパリでジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーによって創業され、エラールとプレイエルに次ぐ
フランスで第三のピアノメーカーであった。大工場はフォントネー・スー・ボワにあった。
一部のガヴォー製ピアノは芸術的なキャビネットを持っていた。
多くのピアノは空圧システムを備えている(Odeola、Ampico、ミニョン)
1960年、ガヴォーはエラールと合併した。
1971年から1994年まで、ガヴォーピアノはピアノ製造会社のヴィルヘルム・シンメルによって作られた。
ガヴォーブランドは現在フランス・ピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)によって所有されている
(プレイエルおよびエラールブランドもこの企業によって所有されている)
今日、フランス・ピアノ製造会社はガヴォーブランド名で幾つかのモデルを製造している。
ジョゼフ・ガブリエル・ガヴォーには6人の子供がおり、エティエンヌ・ガヴォーが継いだ。
ガブリエル・ガヴォーは1911年に設立された。
ガブリエル・ガヴォーはペダルまたはデュオ・アート(自動演奏)システムを持つ幾つかのピアノを作り、
1919, 55-57 Av. Malakoff, 75016(現トロカデロ)に近いAv. Raymond Poincaré)にあった。
この工場は1939年にドイツによって徴発された。
また1911年には、オーギュスタン・ガヴォーが独自のアップライトピアノを作る自身のピアノ会社を設立]
自伝『My Young Years』において、アルトゥール・ルービンシュタイン はコンサートで
ガヴォー製ピアノを演奏する契約をいかに結んだかについて詳しく述べている。
ルービンシュタインはガヴォー製ピアノの「堅く応答がないアクション」と「音色の冷たさ」について書いている。
またカミーユ・サン=サーンスやアルフレッド・コルトーのような音楽家も
自身のガヴォーピアノの演奏を楽しんだ。
GAVEAU
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ガヴォー 竜生楽器研究所
※フランスのGAVEAUとは関係ない
GEBR. PERZINA


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GEBR.PERZINA ペレツィーナ(ペルツィーナ) ドイツ製

ペレツィーナ(ペルツィーナ)Perzina/Gebr. Perzinaは、北ドイツ生まれのピアノブランドで、
現在はオランダと中国の資本による中国煙台の民営企業・煙台ペレツィーナで製造。

1871年、ヴィルヘルム1世によりドイツ帝国が生まれたその年に、
北部のシュヴェリンという都市でGebr.Perzinaも生まれました。
現在も宮廷の残るメクレンブルク=シュヴェリーン公、オランダのウィルヘルミナ女王に
こよなく愛されたGebr.Perzinaは6王家の宮廷ピアノとしてドイツで最も権威ある
ピアノのひとつとなりました。
また、1905年にはペルツィーナコンサートホールも開設され、
ドイツ帝国内で最も愛されるピアノとなりました。
しかしながら、第一次世界大戦で移転を余儀なくされ、さらに第二次世界大戦後は
東ドイツに組み込まれたGebr.Perzinaは手造りでピアノを作り続けたものの、
大戦後のピアノの歴史では表舞台にはあまり出てこなくなりました。

2002年公開の映画 「戦場のピアニスト」(※)で使われたピアノとしても有名です。→★
※ 第二次世界大戦におけるワルシャワを舞台としたフランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画。
GEBRÜDER STINGL
GEBRUDER STINGL
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Gebrüder Stingl ドイツ(ウィーン) 詳細不明

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>

ゲブルーダー・シュティングル
(独: Gebrüder Stingl、ゲブリューダー・シュティングル、シュティングル兄弟)は、
ピアノを製造するウィーンの同族経営事業であった。
住所はウィーンの3区ラントシュトラーセ、Ungargasse 27であった。
創業者アントン・シュティングル(Anton Stingl、1808年9月11日ラーズニェ・キンジュヴァルト生、
1895年ピッテン没)は1840年におじの家具職人イグナーツ・シュティングルと共にウィーンへ移住した。
アントンは1853年からピアノ木工職人として働き、1860年に独立した。
作業場は4区のStarhemberggasse 28に位置していた。当初は、工芸ピアノ製造業者に供給した。
会社は1887年に拡張・再編された。3人の息子ヴィルヘルム(1860年-1908年)、
イグナーツ(1861年-1915年)、グスタフ(1868年9月7日–1906年11月27日)が会社に加わった。
ヴィルヘルムは商工会議所会員、イグナーツは名誉称号Kaiserlicher Rat(帝国顧問)を授与され、
グスタフは1900年から1904年までキリスト教社会同盟評議員であった。
父の死後、彼らはオーナーとなり、会社は「ゲブルーダー・シュティングル」(シュティングル兄弟)と呼ばれた。
会社は急成長し、10区のLaxenburger Strasse 32に新たな工場が建設された。
1895/1896年、古い伝統企業Johann Baptist Streicherがゲブルーダー・シュティングルに売却された。
シュティングルの生産はNeuer Streicherhofに移転した。
ゲブルーダー・シュティングルはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達ピアノフォルテ製造業者に
指名され、1900年4月14日から宮廷ピアノ製造業者となった。ペルシアやセルビア、ブルガリア王室の御用達の
称号もゲブルーダー・シュティングルに贈られた。
会社はウィーン式とイングランド式のレペティション機構(ダブルエスケープメント)を備えたグランドピアノを
製造したが、高品質のコンサートピアノも開発した。
特色はハーフペダルと世界最小のピアノ「Piccolo-Mignon」であった。
第一次世界大戦まで、シュティングルオーストリア=ハンガリー帝国で最大のピアノフォルテ工房へと発展し、
約400人の従業員を雇用した。ブダペストにも支店を開いた。
帝国の崩壊によって会社は大きな打撃を受け、1918年に「シュティングル・オリジナル」(Stingl-Original)
として再編され、次に有限会社、1922年に株式会社となった。住所はTroststraße 10であった。
1935年、シュティングルはLauberger & Glossによって買収され、 Lauberger & Glossは
「Stingl-Original」のブランド名で楽器の製造を続けた。
Lauberger & Glossは1960年代初頭にウィーンのその他のピアノ工房と同様に製造をやめた。
もう一つの「シュティングル」がグスタフ・シュティングルの息子グスタフ・イグナーツ(1900年-1960年)の
会社であった。1921年、彼は4区Favoritenstraße 17に会社を設立した。
1923年、Robert Rellaが会社に加わった。この会社「グスタフ・イグナーツ・シュティングル」は
1920年代以降輸出に重きを置いた。
グスタフ・イグナーツ・シュティングルは1932年からピアノおよびオルガン製造業者のギルドの会員であり、
後にはその役員であった。会社の本店は後に4区のWiedner Hauptstraße 18に移転し、
作業場は12区のWolfganggasse 38に位置した。1948年、ファミリーの合名会社が設立された。
これは後にシュティングル家の最後の人物の甥のグスタフ・イグナーツ・スィーヒ(Gustav Ignaz Sych)の
単独所有となった。第二次世界大戦後、ウィーン国立音楽大学やウィーン音楽院、ザルツブルク音楽祭への
納入が始まった。
カール・ミヒャエル・ツィーラーやフランツ・レハール、ロベルト・シュトルツ、ウド・ユルゲンス、
オペラ歌手らなど数多くの音楽家がシュティングルの製品を購入した。
シュティングルは日本のピアノ製造業者KAWAIの欧州代表部でもある。
HP:https://stingl-klavier.at/
GEISSLER
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GEISSLER, F.
ガイスラー フランス 詳細不明
GEISTREICH
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GEISTREICH ガイストライヒ

大倉楽器工業(株) 東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。

トレードマーク内の文字には”CERTIFIED MERCHANDISE”と入っています。
CERTIFIED=保証された、公認の
MERCHANDISE=商品、製品
GELTHNER


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GELTHNER ゲルツナー/(ゲルッツナー) ※発音はゲルトナーではない

発売元:音調社楽器店、製造:広田ピアノ株式会社
広田ピアノで作っていたピアノ。 
GEMEN ゲーメン ※下記のゲーメンスタインと同じピアノ?
GEMENSTEIN
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ゲーメンスタイン 日本 詳細不明
GEORG HOFFMANN
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ドイツ(ベルリン) 詳細不明
GEORGE P. BENT
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George P. Bent ジョージ・P・ベント
アメリカ(シカゴ)

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
ピアノの鉄骨部には「GEO. P. BENT CHICAGO, U.S.A.」と書いてあり、ピアノ背面の木部には
「WARRANTED TEN YEARS CEO. P. BENT CHICAGO. U.S.A.」と刻印があります(10年保証)

→WINTERの項目も参照
GEORG SCHWECHTEN
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GEORG SCHWECHTEN ゲオルク・シュヴェヒテン(シュベヒテン)
1853年創業 ドイツ(ベルリン)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
ゲオルク・シュヴェヒテン(Georg Schwechten、1827年2月4日シュトルツェナウ生、
1902年8月19日ベルリン没)は、19世紀後半のベルリンの卓越したピアノ製作者の一人である。
オリジナルの保存状態のよい、または修復されたシュヴェヒテンのアップライトピアノおよび
グランドピアノは今でも称賛に値すると見なされており、珍しい。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年に兄のハインリッヒ・シュヴェヒテン(1812年-1871年)によって
1841年にベルリンKoch通り11番地で開業されたスクエア・ピアノの工房を引き継ぎ、
弟のヴィルヘルム(1833年-1900年)と共に1853年にG. シュヴェヒテン社を創業した。
1861年、ゲオルクはKoch通り60番地に工場を建設し、その後隣の不動産も取得した。
G. シュヴェヒテン社のピアノはすぐに大きな名声を得た。
ゲオルクの死後、娘のAnna Maria Clara Fiebelkornが会社を引き継いだ。
彼女はSchwechtenhausを建設した。
ヴィルヘルムの息子フリードリッヒとヴィルヘルム(1880年-1954年)は1910年に
Pianofabrik Schwechten & Boesを設立した。
(1911年からGebr, Schwechten、1912年からFriedrich Schwechten、ヴィルヘルム通り118番地)
1918年、2人とも親会社に戻った。ピアノ生産は1854年に始まり、1925年まで続いた。
シュヴェヒテンピアノは1839年にゲオルク・シュヴェヒテンの兄ハインリッヒの店で始まった。
ゲオルク・シュヴェヒテンは1853年にベルリンで店を構え、優美な手作りピアノを専門とした。
この素晴らしいピアノはゲオルクが死去した1902年に終わった。
「Schwechten」のブランド名は中国の上海鋼琴有限公司(Shanghai Piano Co. Ltd.、1895年創業)
によっても使用されていたが、ドイツのSchwechtenとの関係は不明である。
GEORGE ROGERS & SONS





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ジョージ ロジャーズ アンド サンズ GEORGE ROGERS & SONS LONDON
イギリス(ロンドン) 詳細不明

ジョージ ロジャーズ アンド サンズの内部外観写真(前パネル部分) →★
ジョージ ロジャーズ アンド サンズの内部外観写真(下パネル部分) →★
ジョージ ロジャーズ アンド サンズのまくり(蓋部分)の銘柄部分の写真 →★

左記画像(上から2枚)と外観写真はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
ご寄稿者様によりますと、このピアノは1927年前後に製造されたもので、工房で一度修復済みとのことです。
小柄ながら100年経った今でも美しい音色を響かせているとのことです。
この度は貴重なお写真のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございました!
GEORGE STECK & CO.
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ジョージ・ステック エオリアン・アメリカン・コーポレーション傘下の系列会社の製品 ニューヨーク
現所有:ピアノディスク社
MASON & HAMLINの項目も参照

1857年、ジョージ・ステックによって設立されたジョージ・ステック・ピアノ・カンパニーは、
早くから優れた楽器とピアノの品質に定評がありました。
ドイツのカッセル出身のジョージ・ステックは、ニューヨークの12番街と3番街に店を構えた。
約2年後の1859年にはウォーカーストリートに移転し、1904年にステックが亡くなり、
会社が法人化されてエオリアン社に買収されるまで、この場所で営業を続けた。
エオリアン社が生産を引き継いだ後、ジョージ・ステックのピアノブランドは、
1994年にメイソン&ハムリン社の傘下に入るまで、「ステック」ピアノとして知られていた。
1990年代初頭から2000年代にかけて、このブランドの歴史は一連の買収によって特徴づけられた。
2015年までは中国のNanjing Moutrie Piano Co.が製造し、カナダのWelkin Sound Inc.が販売していたが、
現在ではジョージ・ステックのピアノは製造されていない。

ジョージ・ステックが会社を設立したとき、彼はピアノに様々な進歩をもたらすことを思い描いていました。
1890年代に入ると、ステックはアップライトピアノとグランドピアノを製品ラインに導入し、
厳密な正方形のグランドピアノから脱却した。
ステックは音の科学にこだわり、初期のピアノのデザインに多くの変更を加え、
それは現在のアップライトピアノやグランドピアノにも反映されている。
ステックが築き上げたピアノの名声は、時の試練に耐えてきた。
ジョージ・ステックのピアノは、楽器の精密さと高品質なサウンドで知られており、
世界的に有名なピアニストたちに支持され、正確に修復された場合には価値ある楽器となる。
エオリアン社とエオリアン・アメリカン社がこのブランドの生産を開始すると、
ステックのピアノは非常に人気が高まり、今でもヨーロッパでは最も可能性の高い
プレーヤー・ピアノの一つとなっている。
Steck Pianolaは、SteckピアノフレームとPianolaアクションのユニークな両立型である。
GERARD 詳細不明
GERBSTÄDT ドイツ
その他詳細不明 ※検索用:GERBSTADT
 GERHARD ADAM
G. ADAM





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G.ADAM ゲルハルト・アダム/アダム・ゲルハルト ADAM GERHARD
ドイツ(ヴェーゼル、ヴェセル/WESEL)  創業1828年

ゲルハルト・アダムのまくり部分(鍵盤蓋部分)の銘柄ブランド部分 →★
※まくり部分にあるGEGR.1828の「GEGR.」とはドイツ語で「設立」という意味です。
トレードマークは「G」と「A」の文字をモチーフにしたとても斬新なデザインで素敵ですね。
左の画像上から3番目にあるSEIT1828の「SEIT」は英語で言う「SINCE」という意味です。

左記トレードマークを含め、ゲルハルドアダムの画像はすべて「鈴木光子様」からご寄稿頂きました。
この度はたくさんの画像のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございました!
ご寄稿者様からの情報によりますと、このゲルハルト・アダムが1828年にドイツのヴェセルの生産工場で
ピアノを作り始めた当初は年間100台程度、1900年頃には500台程度生産していたようです。
GERHARD HEINTZMAN
このピアノトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ゲルハルド・ハインツマン カナダ(トロント)
創業1877年

HEINTZMAN & CO.とは別の会社なので混同しないように注意
1866年、ドイツからの移民であった叔父のセオドア・ハインツマンが「ハインツマン社」を設立し、
その後、セオドアの甥が「GERHARD HEINTZMAN」を立ち上げたました。

※HEINTZMAN & COの項目も参照
Ger. APOLLO
※下記は参考画像
ゲール・アポロ 東洋ピアノ製造株式会社

※左記トレードマークは参考画像です
実際のGer. APOLLOのトレードマークは、この”TOYO”の部分が”HAND MADE”になっています。
GEROG JACOBI
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ドイツ シュトゥットガルト(STUTTGART) 詳細不明
GERSHWIN




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ガーシュイン/ガーシュウィン GERSHWIN

大岡楽器製作所
白鳥楽器製作所
スワン楽器製造KK(スワン楽器製造株式会社)
ガーシュインピアノ株式会社
東日本ピアノ製造(株)
株式会社 バロック
フローラピアノ製造(株)
大成ピアノ製造株式会社

昭和28年に大岡郁平氏によって大岡楽器製作所が発足し、
ガーシュインのブランドでアップライトピアノが作られました。

その後、稲葉ピアノの後援で白鳥楽器となり、さらにスワン楽器KKと改称され、
昭和42年に東日本ピアノ製造株式会社に改組。

グランドピアノの裏側には国産初のテンション・レギュレーター装置を採用。
アップライトではペダルの重さを調整できる装置も採用。昭和を感じるピアノですね♪
機種:No500、GA-50等

上から2枚目のエンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<参考資料>
東日本ピアノ製造株式会社を含む会社遍歴は下記の通り
昭和28年 大岡楽器製作所が発足
昭和31年 白鳥楽器製作所
昭和33年 スワン楽器製造株式会社
昭和38年 ガーシュインピアノ株式会社
昭和42年 東日本ピアノ製造株式会社
昭和62年 株式会社バロック

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GERSTENBERGER 詳細不明
GERTCHEN
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ゲルトヘン 松本楽器製造株式会社

※似た名称でGARTCHEN(ガルトヘン)というピアノ(シュベスターピアノ製作所)と解説した資料がありますが、
これは「GARTEN」と間違えている可能性があります。詳しくは→「GARTEN」の項目へ
 GERTOHD
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ゲルトード 蒲田楽器製作所
G.E. RUSSELL & SON 詳細不明
GEVAERT 詳細不明
GEYER
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ガイヤー ドイツ(旧東ドイツ) 詳細不明
GILBERT HOFFMAN 詳細不明
GILES PIANOS LTD. 詳細不明
GILLOT-STRAUBE 詳細不明
GIYAN(注意)
※存在しません
★ご注意★
このピアノブランドは存在しません

令和4年4月6日放送のNHK朝の連続テレビドラマ「カムカムエブリバディ」の放送内で、錠一郎が弾いていた
ピアノ「GIYAN(ギヤン?)」という名称のピアノが出ていたようですが、このピアノは実際には存在しません。
貼られていた「GIYAN」というシールの下はおそらく「YAMAHA」という文字だったと推測されます。
理由は皆様ご存知の通り、NHKは放送法により民間企業の営業広告が禁じられているためです。
※元ネタがGYANというモビルスーツ(機動戦士ガンダム)的な話もありますが、当方まったく分かりません。

GIYANピアノに関するお問い合わせがあったので、敢えてここに載せております。
GLASER
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ドイツ 読み方不明、詳細不明
GLASS & CO. 詳細不明
GLENZ (JOSEF) BRESLAU 詳細不明
GLORIA
※下記は参考画像です

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グロリア 発売元:クニユキピアノ株式会社 製造元:不明

※トレードマークは参考画像です
このトレードマークはKREUTZER(クロイツェル)のものですが、
この文字部分が”GLORIA”になっている以外はほぼ同じです。
何故同じかは不明。
GLORIOUS


トレードマークなし
グロリアス/(グローリアス)

第一楽器工芸株式会社(浜松)
新東海楽器製造株式会社(浜松)
アトラスピアノ製造株式会社

新東海楽器(浜松)だが、第一楽器(浜松)で作ったこともある。
GLOS & PFLUG, WIEN 詳細不明
GODFREY 詳細不明
GOETZE & CO. 詳細不明
GOETZE-GROSS 詳細不明
GOLD STAR

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GOLDSTAR/GOLD STAR ゴールドスター 東海楽器製造(株)
ピアノを製造していた頃の東海楽器株式会社についての詳しい解説は「TOKAI」の項目へ
機種:120-G等

<東海楽器が製造したブランドを列挙いたします>
■ TOKAI(トーカイ)
■ BOLERO(ボレロ)
■ SILBER STEIN(シルバースタイン)
■ HUTTNER(ヒュッツナー)
■ GOLD STAR(ゴールドスター)

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GOODWAY
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グッドウェイ 詳細不明
GORDON & BAILEY 詳細不明
GORDON LAUGHED


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GORDON LAUGHEAD ゴードン・ローヘッド製造(ミシガン州グランドヘブン)

三代続いた個人企業のピアノメーカーです。
ミシガン州のグランドヘブンにあり、アップライトピアノと学校用の楽器を主として製作。
このメーカーのブランドには、社名と同じゴードン・ローヘッドの他に、
カーツマン/(クールツマン)KURTZMANNと呼ばれるブランドがあります。
ピアノ業界では一般的にそのピアノの創始者の名称が用いられることが多い中、
このピアノメーカーは例外で、社内のマネージャーの名前が使われています。

GORS & KALLMANN
GÖRS & KALLMANN

GORS & KALLMANN ピアノ

GORS & KALLMANN

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ゲルスカルマン/ゲルス・カルマン/ゲルス・アンド・カルマン/(グロスカールマン)
GÖRS & KALLMANN (GORS KALLMANN)

製造:大成ピアノ製造株式会社
販売:昭和楽器OEM

機種バリエーション GK2000、GK3000など

ドイツ(旧西ドイツ)製にも同じ名前(R.GÖRS & KALLMANN)がありますがまったく違います。
音色・作りは同じ大成ピアノで作っていたローレックスKR27等に近い感じです。その他詳細不明。 
ピアノ天板をあけると裏に貼ってある昭和楽器の品質保証シール
(作ったピアノすべてに貼ってるとは思いますがね) →★

<参考1>
H. GÖRS & KALMANというアトラスピアノ製造が作っていたピアノもあり(→スペル内のLとNが1個)

<参考2>
トレードマークのデザインは、大成ピアノ製造(同社製)である「ORGAST HOLSTER」
オーガスト・ホルスターという別ブランドとほぼ同じデザインです。

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 GORS & KALLMANN
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ゲルス ウント カールマン
R. GORS & KALLMANN (GORS KALLMANN)
ドイツ(旧西ドイツ)ベルリン 詳細不明

※大成ピアノ製造の”GÖRS & KALLMANN”とは違うピアノです
GÖRS & SPANGENBERG 詳細不明
GOTHA 詳細不明
GOTZMANN 詳細不明
GOURLAY 詳細不明
GRAF, CONRAD 詳細不明
GRAF, HERMANN 詳細不明
GRAND 詳細不明
GRANDE 詳細不明
GRANFEEL
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グランフィール 有限会社 藤井ピアノサービス

GRATIAE

GRATIAE ピアノ

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パコピアノ/グラチアピアノ

PACO/GRATIAE 製造:北朝鮮 (有)PACO
この会社は日本製ピアノの会社ではなく日本人技術者が日本製の工作機械を使い
北朝鮮でピアノを製造していたようです。最終調整は日本国内で行い出荷。

日本法人のこの会社と北朝鮮政府との合弁会社にて
日本人技術者他の技術指導・輸入販売を行っていたようです。

ブランドはGRATIAE(グラチア)という低価格のアップライトのみ。
当時本社は東京都府中市にあって販売は国内のみでなく、
アジア・ヨ-ロッパにも輸出していたという情報あり。

1台しか調律したことがないので詳細は不明ですが、
ピアノ自体は ”北朝鮮”というイメージほど悪くはなかったです。
その他詳細不明。
機種バリーエション:PU120等

グラチアピアノのまくり(フタ部分)にあるブランド銘柄マーク →★

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GRAU, F. 詳細不明
GREIFEN




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GREIFEN (J.S.GREIFEN) グライフェン/グライフン

詳細不明  GREIFENとはドイツ語で「~をつかむ」、「~をつかまえる」という意味
GREIFENピアノのまくり(蓋)部分の銘柄マーク →★  GREIFENピアノ外観写真 →★

※これらの画像はすべて nosuke様からご提供頂きました
GREIG
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グリーグ (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。
 GRIMM 詳細不明
GRINNELL BROS.

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DETROIT MICH-WINDSOR ONT(Ontario)
詳細不明
画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
GROLIA
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グロリア (株)クニユキピアノ商会 神田須田町のピアノ店の国行重槌氏。
GROSS STEIN



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GROSS STEIN グロス・スタイン (グロススタイン)

発売元:青池楽器店(青池ピアノ店)
当時の青池ピアノ店の住所:千代田区神田一ツ橋2-3(住所遍歴その後→千代田区神田神保町救世軍横)
製造元:シュベスターピアノ製造株式会社(協信社ピアノ製作所と渡辺塗装が共同で製作開始)

グロススタインピアノは一度解散していた協信社ピアノ製作所の松崎妙氏(読み:まつざき かのお)氏と
渡辺塗装社が昭和8年に共同でピアノ製造を始めた。発売元は青池楽器店だった。

昭和11年、銀座伊東屋7階の全国ピアノ技術者協会主催の「躍進 国産ピアノ展覧会」に出品された。
この「躍進 国産ピアノ展覧会」は通称「第一回ピアノ展示会」とも言われますが、この展示会には国内の
13社、計22台のピアノが出品され、グロススタイン(20型)が青池楽器店から出品されました。

松崎氏は終戦の年である昭和20年、協信社ピアノ製作所から株式会社 協信社ピアノ製作所に改組設立。
その際、販売部門としてシュベスターピアノ販売株式会社を設立し、青池楽器店との取引を終了した。
青池楽器店との取引は約10年ほどだったとの記録が残っております。
当時のシュベスターピアノ販売株式会社の住所:港区新橋4-24

トレードマーク画像にはいろいろ文字が入っておりまして、入っている文字を紹介致しますと、
「Gross stein Piano」 「AOIKE PIANO TEN」 「KANDA TOKYO」と入っています。
トレードマークは珍しく金属製の後付けのようで、マイナスボルト2本で鉄骨に取り付けてあります。
左記画像ですと文字が小さくて見づらいので拡大画像も一応載せておきます →★
グロススタインの鍵盤蓋部分にある銘柄ブランド名部分の写真 →★  ピアノ全体写真 →★ →★
とても重厚な雰囲気のピアノですね。ご寄稿者様によりますと戦前に作られたピアノとのことです。
これらの画像はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。この度は写真のご提供ありがとうございました!
GROTRIAN



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GROTRIAN (GROTRIAN-STEINWEG)
グロトリアン (グロトリアン・スタインウィッヒ/グロトリアン・シュタインヴェーク)

ドイツ(旧西ドイツ) ボルフェンヴュッテル 創業1835年。
ヨーロッパの王室でも使われ、あのクララ・シューマンが、「今日からはこのピアノしか弾かない」と
言ったことでも知られており、愛用していたと伝えられている。

今も変わらずドイツ最高のピアノブランドのひとつであるグロトリアン・シュタインヴェーク社は、
ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンと、スタインウェイ王朝の創始者ハインリヒ・
シュタインヴェークとの協力から始まった。ふたりはグロトリアンのデザインをもとに、1835年に
最初のピアノを共同で製作したと伝えられている。
グロトリアン・シュタインヴェーク社の現従業員の約半数がピアノ製造技師であり、
その特別な見習いプログラムによって、この会社の高い技術水準は将来へと受け継がれている。
独創的な『デュオ・コンサートグランド』は、二台のピアノを1枚の大屋根で結合したピアノで、
二台のグランドは取り外し可能なリム(側板)と、間の隙間を埋めるブリッジ状の響板で接続される。
二台のグランドは簡单に切り離すことができ、一台一台個別の屋根にして独奏楽器としても演奏できる。
アップライトピアノの背面構造の設計はアスタリスク形状になっており、弦張力に対抗する力がすべて
中心の一点に集まることにより、調律の安定性を高めている。
そしてその歌うような音色から、「シンギングトーン」と称されてている。

<歴史>
ビジネスに関心を持ったグロトリアンはモスクワに小売店を開いて成功した。
10年後に母国ドイツへ帰ったグロトリアンは、ハインリヒ・シュタインヴェークの息子、
カール・フリードリヒ・テオドール・シュタインヴェークとピアノ製作の共同契約を結ぶ。
ふたりはブラウンシュヴァイクへ生産拠点を置き、高品質のピアノを製作する優れた会社を設立した。
一方、ハインリヒ・シュタインヴェークはそのころアメリカへ移住して名前をスタインウェイに改め、
自身の会社を設立していた。1865年にふたりの弟が病死すると、テオドール・シュタインヴェークは
自社の株を売って、アメリカへ渡り、繁盛していたスタインウェイ社の経営に就いた。
フリードリヒ・グロトリアンはその2年後に亡くなり、会社は息子のヴィルヘルムに委ねられた。
ヴィルヘルムは株主A.ヘルフェリヒ、H.シュルツとともに、シュタインヴェークを含む
さまざまなブランド名でピアノを生産した。
会社は着実に成長していき、1920年には、1,000人の従業員が年間1,600台の楽器を生産するまでになった。
1917年にヴィルヘルム・グロ卜リアンが亡くなると、息子のヴィリとクルトが会社の経営を引き継いだ。
兄弟は、「良いピアノを作ってさえいれば、後のことは何とかなる」 という父の教えを肝に銘じ、
良質の職人技を守り抜いた。1919年に社名が正式にグロトリアン・シュタインヴェークとなり、
その社名をめぐってスタインウェイ社と法的に争ったりはしたが、1927年には生産高が3,000台にまで増大した。
それから1931年に大恐慌による打撃を受け、年間700台まで生産高は落ち込んだ。
戦時中はやむなく閉業し、戦後グロトリアン・シュタインヴェーク社がピアノの生産を再開できたのは
1948年になってからだった。
爆撃された工場を再建し、伝統のピアノ製法を復活させるにはそれなりの時間を必要とした。
1954年には良質のピアノメーカーとしての地位が回復し、会社は若いピアニストを支援するために、
グロトリアン・シュタインヴェーク・コンクールを設立した。
そして1974年、グロトリアン・シュターンヴェーク通りに最先端の設備を誇る新工場が完成した。
グロトリアン社の6代目クヌートは息子ヨプストの協力のもと、現在この場所で会社を指揮している。

※スタインウェイ・アンド・サンズとの「Steinweg」に対する商標権問題で、ドイツ以外への輸出に於いては、
GROTLIANのブランド名を使用している。
グロトリアンはスタインウェイの血縁とも言えるが、楽器の構造はかなり異なる。
グロトリアンピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★

<附録>
グロトリアン・シュタインヴェークピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1865年~2001年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
グロトリアン=シュタインヴェーク(Grotrian-Steinweg)は、ドイツの高級ピアノ製造会社である。
欧州外ではグロトリアンと呼ばれる。ドイツ・ブラウンシュヴァイクに本社がある。
グロトリアン=シュタインヴェークは高級グランドピアノとアップライトピアノを製造している。
同社の起源は1835年にゼーゼンのハインリッヒ・シュタインヴェーク(後のヘンリー・スタインウェイ)
が設立したピアノ工房にある。したがって、世界で最も古いピアノ製造会社の一つであり、
2015年に香港の柏斯琴行(Parsons Music Group)によって買収されるまでは
グロトリアン=シュタインヴェーク家が所有していた。
グロトリアン=シュタインヴェークの歴史は、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク
(米国への移住後にヘンリー・スタインウェイと改名し、スタインウェイ・アンド・サンズを創業した)
によって最初のシュタインヴェークのピアノ工場が建設された1835年に遡る。
1856年、フリードリヒ・グロトリアンがパートナーとなった。
1865年、フリードリヒの息子ヴィルヘルム・グロトリアンと2人の共同出資者が工場と
シュタインヴェークブランドの後継としてピアノを販売する権利を買い取った。
グロトリアン家のその後の世代が会社をドイツで最高級のピアノ製造会社にした。
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノは一部の高名なピアニストによって好まれ、
シカゴ・コロンブス万国博覧会(1893年)にて称賛を得た。
グロトリアン=シュタインヴェークはオーケストラとコンサートホールを運営し、ドイツの6都市、
そして1920年までにロンドンに販売店を設立した。
1920年代末の最盛期には、グロトリアン=シュタインヴェークは1000人の従業員を雇用し、
年間3千台のピアノを製造した。
1930年代の不景気と1940年代の戦争によって、グロトリアン=シュタインヴェークはひどく衰退し、
その後工場を完全に失った。グロトリアン家は工場を再建し、高品質な仕事でその評判を取り戻した。
1950年代には、有望な若いピアニストを見つけるために年1回のピアノ演奏コンクールを創設した。
グロトリアン=シュタインヴェークは1960年代中頃に米国で事業を拡大しようとした。
スタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)はシュタインヴェーク(Steinweg)の
名称の使用を差し止める訴えを起こし、その結果合衆国第2巡回区控訴裁判所にて1975年に判決が下された。
この訴訟は、グロトリアン=シュタインヴェークというブランドはピアノ購買者がそのブランド名と
スタインウェイ・アンド・サンズのブランドを一時的に混同する原因となる、という「購買前の混同」を
説明する先例となった。裁判所はグロトリアン=シュタインヴェークに米国での「シュタインヴェーク」という
名称でのピアノの販売を差し止める命令を下した。
その後、グロトリアン=シュタインヴェーク社は北米でピアノを販売するために
グロトリアン・ピアノ・カンパニーと命名した企業を設立した。

■19世紀
1803年1月13日、ゲオルク・フリードリヒ・カール・グロトリアンはドイツ・シェーニンゲンで生まれた。
フリードリヒは1830年頃に始めたピアノの販売のためにモスクワに居を定めた。
その後、サンクトペテルブルクに拠点を置いた小さなピアノ製造会社との共同経営会社に参加し、
これらのピアノをモスクワで成功した楽器店で販売していた様々な楽器に加えた。
ドイツでは、ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(1797年-1871年)が1835年に
ハルツ山地の端のゼーセンにある自宅からピアノの製造を始めた。
ハルツ山地はピアノに使われる上質なブナノキとトウヒの産地であった。
最初の年に生産したピアノの中に、フリードリヒ・グロトリアンによって設計され、
シュタインヴェークが作ったスクエア・ピアノがあった(この楽器は現在ブラウンシュヴァイク博物館にある)
シュタインヴェークは1839年のステート・フェアに3台のピアノを出品した。
その内2台はスクエア・ピアノだったが、グランドピアノが広い注目を集めた。
1850年、シュタインヴェークは大家族のほぼ全員と共にニューヨークへ移住した。
ピアノ工場は長男のC・F・テオドール・シュタインヴェーク(1825年-1889年)に残され、
テオドールは自身の名前で経営を続けた。
その頃、ニューヨークでは、シュタインヴェーク家は米国風に姓をスタインウェイと改め、
1853年にピアノ製造会社スタインウェイ・アンド・サンズを創業した。
父の古い工場の経営権を引き継いでから間も無く、C・F・テオドール・シュタインヴェークは
ブラウンシュヴァイク近くのヴォルフェンビュッテルに移った。
ここで、テオドールは商売のために旅行していたフリードリヒ・グロトリアンと出会った。
1854年、フリードリヒ・グロトリアンは叔父からの遺産としてMüller-Mühlenbein pharmacyを受け取り、
その経営のためにドイツへ戻った。
グロトリアンは1856年にC・F・テオドール・シュタインヴェークのピアノ会社に共同経営者として加わった。
1857年、C・F・テオドール・シュタインヴェークとグロトリアンはピアノ工場をブラウンシュヴァイクへ移し、
街の中世部のBohlwe通り48にある元市長の屋敷に店を構えた。
会社は当時約25人の従業員を雇った。フリードリヒ・グロトリアンは1860年12月11日に死去し、
会社の株式は息子のヴィルヘルム(1843年)に残された。
1865年、C・F・テオドール・シュタインヴェークは兄弟のヘンリーとチャールズの死後に
スタインウェイ・アンド・サンズの経営を助けるためにニューヨークの家族に必要とされた。
ヴィルヘルム・グロトリアンはC・F・テオドールの工場の株式を買い取るために2人のピアノ職人
Adolph HelfferichとH.D.W. Schulzと手を組んだ。
新たな共同経営会社は「テオドール・シュタインヴェークの後継者」を意味する商標
「C.F. Th. Steinweg Nachf.」を使用するための権利の代金を支払った。
(Nachf. はドイツ語で後継者を意味する "Nachfolger" の省略形)
会社名は「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf.」となった。
ヴィルヘルム・グロトリアンは1870年代に2人の息子ヴィルヘルム・"ヴィリ"・グロトリアンJr
(1868年-1931年)とクルト・グロトリアン(1870年-1929年)を育てた。
ニューヨークでは、C・F・テオドール・シュタインヴェークはC・F・セオドア・スタインウェイに改名し、
スタインウェイ・アンド・サンズに15年間トップおよびチーフ・テクニシャンとして働いた。
セオドアは米国での生活を好きではなく、ブラウンシュヴァイクの自宅を持ち続けており、
随時行ったり来たりしていた。1880年、セオドアは海を超えた渡航を止め、父親の古い会社
(現在のグロトリアン=シュタインヴェーク)と対抗して、欧州の顧客のためにピアノ製造する
新しいスタインウェイ・アンド・サンズのピアノ工場をハンブルクで始めた。
事業を立ち上げ後、セオドアは引退して晩年をブラウンシュヴァイクで過ごした。
セオドアは1889年に死去し、彼のピアノコレクションは市の博物館へ寄贈された。
ハンブルク工場はグロトリアン=シュタインヴェークと競い合って成功を収めた。
どちらの会社も高級ピアノを生産することで知られていた。
1880年代、ヴィリ・グロトリアンは米国メリーランド州ボルチモアのWm. クナーベ& Co.と
フランス・パリのプレイエル, ヴォルフ et Cieでピアノ製造を学んだ。
クルト・グロトリアンもまたその他の国々のピアノ製造会社で学んだ。
彼らの父ヴィルヘルム・グロトリアンSr. は1893年にヴィリをシカゴへ連れていった。
シカゴで開催されたコロンブス万国博覧会でグロトリアン=シュタインヴェーク社のピアノは
メダルを授与された。ピアニストのオイゲン・ダルベール、イグナツィ・パデレフスキ、
クララ・シューマンはグロトリアン=シュタインヴェークのピアノを好むと表明した。
グロトリアン=シュタインヴェークはベヒシュタイン、ブリュートナー、フォイリッヒ、
イバッハ、リップ、スタインウェイのハンブルク工場と共にドイツのトップピアノ製造会社に数えられた。
1895年、ヴィルヘルム・グロトリアンSr は2人の息子を共同経営者とした。
父は息子達に「いいピアノを作りなさい、残りはすべて後からついてくる」という社訓を残した。
ヴィリ・グロトリアンは、グロトリアン=シュタインヴェークがピアノ生産に使うシステムと
スタンダードの改善を系統的に始めた。
グロトリアン=シュタインヴェーク・ブランドは最高品質のものとしてよく知られた。
会社は30の帝室・王室の御用達の称号を得た。
所有者のヴィルヘルム・グロトリアン、ヴィリ・グロトリアン、クルト・グロトリアンは
オーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達を授与された。

■20世紀
ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)において、グロトリアン=シュタインヴェークは1913年までに
500人の従業員を抱えるまで成長し、毎年約1600台のピアノを生産した。
グロトリアン=シュタインヴェークオーケストラは若い指揮者ヘルマン・シェルヘンの指揮の下
ライプツィヒで活動した。グロトリアン専門店がライプツィヒ、ハノーファー、ケーニヒスベルク、
デュッセルドルフ、ベルリンで営業していた。
第一次世界大戦中、クルト・グロトリアンはドイツ陸軍の軍務に服するため工場を離れた。
クルトは程なくして負傷し、捕虜となった。ヴィルヘルム・グロトリアンは1917年に死去した。
息子のヴィリ・グロトリアンが会社を率いたが、労働力とピアノの注文は大幅に減少した。
戦後、会社は以前のように回復し、グロトリアン=シュタインヴェークのブランド名の下で
ロンドン店を立ち上げることによって1920年に売り上げを延ばした。従業員は1000人に増えた。
1924年、グロトリアン=シュタインヴェークは微分音音楽作曲家イワン・ヴィシネグラツキーのために
特殊なピアノを製造した。このピアノは3段の手鍵盤と四分音離れて調律された弦を持っていた。
1927年まで、グロトリアン=シュタインヴェークは毎年約3000台のピアノを作っていた。
この数字は世界恐慌の間の1930年代に著しく落ち込んだ。1931年には500台未満のピアノしか作られず、
従業員は200人未満に減った。
クルト・グロトリアンは1920年代末に重病を患らい、1928年に2人の息子エルヴィン(1899年-1990年)と
ヘルムート(1900年-1977年)を株主にした。
1929年、クルト・グロトリアンは古い戦傷の合併症により死去した。
ヴィリ・グロトリアンは1931年に死去した。
第二次世界大戦中、グロトリアン=シュタインヴェークの工場は(ドイツの多くの他社と同様に)
航空機の組立部品に転向するよう命令された。工場は1944年のブラウンシュヴァイク爆撃によって破壊された。
街の中心部にあった創業者の屋敷も同様に破壊された。
その後、エルヴィンとヘルムートは工場を再建した。1948年までに生産は再開した。
作曲家でピアニストのヴィルヘルム・ケンプは戦後に製作されたピアノの「響きと精緻な出来栄え」の
称賛者として録音を続けた。

■商標争い
商標に関する2つのピアノ製造会社間の最初の摩擦は1895年に起こった。
1895年、スタインウェイ・アンド・サンズはグロトリアン=シュタインヴェークがピアノに関して
「シュタインヴェーク」という名称の使用を止めるよう提訴した。スタインウェイは裁判に破れたが、
1919年1月、ヴィリとクルト・グロトリアンはさらなる訴訟を防ぐことを期待して、家業の商標を守るために
姓をグロトリアン=シュタインヴェークに変更する決断をした。
1925年、会社はグロトリアン=シュタインヴェークカンパニーと呼ばれるデラウェア州法人として
米国での販売事業を立ち上げた。
続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークが米国で販売したピアノはわずか15台であった。
1928年にピアノの販売を発見すると、スタインウェイ・アンド・サンズは販売代理店と
グロトリアン=シュタインヴェークに抗議したが、1929年にグロトリアン=シュタインヴェークは47台の
ピアノを米国へ送った。スタインウェイ家の代表者はグロトリアン=シュタインヴェーク家と
この問題について直接話し合うためにドイツへ赴いた。
秘密協定が合意に達すると、両家の代表者は「友好の葉巻」を吸い、グロトリアン=シュタインヴェークは
それ以降米国での「シュタインヴェーク」および「グロトリアン=シュタインヴェーク」の名称の使用を止めた。
1930年、デラウェア州法人は 解散し、続く3年間でグロトリアン=シュタインヴェークから米国への輸出は減少、
その後完全に中止した。
1950年、グロトリアン=シュタインヴェークは(使われることのなかった)1926年の古い商標出願を放棄した。
1961年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェーク(1935年生)が会社に加わった。
1966年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は米国でのピアノ販売のためにウーリッツァーと契約を結び、
スタインウェイ社はニューヨーク州で訴訟を起こした。裁判は9年続いた。
1975年、合衆国第2巡回区控訴裁判所は、
「Grotrian, Helfferich, Schulz, Th. Steinweg Nachf. 対Steinway & Sons」の陳述を聴取した。
原告のグロトリアン=シュタインヴェークは彼らのブランド名は長く確立したものであり、
ドイツにおいてスタインウェイのブランド名より前から存在する、と主張した。
被告側のスタインウェイ・アンド・サンズは、米国においてよく知られ強く確かである彼らのブランド名が
消費者の混同によって弱められた、と反訴した。
控訴審は、ピアノ購買者は2つのピアノブランドがあることで「購買前の興味」において誤って導かれることになり、
「潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」として
被告側を支持した下級審の判決を支持。
控訴審は、米国では非常によく知られたブランドではないグロトリアン=シュタインヴェークは
スタインウェイ・アンド・サンズが築いてきた確固たる評判に基づいて一定の余分な信頼性を不当に得ている、
と考えた。高級ピアノの購買者が洗練され博識であると理解され、購買時にどの製造会社がどのピアノを
製造しているかに関して混同していなかったとしても、グロトリアン=シュタインヴェークのブランドに対する
最初の関心時に「意識下の混同」が存在するかもしれない、と控訴審は考えた。
グロトリアン=シュタインヴェーク社は1977年以後「シュタインヴェーク」の名称を使った米国での
ピアノの販売を禁止された。その結果、1976年にグロトリアン=シュタインヴェークは北米でピアノを
販売するための補助的なブランドとしてグロトリアン・ピアノ・カンパニーGmbHを作った。
裁判は現在「購買前の混同」として知られる概念を定義した初の裁判例であった。
地方裁判所判事ロイド・フランシス・マクマーンは「購買前の混同へと欺いて導かれ、
潜在的なスタインウェイの購買者はスタインウェイよりも優れていないにしても少なくとも良い商品である
グロトリアン=シュタインヴェークのピアノで満足するかもしれない」と述べた。
「購買前の」混同に関するロイド・フランシス・マクマーンの考えは控訴審判事ウィリアム・H・ティンバース
によって追認された。ティンバースは「こういった購買前の混同はスタインウェイに損害を与える」と述べた。
グロトリアンのウェブサイトの英語版は、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版とは異なり、
「シュタインヴェーク」という姓に一切言及していない。これはおそらく訴訟の結果であり、
法的責任を最小化したいという願望のためであろうとも考えられる。

■現在の業務
1974年、グロトリアン=シュタインヴェーク家はブラウンシュヴァイク北東部に新たな工場を建設した。
ヘルムートとエルヴィン・グロトリアン=シュタインヴェークは引退し、ヘルムートの息子クヌートが
トップとなった。この工場が現在のグロトリアン=シュタインヴェークの生産拠点である。
1999年、クヌート・グロトリアン=シュタインヴェークは社の指揮から退き、日常的な管理を
ブルクハルト・シュタイン(インダストリアルマネージャー、ピアノ職人)の手に委ねた。
2012年時点で、グロトリアン=シュタインヴェーク社はエルヴィン・グロトリアンの娘とクヌートの息子で
株主の6代目ヨブスト・グロトリアン(1969年生)によって所有されている。
毎年、グロトリアン=シュタインヴェーク社は6種類のサイズのアップライトピアノ約500台と5種類のサイズの
グランドピアノ約100台を生産している。毎年20台程のコンサートグランドピアノが作られており、
その製造にはそれぞれ8か月を要する。2010年、特別な175周年モデルとして「Composé Exclusif」と呼ばれる
118cmのサイズのアップライトピアノを発表し、50台が生産された。
2015年4月1日、柏斯琴行(Parsons Music Group、香港を拠点とする1986年創業の企業)が
グロトリアン=シュタインヴェークの株式の大半を取得した。
2017年、第2ブランドfriedrich GROTRIAN(フリードリッヒ・グロトリアン)が作られた。
このブランドのリム、鋳鉄フレーム、響板は中国(Parsons Music)で作られ、最終的な組み立て、
アクション組込み、仕上げがドイツで行われる。アクションは大部分がレンナー社製が使われている。
2018年以降、製造が完全に中国で行われる第3ブランドとして
WILHELM GROTRIAN(ヴィルヘルム・グロトリアン)と
WILHELM GROTRIAN STUDIOが存在する。
前者は高さが46インチから52インチの間のアップライトピアノ4モデルと、
長さが5フィートから6フィート11インチの間のグランドピアノ3モデルである。
WILHELM GROTRIAN STUDIOブランドは、アップライトの高さが45 1/2インチから48インチ(3モデル)と
グランドピアノの足さが5フィートまたは5フィート5インチ(2モデル)である。

グロトリアンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
GROTORIAN & SONS


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GROTORIAN & SONS  グロトリアン・アンド・サンズ

ドイツの「GROTRIAN」(グロトリアン)とは似ても似つかぬ全く別のピアノです。
本場ドイツ製のあの有名なグロトリアンとは違い、スペルをわざと1文字変えています。
ドイツ製グロトリアンのスペルは「GROTRIAN」ですが、こちらは「GROTORIAN」になっています。
「O(オー)」が1文字多く入っているのが分かると思います。

※同様の例として挙げられるのは、あのドイツの名高き「BECHSTEIN」ベヒシュタインの文字を1文字変えた
「BACHSTEIN」(バッハシュタイン/バハシュタイン)などと同様の商売と思われます。
こちらは「E」を「A」にわざと変えているケースですね。
今となってはとても信じられない行為ですが、実は過去のピアノ業界ではよくあった話です。
ピアノ所有者ご本人もまったく悪気なく本当にドイツ製と思い込んでいることもよくあります。
販売元が当初そのように説明し販売していたのが全ての責任ではあるのですがご注意下さい。

雰囲気的には韓国製っぽいですが、詳細はまったく不明。
トレードマーク画像はローゼンクランツ(ROSENKRANZ)やシュベルマン(SCHWÄLMEN)と同じなので、
アイケー・ピアノ社販売時のピアノなのか?詳細は今のところ不明です。
GROVER 詳細不明
GRUNERT 詳細不明
GRUNEWALD
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グルーネバルト ドイツ(旧西ドイツ) 詳細不明
GUILBERT




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ギルバート
プルツナーピアノ製造(株) 当時の住所:浜松市(南区)本郷町1366-16
→詳しくはプルツナー(PRUTHNER)の項目へ

機種バリエーション:GU133等(ピアノ内部の鉄骨部はG133Dとなっております)

<参考>
トレードマーク内の星形は調律に使うチューニングハンマーの差し込みチップの形をモチーフにしています。
この形をモチーフにしている他のピアノは多数ありまして、たとえばカールザイラー、ワグナー、レスター、
キャッスル(鈴木ピアノ)等がトレードマークにこの星形をモチーフにした形を使っております。


ギルバートピアノのまくり(蓋部分)の銘柄ブランドマーク →★
ギルバートピアノのま鍵盤抑えに貼ってあるプルツナーのシール →★
左記トレードマーク画像をはじめ、ギルバートの画像はすべて「むにと様」からご寄稿頂きました。
この度は多数の画像をご寄稿頂きまして誠にありがとうございました!
GULBRANSEN
Gulbransen & Dickenson Co.



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グルブランセン/(ガルブランセン) 1904年 アメリカ(ニューヨーク)

1904年、Axel G. Gulbransenは、パートナーと共にイリノイ州シカゴで会社を設立した。
わずか数年後にはディアフィールドに移転し、レギュラーサイズのアップライト・プレーヤーピアノを
提供する唯一のメーカーとして早くからプレーヤーピアノの生産を開始し、10年近くにわたって
プレーヤーピアノのアクションのみに注力した。
プレーヤーピアノは、1906年に設立されたガルブランセン&ディケンソン社を名乗っていた。
プレーヤーピアノに続いて、グルブランセン社は1957年に業界初の電気オルガンを発売した。
当時のキャッチコピーは「So easy, a baby could do it!」であった。
1964年、ガルブランセン社はゼーバーグ社に買収され、5年後の1969年にはアコースティックピアノの
製造を完全に中止した。ゼーバーグの傘下に入ると、同社は業界初のリズムマシンの1つである
「Seeburg/Gulbransen Select-A-Rhythm」を発売し、シンバルやドラム、その他のビートなど
様々な音を模倣できるように設計されていた。
20世紀の残りの期間は、一連の買収が同社を特徴づけた。
現在では、電子キーボードやオルガンにグルブランセンの名前が見られる。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

グルブランセン社は、プレイヤー・ピアノや電子オルガンのアンプを真空管から
トランジスタに変更した先駆者である。
1900年代半ば、ガルブランセンはこの新しい電子技術に対応した数少ない企業の一つであり、
以下のようなスタンダードとなる多くの革新的技術に貢献しました。
■世界初のトランジスタ・オルガン
■世界初の内蔵型レスリー・スピーカー・システム
■初のチャイムストップ
■初のピアノストップ
■初の自動リズム(実際には、ガルブランセン社が合併したゼーバーグ社が担当した
■初の自動ウォーキングベース
ガルブランセン社のオルガンの中で最も有名なのがリアルトKで、
61音のマニュアルが2つ、25音のペダルボードが付いている。
現在でも教会やスタジオなどで多く使用されている。
GUNTHER, J. 詳細不明
GUNTHER & SOHNE 詳細不明
GUSTAFSON & LJUNGQVIST 詳細不明

上記Gから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

H, CHALLEN CHALLENの項目参照
H. GÖRS & KALMAN
H. GORS & KALMAN

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エイチ・ゲルス&カルマン アトラスピアノ製造株式会社

GÖRS & KALLMANNという大成ピアノ製造株式会社(販売:昭和楽器)もありますので注意。
こちらのアトラスピアノ製造の方は、”L”と”N”がそれぞれ1個でスペルが違います
H. HERZ
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フランス(パリ) 詳細不明
H. KOHL 詳細不明
H. MATSUMOTO



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H.MATSUMOTO エチ・マツモト/エイチ・マツモト (エチ・松本)
何故かこの頃は”H”のことを、現在のように”エイチ”とは呼ばず、”エチ”と呼んでおります。

製造元:松本ピアノ工場(東京月島)
松本ピアノが故あって二つに別れたとき、長男の広氏の”H”をとって付けたピアノ。
トレードマーク内部の文字に、”H”と”M”をモチーフにしたデザインを使っている。
父、新吉氏のS・マツモトもある。
トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました、ありがとうございます!

※ 松本ピアノの詳しい歴史については、MATSUMOTO & SONSの項目もご参照下さい
H. ORGASTHOLSTER
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エイチ・オーガストホルスター アトラスピアノ製造株式会社
H. PETERS & CO.
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ペータース

ドイツ/ライプツィヒ(LEIPZIG) 詳細不明

※ペータース (Peters)というドイツ発祥の楽譜出版社もあるが楽器であるペータースピアノとの関係は不明。
ちなみにこの楽譜出版社はドイツのライプツィヒ、イギリスのロンドン、アメリカのニューヨークに拠点を持つ。
もしペータースピアノとペーターズ楽譜出版社の関係があるとの情報があれば是非お知らせ下さい。
日本でいうと、例えば「ZENONピアノ」と「全音楽譜出版社」の関係性のような感じです。
H. PRAIL
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エイチ・プレイル/H・プレイル 森技術研究所(浜松) ※フランスのプレイエルとは違う
H. PLEYEL エイチ・プレイエル(森技術研究所)というピアノの情報もあるが、
これは上記のH. PRAIL(エイチ・プレイル)と混同しているものと思われます。
H.W. PERLMAN
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H.W.Perlman
H.W. パールマン アメリカ(ニューヨーク) 創業1898年

H.W.パールマン社は、1898年にハリー・W・パールマンによって設立されたピアノ会社である。
同社の工場はニューヨークにあり、1900年代初頭まで少数のピアノを生産していた。
歴史は浅いが、世紀の変わり目に一気に人気を高めた。
1930年代に入ると、Shoninger、Mansfield、Newby、Evansといったピアノを製造していた
ニューヨークのNational Piano Corporationに引き継がれた。
パールマンのピアノで興味深いのは、その多くが購入者の好みに合わせた特注品であったことだ。
これは、小規模な生産を行っていたパールマン社だからこそできたサービスだったのではないだろうか。

パールマンのピアノは音色に優れ、生産台数が少なく耐久性にも優れていた。
そのためH.W.パールマンのグランドピアノやアップライトピアノは、現在も多くが使用されている。

注:正しいブランドのスペルは、「H.W. PERLMAN」です。 ×「H.W. PEARLMAN」ではありません 
HAAKE, KARL 詳細不明
HADDORFF
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ハドルフ・ピアノ・カンパニーは、1901年にチャールズ・ハドルフによって設立された。
イリノイ州ベッドフォードにあった大きなピアノ工場で、ハドルフは自ら設計して
ハドルフ・ピアノの第1号機を製作した。
ハドルフの工場は、自社ブランドの他に、スタインバック&ドレーハー、クラレドン、ブッシュ&ゲルツなどの
ピアノも生産できる規模であった。
やがて、ハドルフ・ピアノ社は、ニューヨークのクラカウアー・ブラザーズに買収され、
コン・キーボード社に事業譲渡された。
その後、Conn KeyboardsはKimball Piano Companyの一部門となった。
1960年、約60年の歴史を持つキンボール社は、ハドルフ・ピアノの製造を中止した。
ハドルフという名前を聞くと、すぐに美しい音と精巧な作りの楽器を思い浮かべることができます。
グランドピアノ、アップライトピアノ、再生ピアノ、プレーヤーピアノなど、
いずれも高い評価と品質を誇っています。
今から60年ほど前に製造中止になったものの、ハドルフピアノはその透明感と力強さで音楽業界に名を馳せた。
最高の材料を使い、熟練した職人の手によって作られたハドルフのピアノは、訓練された耳を持ってしても、
その境界線を見分けることができないほどの階調性を持っています。
HADLEY 詳細不明
HAEGELE OF AALEN 詳細不明
HAESSLER



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ヘスラー ドイツ 詳細不明
※ヘスラーピアノはBVK認証を受けています(詳しくはこちら →★

HAESSLERの画像は匿名希望様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
HAGSPIEL 詳細不明
HAHN, ALB. 詳細不明
HAIDIEL
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シンハイ(星海)のブランド 中国 詳細不明
HAIN, STEPHAN 詳細不明
HAINES BROS.
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ヘインズ社は、1851年にナポレオンとフランシス・ヘインズの2人の兄弟によってニューヨークで設立。
1908年、ニューヨーク州ロチェスターでヘインズ兄弟と他の会社が合併して
アメリカン・ピアノ・カンパニーが設立。
1920年代には、シャーロック・マニング・ピアノ・カンパニーがヘインズ兄弟の傘下に入り、
1945年に閉鎖されるまで、彼らの名前でピアノを製造していた。
創業以来、ヘインズ・ブラザーズのピアノ会社は、その優れた品質で知られており、
世紀の変わり目にはブランドの人気が大きく上昇した。
優れた品質を持つハイネス社のピアノを弾けば、他のブランドにこだわるピアニストも改心すると言われています。

ヘインズ社は、創業以来20年間はスクエアグランドピアノを製造していたが、
その後アップライトを製造するようになった。
彼らのピアノは、数十年にわたって市場の人気のトップに君臨していた。
ヘインズ兄弟の知名度が上がると、グランドピアノやベビーグランドピアノなど、
他のピアノのスタイルも人気が出始めた。
彼らのピアノが「カレッジピアノ」と呼ばれるのは、多くの音楽機関がこのブランドに忠誠を誓い、
スタジオやコンサートホール、練習室にこのブランドを置いていたからである。
また、「The Artist's Choice」という本には、Hainesを弾いたことがあるだけでなく、
Hainesだけを選んだという著名なピアニストが載っています。

(※注意)名称が似ていますが、W. P. Haines & Companyとは別会社です
HAINES →W. P. Haines & Companyの項目へ
HAILEER 詳細不明
HAILUN
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HAILUN ハイルン 中国(寧波市)

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
海倫鋼琴(かいりんこうきん、ハイルンピアノ、Hailun Piano Co., Ltd.、SZSE: 300329)
股份有限公司は、中華人民共和国のピアノメーカーである。
2001年に陳海倫(董事長兼CEO)によって寧波市において寧波海倫楽器製品有限公司として設立された。
アップライトピアノおよびグランドピアノの製造と販売を世界的に展開している。
同社が製造している主要ブランドはPETROF(ペトロフ)、ROSS、
WENDL & LUNG(ウェンドル・アンド・ラング)、
ZIMMERMANN(ツィンマーマン)、FEURICH(フォイリッヒ)である。
株式は2012年6月19日に深圳証券取引所に上場された。
買収価格は21人民元、1,677万株が発行され、募集額は3億5000万人民元であった。
公式HP:http://www.hailunpiano.com/
HALLET DAVIS
HALLET, DAVIS & CO.


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ハレット・デイビス/ハレットデービス
HALLET DAVIS/HALLET. DAVIS & Co./Hallet, Davis & Co. /Hallet & Davis
アメリカ 1839年創業

アメリカ最古の歴史を持ち、優れた品質を誇る。
創業1839年であるから極めて古く、それ以来音楽学校その他の専門家用として
名声を博してきた楽器で、1867年のパリ博覧会であの有名なフランツ・リストが
このピアノを弾き、またヨハン・シュトラウスも愛用したと伝えられている。
尚、ローマ法王のバチカン宮殿にも納入されたというから、20世紀初頭の最も
優れたピアノの一つであったことは間違いないでしょう。
現在でもシカゴで販売されています。

<別解説>
ブラウン氏とハレット氏は、アメリカでのピアノ作りに早くから取り組んでいた。
彼らは1835年、マサチューセッツ州ボストンのワシントン・ストリート293番地にブラウン&ハレット社を設立。
しかし、この社名も長くは続かなかった。パートナーシップが変わったり、
オーナーが去って別の会社を設立したりしたからだ。
ブラウンは1843年に引退し、その7年後にはアレンと一緒に働くようになった。
アレンは1847年にハレット・アレン・カムストンの一員となった人物である。
ハレットは、ブラウンとのパートナーシップとアレン&カムストンとのコラボレーションを分けていた4年間、
ジョージ・H・デイビスと仕事をしていた。1879年、元の所有者が会社を率いなくなった後、
社長代理のE.N.キンボールは、ハレット・デイビス社として事業を法人化した。
その間、C.C.コンウェイが会計係、E.E.コンウェイが書記係を務めていたが、
1905年にコンウェイ家が会社を支配することになった。
コンウェイ家は、1928年に家業のコンウェイ・ピアノ社と合併して、
コンチネンタル・ピアノ社を設立したのである。
エオリアン・ピアノ・カンパニーは大恐慌の際にハレット&デイビスを買収し、
1980年代までハレット&デイビスの名前でピアノの製造を続けた。
現在、ハレット&デイビスの名前は、ニューヨークを拠点とする
ノース・アメリカン・ミュージック社が使用しており、
ピアノは生産コストを下げるために中国で製造されている。
現代のハレット&デイビスは、名称以外にオリジナルの会社と中国ピアノとの共通点はありません。

ハレット・デイビス社は、スクエア型、アップライト型、グランド型のピアノを製造していた。
1890年にはスクエアピアノを廃止し、世紀末に全米で起こったプレーヤーピアノのムーブメントに参加。
1905年から1925年にかけて製造された「ヴィルトゥオーロ/Virtuolo」は、
同社の最高級・最高価なプレーヤーピアノである。

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、Hallet & Davisは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
HALLETT & CUMSTON 詳細不明
HALLETT, RUSSELL 詳細不明
HALS 詳細不明
HAMAMATSU
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ハママツ 浜松ピアノ製造株式会社
HAMBURGER 詳細不明
HAMILTON



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ハミルトン アメリカ(イリノイ州シカゴハイツ) 創業1889年

ハミルトンピアノ社は、1889年に設立されたボールドウィン社傘下のピアノメーカーである。
イリノイ州シカゴハイツに工場を構えていたが、ボールドウィン社に買収され、
ボールドウィン社最大のピアノ生産工場となった。

1932年には、ハミルトンピアノの製造拠点をオハイオ州シンシナティに移した。
ギブソン・ギターがボールドウィン・ピアノ社を買収した後は、ハミルトン・ピアノの名称が引き継がれ、
2001年以降に製造された多くのピアノに使用されている。

ハミルトンピアノ社は、ボールドウィンピアノ社の中でも最大規模のハミルトンピアノの生産工場として、
アップライト、グランド、リプロダクションピアノなどで知られていた。
リプロダクション・ピアノの登場は、当時のピアノ技術の大きな進歩でした。
ハミルトンのまくり(鍵盤蓋)部分のブランド銘柄マーク →★
HAMMOND
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ハモンド Hammond Piano Company
アメリカ(インディアナ州ハモンド) 創業1878年

ハモンドピアノはインディアナ州ハモンドにあるストラウベ・ピアノ社の工場で製造されていた。
1878年に設立されたストラウベ・ピアノ・カンパニーは、ストラウベ、ハモンド、ギルモア、ウッドワードの
ピアノを製造し、リードオルガンも製造していた。
後にコンチネンタル・ミュージック・カンパニーの一部門となる。
ハモンドピアノは、シュトラウベが会社の過半数の所有権を得て、会社名でピアノの生産を続けるまでは、
ハモンド・ピアノ・カンパニーとしてスタートした。
ハモンドピアノは、1900年代初頭に販売されていた他の厳選されたシュトラウベピアノに代わる、
より手頃な価格の中級グレードのピアノとして販売された。

ハモンドピアノは、シュトラウベやギルモアと同じ工場で製造されたため、スタイルや音色に多くの共通点があった。
1905年、ストラウベはハモンド・アップライト・ピアノのスタイル21と23を発表した。
その後、プレーヤーピアノも発売された。ハモンドピアノ社は、シュトラウベ・ピアノ社が経営しており、
さまざまなスタイルやケースデザインを顧客に提供した。

ストラウベ・ピアノ社は、プレーヤーピアノのアクションに使われている
振り子式バルブ「アルトロノーム・プレーヤーアクション」の特許を取得し、
プレーヤーピアノにありがちな腐食や摩擦による問題を軽減した。
ハモンドピアノをはじめとするシュトラウベ社のプレーヤーピアノは、その信頼性の高さから、
業界内で高い評価を得ていた。
ストラウベ社やハモンド社の初期のプレーヤーピアノは、現在でも現役で使用されているものがある。

※下記、日本のHAMMONDとは別のピアノです
HAMMOND
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ハモンド
アトラスピアノ製造株式会社
東洋ピアノ製造株式会社

※上記、アメリカのHAMMONDとは別のピアノです
HAMPTON
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ハンプトン HAMPTON アメリカ ストーリー(ストリー)・アンド・クラーク社

詳細は、スートリー・アンド・クラーク(STORY & CLARK)の項目を参照
HANDOK

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ハンドク/(ハンドック?) 韓国 創業1976年
※HPが閉鎖されているので現在は廃業? 詳細不明

ハンマーはロイヤルジョージを使用、ミュージックワイヤーはレスロー弦を使用とのことです。
音色はかなりシャリシャリした硬い感じの印象を受けるピアノです。
廉価な中国製ピアノに多いのですが、無理してレスロー弦なんかを使うとこんな音になる気がします。

左記トレードマーク画像は「ハラ様」からご寄稿頂きました。この度は誠にありがとうございます!
※HANDOKのトレードマークは、日本製のクロイツェル(KREUTZER)と文字以外ほぼ同じデザインです。
クロイツェル側が韓国メーカーに作らせているのか、又はクロイツェルのトレードマークデザインを勝手に
真似しているのか、詳細は不明です。
→トレードマークの違いを参照したい場合は「KREUTZER」の項目へどうぞ

HANKYU WAGNER

HANKYU WAGNER

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阪急ワグナー/ハンキュウ ワグナー (HANKYU WAGNER)
通称:ハンキューワグナー

製造元:アトラスピアノ製造株式会社
製造元:東洋ピアノ製造株式会社
販売元:阪急百貨店(現:阪急阪神百貨店)

こちらは阪急(HANKYU)と入っているワグナーピアノです。
阪急百貨店向けで売られていたブランドで、ピアノ自体はワグナーとほぼ同じです。

非常に珍しいトレードマークです。
詳細はワグナーの項目を参照してください。

ワグナーのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HANLET 詳細不明
HANNON HALL 詳細不明
HANSEN
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ハンセン ドイツ 詳細不明
HANSEN, A. 詳細不明
※上記HANSENと同じか?不明
HANSEN, JULIUS 詳細不明
HANSMANN, GEBR. 詳細不明
HANTHEY
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ドイツ 読み方不明、詳細不明
HARDMAN
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Hardman ハードマン

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、HARDMANは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
HARDMAN PECK
HARDMAN & HARDMAN PECK






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ハードマン・ペック HARDMAN PECK & CO. アメリカ 創業1842年
Hardman & Hardman Peck Company

ハードマン・ペックはアメリカの歴史的なピアノで、メトロポリタン歌劇場の専用ピアノとして
使われ、歴史的なテナー歌手であるエンリコ・カルーソーが伴奏用に使ったと伝えられている。
グランドピアノとアップライトピアノ両方を作っており、オペラ用のピアノは繊細で優美な
音色を特徴とし、シンギングトーンと表現されています。
構造上の特徴としては、背面のポスト(支柱)が6本あることなどが知られています。

<別解説>
1842年、ヒュー・ハードマンによってニューヨークに設立されたハードマン・ピアノ社は、
そのスタイルで早くから評判になっていた。
1874年に弟のジョンとパートナーのレオポルド・ペックが加わり、
1879年にヒュー・ハードマンが引退したため、1890年に社名を「ハードマン&ペック」に変更した。
1890年に社名を「ハードマン&ペック」に変更した。
アップライト・フレームに足踏み式のプレーヤー・ピアノを搭載するなど、
いくつかの特許を取得したハードマン&ペックのピアノは、メトロポリタン歌劇場や
20世紀初頭のフランクリン・D・ルーズベルトなど、多くの人々に愛用された。
1951年、ハードマン&ペック社はウィンター社に買収され、それから10年も経たないうちに
エオリアン社が同社を買収し、1980年代までハードマンブランドのピアノの生産を続けた。
1990年、ハードマン&ペック社のピアノは、北京星海ピアノグループ製のノースアメリカンミュージック社によって
生産が再開されました。
ハードマン&ペック社のピアノは、その品質と耐久性に定評がありました。
その芸術的な外装の多くは、現在でも賞賛されています。
様々なサイズとスタイル、そしてアコースティックピアノとプレーヤーピアノの両方を生産した
ハードマン&ペックのピアノは、現在でもニューヨークのパブリックスクールやスタジオで見られる。
オートトーン、ハリントン、アンセル、ミニピアノ、プレイオトーン、スタンダード、ハードマン・オートトーン、
ハードマン・デュオ・プレーヤーなど、ハードマン&ペックのピアノには様々な名前が付けられていた。
現在、ハードマン&ペック社のピアノは、日本のカワイがブランドを所有し生産され、
高品質で手頃な価格の選択肢として残っています。

外装にあるハードマンペックのブランド銘柄マーク→★

上から3番目のトレードマークはグランドピアノです。
このグランドのトレードマーク画像はMISSA様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

ハードマンペックのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HARIMATIS 詳細不明
HARMONY
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ハーモニー 浜松楽器工業 (株)

浜松楽器工業 (株)は、「ディアパソン」を製造していた会社で、
「浜松楽器」が「河合楽器製作所」の子会社の時代に製作したのピアノのようです。
トレードマークは、HARMONYのブランド名に加え、丸の中に”特注”と書かれた面白いデザイン。
トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿いただきました。ありがとうございます!

※浜松楽器工業株式会社の詳細については「ディアパソン」の項目を参照
HARMONY
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ハーモニー 韓国

製造元:三益楽器製造株式会社(韓国)
発売元:株式会社トニカ楽器 (輸入:アトラスピアノ)

機種バリエーション:MU-2など
HARMSWORTH & COMPANY 詳細不明
HAROLD, F.E. 詳細不明
HARRINGTON
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ハリントン アメリカ (ニューヨーク) 創業1871年
ハードマン・ペック HARDMAN PECK & CO.のブランド

1871年、ニューヨークにE.G.ハリントンピアノ社が設立された。
1871年にニューヨークで設立されたE.G.ハリントンピアノ社は、1880年には月産100台のピアノを
製造するほどの高品質な楽器で有名であった。
20世紀に入ると、ハリントン社はハードマン・ペック・ピアノ社に吸収された。
その後、大恐慌の際に工業大手のエオリアン社に買収されましたが、1960年代までハリントンピアノの製造を続け、
初期の名声を維持しました。

ハードマン・ペック社は、ハードマン、ハリントン、スタンダード、ヘンゼルという名前のピアノを製造していた。
20世紀初頭、同社はアップライトピアノ、プレーヤーピアノ、ベビーグランドピアノのフルラインを導入し、
生産を維持していた。エオリアン社に買収された後の大恐慌時代の楽器は、主に小型のコンソールピアノや
スピネットピアノ、そしてアパートサイズの小型ベビーグランドピアノであった。
彼らは多くの近代的なピアノ会社と競争し、いくつかのスタイルと種類の木材を使用して、
さまざまなデザインのケースを生産した。
ハリントンミゼットは、その中でも最も小型の普及型ピアノであるが、
大型モデルに匹敵する音色と品質を備えていることを売りにしていた。
HARRISON
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キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ 
HARRISON, V. F. 詳細不明
※上記HARRISONと同じか?不明
HARRODSER



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HARRODSER ハローザー/ハロッサー

ドイツの部品を使っているとのこと
中国製造?遠州楽器制作株式会社?詳細不明

<某HPの製品情報より>
DEHONITピンブロックは、厳選されたブナ材の19層ブロックで、
ピアノ弦のスピンドルピンの安定した位置を提供します。
黒檀の黒鍵はインドネシアのエボニーで作られており滑らかで光沢があります。
ハロッサーアクションは、すべての無垢材のアクションです。
ピアノの8800の部品が正確に一致しています。キーは1秒間に13回連打可能。
レスロー弦は、130年の歴史を持つドイツで最高のピアノ弦。耐用年数を50%増しの優れた防食処理。
ドイツABELハンマー使用、厳選されたピュアウールと洗練された手作業の研磨により、
ハロッサーピアノならではの音質を実現しています。
STRUNZサウンドボードは、トウヒ材で作られたドイツのトップレベルの響板。
可変厚の響板は、演奏中に最適なボリュームを発生させます。
<以上、某HPの製品情報より>

左記トレードマーク画像は「ピアノ調律塾様 https://www.piano-juku.com/」からご寄稿頂きました。
この度は画像の提供を頂きまして誠にありがとうございました!
HARTGE, HENRY 詳細不明
HARTMANN, W. 詳細不明
HARVARD
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HARVARD ハーバード

大倉楽器工業(株)東京都杉並区上高井戸
二本弦の小型ピアノが多かったが、大型のものは音色に特色があった。
HARWOOD 詳細不明
HASCHE 詳細不明
HASHIMOTO


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HASHIMOTO ハシモト

製造:株式会社 協信社ピアノ製作所(シュベスターピアノ製造KK) 東京蒲田
橋本勝美氏が協信社ピアノ製作所(シュベスターピアノ)に依頼して作ったピアノ。

→詳しくはSCHWESTER(シュベスター)の項目も参照
HASSELAAR 詳細不明
HASSELDIECK, DIETRICH 詳細不明
HASTI ASGHARI 詳細不明
HAUCH, J.B. 詳細不明
HAUPTMANN


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HAUPTMANN ハープトマン (ハウプトマン)
※同社カタログ内では”ハープトマン”の表記です

製造元:日本楽器製造株式会社(横浜工場)
発売元:株式会社 山野楽器店(銀座)

銀座の山野楽器店が松本ピアノから権利を譲り受けて総合楽器店として出発した時、
西川ピアノに”ヤマノピアノ”という名称で依頼、西川が日本楽器の横浜工場となってから作ったピアノ。

※HAUPTOMAN→× HAUPTMANN→○  スペル内に”O/オー”は入らず、”Nは2個”なので注意。
HAUPTMANN Jr.


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HAUPTMANN JUNIOR/HAUPTMANN Jr.
ハープトマン・ジュニア

製造元:日本楽器製造株式会社(横浜工場)
発売元:株式会社 山野楽器店(銀座)

上記ハープトマンと同じように山野楽器店が日本楽器横浜工場で作らせていたブランド。
ハープトマンより一回り小型で、一般向きと言われたが堅牢で音色もきれいであった。

※HAUPTOMAN→× HAUPTMANN→○  スペル内に”O/オー”は入らず、”Nは2個”なので注意。
HAUSMANN 詳細不明
HAUTRIVE 詳細不明
HAWKINS
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ホーキンス 東洋ピアノ製造株式会社
HAYELSON 詳細不明
HAYES, E. T. 詳細不明
HAYT, BABCOCK & APPLETON 詳細不明
HAYTS, BABCOCK & APPLETON 詳細不明
HAZELTON BROTHERS
HAZELTON & BROTHER
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ヘーゼルトン・ブラザーズ アメリカ(ニューヨーク) 創業1849年

ヘンリーとフレデリックのヘーゼルトン兄弟は、1849年にヘーゼルトン・ブラザーズを設立しました。
彼らの工場は、1800年代から1900年代にかけてピアノ製造のメッカであったニューヨークにありました。
当初はF.&H.Hazelton(創業者2人の兄弟の名前)と呼ばれていましたが、
弟のJohnが入社したことで社名を変更しました。
1900年代初頭、創業者が亡くなった後、Samuel Hazeltonとその息子Halseyが会社を引き継ぎました。
ヘイゼルトン・ブラザーズは、世界大恐慌の時代を生き抜いた数少ないピアノメーカーのひとつであり、
その品質と人気の高さが証明されている。
ヘーゼルトンのブランドは、1957年にピアノ大手のKohler and Campbell(コーラー&キャンベル社)が
経営権を取得するまで生産され、ヘーゼルトンの名は消滅した。
その後、韓国のサミック社がコーラー&キャンベル(Kohler and Campbell)社を買収したことにより、
再びヘーゼルトン(HAZELTON)のブランド名を使ったピアノを作り始めました。

ヘイゼルトン・ブラザーズは、アメリカで最も古いピアノメーカーのひとつであり、
アメリカで最も有名なピアノのいくつかを製造してきました。
ヘーゼルトンのスクエアグランド、グランド、アップライト、プレイヤーピアノ(自動ピアノ)はいずれも
その信頼性と耐久性で知られています。
多くの楽器が時の試練に耐え、今日でも良好な状態で使用されています。
HEALY 詳細不明
HEDKE, WILH. 詳細不明
HEGELER 詳細不明
HEIDEN, CARL VON 詳細不明
HEINE
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ハイネ アメリカ(サンフランシスコ) 創業1889年

ハイネピアノ社は、1889年にサンフランシスコで設立された西海岸のピアノメーカーである。
自社製品の他にクレルピアノ社が数年間ハイネピアノを製造していた。
ハイネピアノカンパニーは、1900年代初頭にピアノの製造を中止した。
HEINISCH 詳細不明
HEINTZMAN & CO.
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ハインツマン・アンド・カンパニー カナダ(トロント) 創業1866年

1866年、ドイツからの移民であるセオドア・ハインツマンが「ハインツマン社」を設立した。
この会社はカナダのトロントにあった。
ただし、セオドアの甥の会社であるゲルハルト・ハインツマン・ピアノ・カンパニーと
混同しないように注意が必要である。
1899年にセオドア・ハインツマンが亡くなると、会社はオンタリオ州ハノーバーに移った。
1978年までにハインツマンピアノの製造はすべてハノーバーに集約され、
社名もハインツマン・リミテッドに正式に変更された。

1981年にはカナダの家具メーカー、スクラー・ペプラー社に買収され、
1987年にはオンタリオ州のミュージックスタンド社に売却された。
元の会社は廃業しているが、カナダと中国を拠点とするHeintzman Distributors, Limitedが
今でもハインツマンの名前を使っている。
興味深いことに、2008年の北京オリンピックの開会式で演奏されたのは、Heintzman Distributors, Limited社が
製造したハインツマンのグランドピアノでした。そのピアノはオークションで322万ドルで落札されました。
ハインツマンの名を冠したピアノは、何度も会社が変わり、名前も変わったため、
いつ頃から新しいモデルに切り替わったのかは明らかではありません。
しかし、1980年代に入って、ハインツマン社が中国に機械を売却し、在庫を整理したことで、
オリジナルのハインツマンの名前が消えたという説が有力である。

ハインツマン・アンド・カンパニーは、彼らの名前でアップライトピアノやグランドピアノを製造し、
ノルトハイマー(Nordheimer)のピアノも製造していました。
ハインツマンの名を冠した楽器は、カナダではよく知られており、
一世紀以上にわたって非常に人気がありました。
優れた音色と美しい筐体を持つハインツマンのピアノは、時の試練を経て、
今日でも音楽家たちの間で人気を博しています。
HEITZMANN & SOHN 詳細不明
HEINRICH



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ハインリッヒ 福山ピアノ社(フクヤマピアノ)

昭和40年代頃に株式会社福山ピアノ社が販売していたピアノブランド。
本社(当時):東京都千代田区神田神保町1丁目14番地
その他詳細不明

ピアノまくり(蓋部分)のブランド銘柄部分 →★  ハインリッヒの内部写真 →★

これらの画像はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
昭和40年3月、東京お茶の水にある谷口楽器さんから購入されたとのことです。
(※ちなみにピアノの扱いはありませんが、今でも谷口楽器さんは営業しているとのことです)
その当時のピアノ購入価格は24万円だったとのことです。
この度は貴重なお写真とエピソードを頂きまして誠にありがとうございました!
HEINRICH
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ハインリッヒ 新響工芸
※上記の福山ピアノのハインリッヒとは違うピアノなのか?不明
HEINTMAN


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ハインツマン HEINTMAN & COMPANY.LIMITED カナダ

トロントにあるメーカーで、創業は1850年。
あらゆるピアノを製作しており、幾多の国際的な賞を取った優れたピアノとのこと。
HEITER
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ハイテル 有限会社 大森ピアノ社(磐田市)

大森ピアノ社住所:静岡県磐田市西町309番地(当時)
HELL
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ヘル 有限会社 大森ピアノ社(磐田市)

大森ピアノ社住所:静岡県磐田市西町309番地(当時)
HELLAS



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ヘラス フィンランド(HELSINKI/ヘルシンキ) 創業1901年

スカンジナビア諸国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、アイスランド)の中では
最も古いピアノメーカーで、レンナーハンマーを使いドイツの伝統技術を継承して作られた
性能の優れたピアノです。機種としてはコンサートグランドから、コンソールタイプまで広範囲に生産。
最盛期の年間生産台数は約5500台で、その半数がヨーロッパや
同スカンジナビア各国へ輸出されている。その後、日本にも入ってきて好評を博す。 
HELLASは1989年、FAZERも買収してフィンランド国営企業として2つのブランドのピアノを製造。

ヘラスのトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!

ヘラスのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★
HELLER
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Heller & Co. Huntington

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、HELLERは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
HELLSTRÖM 詳細不明

HELMAN

HELMAN

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HELMAN ヘルマン

東洋ピアノ製造(アポロピアノ) 浜松 詳細不明
ピアノの鍵盤押さえ部分には「TOYO PIANO MFG. CO:LTD」というシールが貼ってあります。

ちなみに、まったく別のピアノブランドで、”HERRMANN”というピアノもあります。

ヘルマンのピアノ調律なら経験豊富な調律師 私杉本にお任せ下さい→★

HELMHOLZ

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FR.HELMHOLZ フリードリヒ・ヘルムホルツ
ドイツ(ハノーファー/HANNOVER)

フリードリヒ・ヘルムホルツは、1821年10月18日生まれ(グローナウ)
1890年9月22日没(ハノーバーにて)68歳

フリードリヒ・ヘルムホルツは大工として修行した後、1851年にラインシュトラーセ(Leinstraße)に
大工工房を設立。そこでピアノの製造も開始しました。
ピアノは大変品質が良く当時大きな需要があったとのことです。
ヘルムホルツはショームバーグ・リッピ王子の宮廷から御用達の称号を授与されました。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
HENRY F. MILLER

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ヘンリー・F・ミラー/ヘンリー・ミラー Henry F. Miller 創業1863年
MILLER PIANO CO. 正式名称:ヘンリー・エフ・ミラー・ピアノカンパニー

1863年創業のアメリカ(ボストン)の老舗メーカーですが、現在は中国製造のようです
工場:テネシー州(当時)

アメリカ西部の豊富な木材資源を利用して、過去100年以上ピアノ製作を続けてきた会社です。
製造するピアノはまったく飾りのないスピネットタイプ10種類と、小型のグランドを製造。

<ヘンリー・F・ミラー社の歴史>
ヘンリー・ミラーは、1850年にブラウン&アレン社、1857年にエマーソン・ピアノ・カンパニーで働いた後、
1863年にピアノ会社を設立した。1850年にブラウン&アレン社、1857年にエマーソン社に入社し、
クラシック音楽のピアニストとして活躍したミラーは、音楽家の繊細な耳に合うピアノの作り方を知っていた。
ミラーは、マサチューセッツ州ウェイクフィールドに工場を構え、
当時、ピアノ職人として名を馳せていたJ.H.ギブソンと提携した。
ヘンリー・F・ミラーのピアノは、製造を開始して間もなく、その芸術的なフレームやデザイン、
豊かな音色、優れた職人技が評判となり、当時のプロの音楽家たちに支持されるようになった。
1884年には、ミラーの5人の息子たちが事業に参加して会社を設立し、「ミラー&サンズ」という名前で
ピアノを生産するようになった。
早くからアップライトピアノ、グランドピアノ、スクエアピアノなどのラインナップを揃えていた。
また、オルガンのようなペダルボードを備えたペダルピアノも製造していた。
ヘンリー・F・ミラーのピアノは、1800年代後半から20世紀初頭にかけて、多くのプロの音楽家に愛用され、
その品質の高さが広く知られていた。
ミラー社とギブソン社が生産開始前に綿密な設計を行ったことで、ピアノのフレームは非常によくできている。
1920年代、ヘンリー・F・ミラーはコンチネンタル・ピアノ・カンパニーの一部門であったが、
1945年にウィンター・アンド・カンパニーに買収され、1951年にオフィスをニューイングランドのボストンから
テネシー州メンフィスに移転した。
1980年代後半には、エオリアン・アメリカン・コーポレーションが
ヘンリー・F・ミラーの名前でピアノを製造していたが、その後廃業した。
2013年には、中国のメーカーがヘンリーF.ミラーのピアノを製造し、米国に輸入している。

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、HENRY F. MILLERは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ

HENRY F. MILLERピアノのまくり(蓋部分)にある銘柄ブランド部分の写真 →★ 全体写真 →★
上記2枚の画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。この度は誠にありがとうございます!
HENRY WARD ヘンリーワード イギリス(ロンドン) 詳細不明
HEPPEL & THEILIG 詳細不明
HERGENS, A. G. 詳細不明
HERIOS ? ヘリオス 詳細不明
HERMANN 詳細不明
HERRBURGER 詳細不明
HERRMANN
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ヘルマン 

販売元:神戸堂(神戸)

ヘルマンピアノ製造
福山ピアノ(東京)
大成ピアノ製造株式会社(浜松)
龍生楽器研究所(竜生楽器研究所)

販売カタログでは”ETERNAのヤマハ姉妹品”として販売を展開

まったく別のブランドで“HELMAN”というピアノもあり
HERRMANN, ALEXANDER 詳細不明
HERZ, HENRI 詳細不明
HERZ NEVEU, PHILIPPE 詳細不明
HEYL, GUSTAV 詳細不明
HIBIKI
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ヒビキ

製造元:有限会社 エスピー楽器製作所、東洋ピアノ製造株式会社
発売元:響楽器
HILGER
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ヒルガー ドイツ 詳細不明
HILLGÄRTNER, HEINRICH 詳細不明
HILTON 詳細不明
HIJZ, ERNEST 詳細不明
HILLMANN 詳細不明
HINDSBERG 詳細不明
HINZE
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キンボール社(KIMBALL)が取り扱ったブランド
→詳しくはKimballの項目へ
HIRADE
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ヒラデ 合資会社 平出楽器製作所

”モンソン”のアクションを使用
HIROTA


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HIROTA  ヒロタ

広田ピアノ株式会社(現:川崎市、東京府下大森町前方3472)
東洋楽器製造株式会社(広島)
東洋ピアノ製造株式会社(浜松)

広田米太郎氏(廣田米太郎氏)は、当時最高の技術を持つ調律師で、1923年の関東大震災の翌年に
東京楽器研究所を離れて、約6~7年の間ヒロタピアノを作っていた。
(鍵盤は象牙、レンナーハンマーを使用、定価1000円にて販売の記録有り)
従業員24~25人で、年間約100台を製造していたという。
ヒロタピアノはアップライト600台、グランド70~80台が作られたと推定されており、
アクションやワイヤーはドイツ製を使い、グランドはブルッツナーをコピーしたもので、
音色は極めて美しく、ブランドとしてはY・ヒロタが用いられていた。
この米太郎氏の長男の広田武雄氏が広島で屋代千里氏と合同して
東洋楽器製造株式会社を作り、ワグナーピアノを作り出しました。

※Y.HIROTA Y・ヒロタ

製造:東洋楽器製造KK(広島)
発売元?:ヒロタピアノ(広田ピアノ)(東京都大田区大森)

広田米太郎氏によって大田区大森に創立されたヒロタピアノのブランド。
ブルッツナーをコピーしたもので、音色は極めて美しかったというが、
工場は終戦とともに消失した。広島の東洋楽器でも作られていた。
HITACHI

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HITACHI/ヒタチ

製造:日本楽器製造株式会社(現:ヤマハ株式会社)
販売:株式会社 日立製作所

ピアノのまくり(蓋部分)にあるブランド名は「HITACHI」となっていますが、ピアノ自体はヤマハです。
1960年頃、日本楽器製造の経営戦略として日立製作所(株)の社員向けに特別に販売した廉価版ピアノ。
当時、ピアノ販売にも直結するヤマハ音楽教室の拡大に力を入れていた日本楽器製造の経営戦略として、
国内の大企業である日立製作所の家族を取り込むことでピアノ販売のさらなる拡大を図ったときのもの。
ただし、製造出荷されたピアノはさほど多くはない模様。
現在残存しているピアノは当然ながら茨城県が最も多いと推測されます。
内部にあるエンブレムマークは、上のような一般的な3本音叉のヤマハマークのものと、

■機種/モデル バリエーション H-1、H-3等

<参考>
日立と同じく、電器機器メーカーの「ナショナル」や、音響機器メーカーの「ビクター」等の会社では同時期に、
自社ブランドとしてピアノ販売を展開していました。
※ただし、ナショナルやビクターの製造は東洋ピアノなど、ピアノ製造専門会社のOEM製造です。
→詳しくはこのページ内の「NATIONAL」、「VICTOR」の項目を併せてご参照ください。
HLUCHÁŇ 詳細不明
HOBART CABLE
HOBART M. CABLE

※中国製造になってから
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ホバート・M・ケーブル アメリカ 1900年(1911年創業という資料もあり)
アメリカインディアナ州ラポルテ 工場:ミシガン州
※ブランドスペルはHOBERTではなく、HOBARTです。

<ホバート・M・ケーブルの歴史>
1900年、ホバート・M・ケーブル、ホバート・M・ケーブル・ジュニア、ハワード・R・モレナスの3人によって、
インディアナ州ラポルテにホバート・M・ケーブルというピアノ会社が設立された。
ホバートは、兄弟のフェイトとH.D.ケーブルも「ケーブル・ピアノ・カンパニー」という会社を経営していたので、
ピアノの世界では知らない人はいない。
実際、ホバート・M・ケーブル社は、ケーブル・ピアノ社の関連会社であり、家族ぐるみの付き合いをしていた。
ホバート・M・ケーブルのブランドは、19世紀半ばのある時期に
ストーリー・アンド・クラーク・ピアノ・カンパニーに買収された。
ホバート・M・ケーブルの名前は優秀さの代名詞であったため、ストーリー・アンド・クラーク社はその名前を残し、
H.M.ケーブルの正確な仕様に基づいてピアノを製造し続けた。

1990年、Classic Player Piano Companyという会社がStory and ClarkとHobart M.Cableの
ブランド名称を買い取り、H.M.Cableブランドは一旦決着した。
最近では、アメリカン・セジュン・コーポレーションという会社がホバート・M・ケーブルの名前を継承し、
ピアノの生産を再開している。
このAmerican Sejung Corp.は、H.M.Cableの名を残すべく、
北米で再びピアノを販売するために多大な資金を投入しているという。

ホバート・M・ケーブルのピアノは、甘く魂のこもった、澄んだ力強さのある音が特徴で、
訓練された耳にはすぐにそれとわかる。同社は品質の科学的根拠としてスケールを用いており、
音楽好きの耳には流麗な心地よさが伝わってきます。
また、ホバート・M・ケーブル社のピアノの特徴として、グランドピアノには独自のシリアルナンバーが
付けられていること、ピアノには豊かな木材が使われ、美しい装飾が施されていることなどが挙げられる。
また、グランドピアノ以外にもプレーヤーピアノやアップライト型も製造していた。

1990年代にHOBART M. CABLEのブランドは韓国の会社であるAmerican Sejung Corpが取得し、
中国の青島市(チンタオ)にある工場で製造されるようになりました。
従いまして2000年以降のHOBART M. CABLEは確実に中国製となります。

トレードマーク画像をはじめ、外観その他の写真はすべて、「匿名希望様」からご寄稿頂きました。
内部の雰囲気から推測しますと中国製造になってからのピアノと思われます。外観などの写真はこちら →★
ご寄稿者様によりますと、ピアノの音色はとても良く、気に入っているとの情報も頂きました。
私自身早く調律をしてみたいです。この度は多数の画像のご寄稿を頂きまして誠にありがとうございました!
HOEK 詳細不明
HOEPFNER 詳細不明
HOELLING & SPENCENGBERG
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ドイツ 読み方不明、詳細不明
HOEPFER
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ヘパー ドイツ 詳細不明
HOERR, FRANZ 詳細不明
HOFBAUER, GUSTAV 詳細不明
HOFF & CO. 詳細不明
HOFFMANN, AUGUST 詳細不明
HOFFMANN, GEORG 詳細不明
HOFFMANN, W. 詳細不明
HOFFMANN



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HOFFMANN(W.HOFFMANN)(& KUHNE) ホフマン&キューネ
ドイツ(旧西ドイツ) 
このトレードマークにはMade by C.Bechstein Europe SINCE1964とあります

HOFFMANN(ホフマン)(ベヒシュタイングループ)はペトロフがOEM販売。
PETOROFのHPより。

エンブレム画像は「PIANO YOSHIKAWA様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
W・ホフマン(W. Hoffmann)はドイツのアップライトピアノおよびグランドピアノ製造業者である。
工房は1893年にベルリンで創業された。
1991年、「転換」の直後、ホフマンはベヒシュタイングループに買収され、
アップライトピアノとグランドピアノはザイフヘナースドルフで生産された。
2001年、生産がチェコに移転された。
HOFMANN

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HOFMANN ホフマン

株式会社 西川楽器製作所(横浜市神奈川青木町) 
※(西川楽器は日本楽器に合併吸収されまでの1884年~1921年まで稼働)
※(西川ピアノ時代のピアノ製造期間は1916年~1921年までとの記録がある)
日本楽器製造株式会社(横浜工場)
有限会社 興和楽器製作所
東洋楽器製造株式会社(広島)

発売元:小野ピアノ販売店、(十字屋楽器店も?) ※SONAREの項目も参照
エンブレム画像は「匿名希望様」よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

※上記、本場ドイツ製のホフマンの方は”F”が2個ですがこちらは”F”が1個です
HOFMANN & CZERNY 詳細不明
HOFMANN, KARL 詳細不明
HOFMANN & SCHOLZ 詳細不明
HOFMANN & SCHULZE 詳細不明
HOHNER 詳細不明
HÖLLING & SPANGENBERG 詳細不明
HOLTS ホルツ 詳細不明
HOLZL & HEITZMANN 詳細不明
HOMEYER
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HOMEYER/ERNST HOMEYER ホーマイヤー ドイツ(ライプツィヒ) 旧東ドイツ その他詳細不明

HOPKINSON

HOPKINSON

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ホプキンソン 1835年創業 イギリス(ロンドン)
J.& J. HOPKINSON ホプキンソンピアノ社

ジョン・ホプキンソンによって設立
音楽出版社から出発したピアノ製造メーカーで、
1990年ベントリー社によって買収

下のトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
HORACE WATERS & CO.
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HORACE WATERS & CO. ホレイス・ウォーターズ
ニューヨーク 詳細不明
HORNUNG & MOELLER 詳細不明
HÖRÜGEL 詳細不明
※下記HORUGELと同じか?不明
HORUGEL
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ホルーゲル ドイツ 詳細不明

HORUGEL

HORUGEL

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ホルーゲル/(オノ・ホルーゲル)
※HORUGELの発音で”ホリューゲル”もありますが”ホルーゲル”という読み方が一般的なようです

<発売元>
小野ピアノ販売店 (住所当時:大阪市住吉区帝塚山西2-8-3*)
<製造元>
株式会社 小野ピアノ製作所
東京蒲田楽器製作所(蒲田ピアノ修理所)
斉藤楽器株式会社
有限会社 及川ピアノ製作所
西村ピアノ商会

創始者の小野好氏は仙台の富豪で、最初は最初は蓄音機の販売で成功し、
昭和8年、東京大田区の六郷にピアノ工場を持ち、
戦争中は神奈川県湯河原に疎開して大きく発展したようです。
トレードマークには、ONO PIANO,COとあります。小野ピアノ。

ホルーゲルは同社のメインブランドでした。
このピアノは私自身1台しか調律したことはありませんが、
作りはうーん。。といった印象です。ただし、かなり古いピアノでした。

<別情報>斉藤喜一郎氏がドイツ留学から帰国後、東京蒲田楽器製作所を設立し
ブッフホルツとホルーゲルピアノを製作したとの情報もあり(詳細不明)

■機種/モデル バリエーション
U5→ 特製ハンマー使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)
U6→ レンナーハンマー使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)
U7→ レンナーハンマー&レンナーアクション使用 (黒塗、マホガニー、ウォルナット)
HOTTA


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HOTTA ホッタ
株式会社 堀田楽器製作所(名古屋)、堀田オルガン製作所、株式会社 堀田洋行

名古屋の楽器商堀田洋行は、戦後一時オルガンで大当たりし、
引き続きピアノを製作したが、こちらはそれほどではなかった。
創立者の堀田悟朗氏(明治36年生)は、上海のモートリーピアノで技術を学び、
昭和28年ごろグランド型のオルガンを発案し、ピアノの代用として一時期よく売れた。
61鍵、73鍵などがあった。 
HOUGEL HOUGEL,HUGEL,(FOOGEL?),(FOUGEL?) ヒューゲル (フーゲル)
明音楽器製作所(浜松) FOOGELの説もある
HOWARD/R.S.HOWARD
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ハワード R.S.HOWARD CO アメリカ(ニューヨーク) 創業1902年

R.S.ハワードは1902年に設立され、ニューヨークにありました。
R.S.ハワードとC.R.ハワードが創業したが、1920年代にヤンセン・ピアノ社に売却した。
R.S.ハワード社のピアノは、大恐慌の時代に他の多くのピアノと同様の不幸な運命を辿り、
1932年にはラインの製造を停止した。

R.S.ハワードピアノについて
残念ながらR.S.ハワードについての情報はあまりなく、
このすぐ下の、ボールドウィン社の「HOWARD」と混同しないように注意が必要です。
HOWARD
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ハワード Howard Pianos Company アメリカ(オハイオ州シンシナティ) 創業1895年

ハワードピアノ社は、1895年にオハイオ州シンシナティのピアノメーカーとして設立されました。
このすぐ上の「R.S.ハワード」のピアノと混同されることが多いが、ハワード・ピアノ社は
ボールドウィン・ピアノ社の子会社です。ご注意下さい。
1959年、ボールドウィン社は「ハワード」のブランド名称を使った家庭用オルガンの製造を開始した。
1960年には、グランドピアノの多くがカワイ製になり、後にサミック製になった。
ギブソン・ギターがボールドウィン・ピアノ社を買収した際、ハワードの名称も買収され、
2001年以降に製造された一部のピアノに使用されている。

ハワードピアノの名前は、ボールドウィンピアノ社やギブソンギター社で製造された
様々なスタイルのピアノに使用されていました。
1959年以前の初期のハワードピアノの多くは、「アクロソニック」ピアノという名前が付けられていました。
1959年から1968年に製造されたハワードピアノのシリアルナンバーは、アーカンソー州コンウェイの
ボールドウィンピアノの工場で製造された縦型ピアノのものだった。
ハワードピアノは、高価で高級なボールドウィンピアノの一部に対して、より手頃な選択肢として提供された。
ハワードピアノは信頼性と耐久性の高いピアノとして知られており、現在でも多くのハワードピアノが
比較的良好な状態で残っている。
HSINGHAI
(XINGHAI)



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HSINGHAI/XINGHAI シンハイ(星海) 中国北京
同じメーカーでXINGHAIとHSINGHAIの2種類の表記が混在しますが、理由は不明。

漢字で書くと星海と書く中国北京製のピアノです。
中国の首都である北京には楽器を取り扱っている軽工業公司の総元締である
総公司があるので北京製のピアノは中国で最も優れたピアノだと言えよう(当時)
グランドはフルコンサートを含む4種類、アップライトの種類も大変多い。
北京のピアノ工場は音楽大学と密接な関係があり、音楽大学にはピアノ科の学生
一人一人に1台のピアノが備え付けられている。

ニエアル(聶耳)と同じで星海も中国の有名な作曲家で、フルネームは洗星海
(シェン・シンハイ)である。彼は1905年に広東省の漁師の家に生まれ、
努力して広東の嶺南大学を卒業後、フランスに行き、パリ音楽院で作曲を学ぶ。
そして1935に上海に帰国したとき、抗日救国運動が激しく燃え上がっている
のを見て、多くの救国歌曲を作ったと伝えられている。
後に武漢から延安に入り、すぐに芸術学院音楽家主任となり、民族音楽の採集、
整理、研究をした人で、有名な中国の歌劇である東方紅(トンファンホン)も
この時代に生まれたといわれている。
彼は多くの民族色豊かな作曲を残すと共に、1940年に社会主義リアリズムの
新しい音楽をいかにして民族音楽の形式と結合させるかという野望を抱いて
ソ連に渡り、第一交響曲(民族解放)と、第二交響曲(神聖なる戦い)を作曲したが
惜しくも胸部疾患のため1946年に他界。

彼は中国にとっては最も社会主義に尽くした文化人であるから、北京製のピアノに
彼の名前が残されたのであろう。
中国の輸出用ピアノにはエーデルスタイン(EDELSTEIN)と名付けられている。

シンハイのトレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
会社の名前通り、海と星をモチーフにしたデザインで、マーク内には星海、HSinGHAiと入っています。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
XINGHAIの公式HP →★
HUAERSEN HUAERSEN PIANO/華爾森鋼琴 中国(浙江省) 創業2000年
詳細不明
HUGEL HOUGEL,HUGEL,(FOOGEL?),(FOUGEL?) ヒューゲル (フーゲル)
明音楽器製作所(浜松) FOOGELの説もある
HUMMEL 詳細不明
HUMPHREY, LONDON 詳細不明
HUNDT & SOHN 詳細不明
HUNTINGTON
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Huntington Piano Company
ハンティングトン スターリング・ピアノ・コーポレーション アメリカテネシー州
※STERLINGの項目も参照

ハンティントン・ピアノ・カンパニーは、1894年にコネチカット州シェルトンで設立された。
製造はコネチカット州で行われていたが、オフィスとショールームはニューヨークのブルックリンにあった。
スターリング・ピアノ・カンパニーに支配されていたが、後にウィンター・ピアノ・カンパニーに吸収され、
1960年代まで生産と販売を続けた。
ハンティントン社は、電動式と手動式のピアノやプレーヤーピアノを製造していた。
1930年代に入ると、ハンティントンは小型のコンソールピアノやスピネットピアノ、
さらには小型のベビーグランドピアノのラインを発表した。
これらの楽器は、毎日の演奏に耐えうる耐久性があることで知られていた。
これにより、ハンティントンはアメリカの一般家庭向けのピアノメーカーとして市場に位置づけられ、
多くのピアノ教室や家庭での練習がこれらのピアノで行われた。
また、ハンティントンのピアノは、当時の多くのピアノと同じようなスタイルで、美しい外観を持っていた。
優雅なケースデザインと堅固な構造で知られています。
HUPFELD


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フプフェルト
フプフェルトは1800年代後半に創立されたドイツ・ライプツィヒのメーカーです。
→詳しくはRONISCH(レーニッシュ)の項目を参照
HUPFER


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HUPFER フッペル ドイツ(ツァィツ市/Zeitz) HUPFER PIANOS
1874年創業? 第二次世界大戦中、ヒトラーによって工場が壊されて閉業

ドイツにあるツァイツ市は、ドイツのライプツィヒの南南西、約30~40kmほどの所にある町です。
フッペルピアノは手づくりを貫いていたピアノ工房で、1台1台コツコツと丁寧に製作されていたとのことです。
ベーゼンドルファーなどと同様、大量生産ではない貴重なピアノで、日本国内に現存確認されているピアノは、
現在4台ほど(グランドピアノに於いて)しか確認されていません。(2020年現在私自身の調べ)
このフッペルが有名になったのは、戦時中の特攻隊員を主人公にした映画「月光の夏」(1993年公開作品)で、
この映画に登場するいわゆる「特攻ピアノ」がこのフッペルのピアノになります。
ドイツのHUPFERの鍵盤蓋に書かれている書体 →★

<参考>
映画「月光の夏」の内容はフィクションのようです。詳細は下記に記します。

実はこのフッペルのピアノを弾いたのは特攻隊員ではなく、目達原第11錬成飛行隊の3式戦未修教育を
受けていた特別操縦見習士官(特操)2期生の少尉であることがご本人への聞き取りにより確認されています。
二人が所属したことになっている特攻部隊そのものも実は実在せず、その行動経過も架空のフィクションです。
映画製作や地域おこし町おこしの観点からこの件についてはやや伏せ気味になっております。
この件に関する考察は、「244戦隊ホームページ」での解説がとても詳しいので参考にしてみて下さい →★

<映画で使われたピアノ>
現在この映画に使われたフッペルのピアノは1995年から佐賀県鳥栖市にある多目的施設「サンメッセ鳥栖」の
1階にある「情報と憩いの場(ふれあい広場)」に「平和への願いの証」として常設展示公開されております。
ちなみに、受付で手続きをすれば短時間の演奏も可能だそうです。

<現在当方が所在把握している国内に現存する4台のフッペルのグランドピアノは下記の通りです>
■佐賀県鳥栖市 「サンメッセ鳥栖」の1階「情報と憩いの場」 ※→元々は「鳥栖小学校」にあったピアノ
■鹿児島県知覧町 「知覧特攻平和会館」のロビー ※音は出せないとのこと
■鳥取県日南町 「日南町立日野上小学校」の体育館 ※日野上小学校の公式HPにフッペルの解説ページあり
■山口県岩国市 「古民家カフェ 光風堂」 ※塗装を剥がして大修復したので現在のピアノは木目調とのこと
→もし間違った情報だったり、追記情報や所在変更があった場合などがあれば是非教えて下さい。
HUPFER
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HUPFER フッペル

上記ドイツのHUPFER(フッペル)とは違う、国内製造のピアノのようですが、
まくり部分(ピアノ鍵盤蓋の部分)に書かれているブランド銘柄文字が上記ドイツ製の書体と同じです。
(特徴的である”U”の文字の形がまったく同じです)
これが本場ドイツのフッペルピアノのコピー商品なのか?詳細や理由は一切不明です。
参考→ドイツのHUPFERの鍵盤蓋に書かれている書体

製作が上杉 漸氏という情報もありますが詳細は不明。
ドイツ製のフッペルをただ改造しただけなのか?新情報をお待ちしております。
トレードマークは菊の御紋?の様なマークの中央に、マイナス溝のボルト?があるように見えます。
HUTTNER
HÜTTNER




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HUTTNER/HÜTTNER
ヒュッツナー/ヒュットナー/ハッツナー(どの読み方が正式なのか不明)

トーカイ楽器/東海楽器製造(株)
当時:浜松市寺脇町36 (※東海楽器の現在のHPには寺島町とあるが詳細は不明)
現在:浜松市南区遠州浜2-26-10 (現在はギターのみの製造で、ピアノの製造はしていません)
機種:U5DM、U5DW、E1-M、E1-M(CUSTOM)等 ※Mはマホガニー、Wは木目調

TOKAI楽器には2枚目(下)のような別のトレードマークもあるようです。2人の天使?が描かれています。
こちらの画像は「Atelier sonorite」様よりご寄稿頂きました。ありがとうございます!

<東海楽器が製造したブランドを列挙いたします>
■ TOKAI(トーカイ)
■ BOLERO(ボレロ)
■ SILBER STEIN(シルバースタイン)
■ HUTTNER(ヒュッツナー)
■ GOLD STAR(ゴールドスター)

東海楽器に関するの詳しい解説は、「トーカイ」のブランド項目参照
HYFTE, VAN C. 詳細不明
 HYUNDAI
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Hyundai ヒュンダイ 韓国 ローゼンストックRS101などと似たピアノ

韓国の自動車メーカーのヒュンダイとは違うのか?同じなのか?詳細不明

  上記Hから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

IBACH イバッハ イギリス 詳細不明
IBACH
IBACH, RUD.


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イバッハ IBACH (RUD IBACH SOHN)
ドイツ(旧西ドイツ) 創業1794年。 IBACH,RUD

イバッハ社のピアノの音色は、どのような音量で弾いても、しっかりとした透明な低音域と、
豊かで温もりのあるテナー音域、そして真珠のような歌う高音域が特徴。
イバッハ社のさまざまなアップライトとグランドピアノはすベて、大部分が手作業で製作されている。
標準的なピアノを生産する一方で、イバッハ社は奇抜な外装デザインの伝統も守り続けている。
1880年代、イバッハ社はヤンコ鍵盤のピアノを製造していた。パウル・フォン・ヤンコが特許を取得した
ヤンコ式配列の鍵盤は、左右それぞれの手で広い音域を弾くことができる。

1794年にヨハネス・アドルフ・イバッハによって設立されたイバッハ社は、現在6代目イバッハが運営しており、
独立した家族経営のメーカーとしては現存する中で最も古いと思われます。
この会社ができた時代は、ピアノの構造に金属を取り入れることも、自社の商品を宣伝するという発想も、
物づくりの精神に反するとされていた。

<歴史>
ヨハネス・アドルフ・イバッハは当初、ドイツの著名なオルガン製作者のもとで修業をしていたが、そのころ、
発展途上にあったピアノに将来性を見出すと、彼の関心はこの新しい刺激的な楽器に集中していった。
1794年、イパッハが工場を設立した場所は、ピアノ製作の伝統の中心であるザクセンではなく、
デュッセルドルフに近いバイエンブルクだった。そしてナポレオン戦争による経済不況の時代にありながらも、
会社は着実に成長していった。
1834年にヨハネスの長男カール・ルドルフが経営に加わり、社名は「Rud.Ibach Sohn
(ルドルフ・イバッハ・ゾ—ン)」に改められた。グランドの発展に乗り遅れることなく、またアップライトを
早くも1838年から製造し、会社の名声は急速に高まっていく。
カール・ルドルフは、ヨーロッパ各地で開催された貿易見本市や展示会に多く参加した。
1863年、ぺーター・アドルフ・ルドルフ・イバッハが3代目イバッハ社長になると、彼の指揮のもと、
会社は発展を遂げ、より広い近代的な工場が必要となった。
自社のピアノの音色を大々的に改良していったP.A.ルドルフは、リヒャル卜・ワーグナーをはじめとする
当時の一流の作曲家や演奏家に尊敬された。
ワーグナーはルドルフのことを「親切な音色の技師』だと言っていたと伝えられている。
ピアノの外裝をもっと面白いものにできないかと考えたP.A.ルドルフは、一流の建築家や
デザイナーを対象とするコンペを行っており、今日に至るまでイバッハ・ウン卜・ゾーン社は、
奇抜なデザインの外装のピアノを作り続けている。
ルドルフが会社を商業的に拡大していったのに対し、彼の兄弟のヴァルターは世界中をまわって
一流のピアノ製作者から新しいアイディアを学んだ。10年間、外国で修行を積んだヴァルターは
ドイツへ帰国すると、1892年にペーターが亡くなったあとに会社を引き継いだ未亡人フルダを支えた。
20世紀の初めには、4代目のアルベル卜・ルドルフ・イバッハが率いるイバッハ社は、
3つの工場(シュヴェルム、バルメン、ベルリン)でピアノを生産するようになっていた。
会社は成熟したメー力ーとしての地位を確立し、演奏家や作曲家たちの支持を集めた。
しかし、1930年代の経済危機に直面すると、生産高20世紀初めの量の12分の1にまで減った。
1940年代になっても暗い時代が続き、第二次世界大戦中に会社の工場やコンサートホール、
資料室は大部分が破壊された。
苦境に陥った会社はなかなか立ち直ることができなかったが、1952年になってようやく、
5代目のヨハン・アドルフ・イバッハと妻のマルグリットがピアノ生産を再開し、
楽器の品質を高く保つことに専念した。
大部分を手作業で製作する職人技が評価され、イバッハ社はドイツ最高ランクのメーカーの地位を取り戻す。
シュヴェルムの工場は建て替えられて本社となり、世界規模の販売ネッ卜ワークが確立された。
現在、尊敬を集めるこのピアノ会社はロルフ・イバッハの指揮のもと、
芸術的な外装デザインの伝統を守り続けており、リチャード・マイヤーをはじめとする一流の建築家に
ピアノケースのデザインを依頼している。
1994年、会社のピアノ製作200周年を祝して、ブルーノ・パウルやペーター・ベーレンスらの
3つの歴史的デザインによるピアノが作られた。
今もイバッハ一族が舵をとるルドルフ・イバッハ・ゾーン社の3世紀目は明るいといえる。

初期の頃のピアノはオーバーダンパー方式(いわゆる鳥かご式アクション)を採用しているものがあります。
参考:鳥かご式アクション写真 →★

<附録>
イバッハピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1820年~2000年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
Rud. イバッハ・ゾーン(Rud. Ibach Sohn)は、ドイツ・シュヴェルムのピアノ製造業者であり、
2007年までは世界で最も古い製造を続けている会社であった。
1794年に創業されたイバッハはアップライトピアノとグランドピアノの大手製造業者の一つであった。
1904年まではオルガンも生産していた。イバッハは最後まで創業家によって率いられてきた。
21世紀の初めには、第7世代目が会社に加わった。2007年12月、シュヴェルムでのピアノ生産は打ち切られた。
今日は、イバッハ製ピアノのサポートを扱っている。
ヨハネス・アドルフ・イバッハは1794年にバイエンブルク(1929年以降はヴッパータール市)で
最初のスクエア・ピアノを製造した。
1795年、ヨハネスはこの地の十字軍修道院(Kreuzherren-Klosters)のオルガンを修復した。
18世紀が終わる前に、ヨハネスは生産拠点をまずリッタースハウゼン(オーバーバルメン)の貸し工房に、
次にバルメンのヴッパーフェルトに移した。
1817年、居住と工場のための建物を建設し、ここでピアノとオルガンを生産した(中心はピアノ製造)。
1839年、息子のカール・ルドルフ・イバッハとその兄弟のリヒャルト・イバッハが、
Ad. Ibach Söhne(アドルフ・イバッハの息子達)という名前で会社を引き継いだ。
最初の営業所はデュッセルドルフ、ボン、エッセンに設立された。
1850年代初頭まで、イバッハはケルンのピアノメーカーEckとプロイセンで最大のピアノメーカーである
ケーニヒスベルクのGebauhrに所有されていた。
イバッハはとりわけオランダに向けた輸出を推し進めた。1869年、オルガン製造は独立会社となった。
1873年のウィーン万国博覧会においてイバッハ社はメダルを獲得した。
会社は拡大し、ケルンに作業場を持つ営業所とシュヴェルムに新工場が加わった。
イバッハのヴェルテ=ミニョン(自動演奏)グランドピアノ(1924年)
さらに、公立楽器博物館と初のヴッパータール音楽ライブラリーが開かれた。
1892年、ペーター・アドルフ・ルドルフの未亡人フルダ・イバッハが会社を引き継いだ。
彼女は20年間会社を率いて、数百人を雇用した。
この時期に、ベルリンに3番目の工場が建設された。
さらに会社は拡大し、中米、南米、バルト諸国、ロシア、アジア、アフリカ、オセアニアでも販売を行った。
この時に、移調グランドピアノや放射型鍵盤、Ibachord(コンサート・チェンバロ)、指揮台ピアノ、
イバッハ=ヴェルテ・グランドピアノ、イバッハ=ヴェルテ・アップライトピアノといった様々な
革新や新たな進歩が取り入れられた。第一次世界大戦後は会社にとって試練の時期だった。
輸出市場の消失に加えて、ラジオと蓄音機の発明によってピアノ市場は縮小した。
自動車がステータスシンボルとしてのグランドピアノの取って代わった。
変化した顧客の要求、特に狭い集合住宅のため、小型ピアノが開発された。
第二次世界大戦はバルメンの本社にも破壊をもたらした。
したがって、1945年にシュヴェルム工場が新本社となった。
しかしながら、生産は1950年にようやく再開できた。
1960年代と1970年代の好景気は会社に取って良い時期であった。
1980年代、韓国の大宇財閥との合弁事業の一環として大宇楽器が韓国で作られ、
製造される全ての楽器はイバッハから出された。
韓国での製品には「K」が加えられた。
部外者からの意見では、このブランド名の「希釈」が深刻な経済問題を引き起こした。
2004年から取締役を務めていたユリア・ザビーネ・ファルケ(旧姓イバッハ)はイバッハに対する競合他社の
キャンペーンを一番の問題と見た。2007年には、5人強のピアノ職人がイバッハで働いていた。
2007年12月、ピアノ生産は打ち切られた。
それ以後、イギリスのジョン・ブロードウッド・アンド・サンズが世界で最も古い途切れることなく
生産を行っているピアノ製造業者である。
IMPERIA
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
インペリア 新東海楽器製造株式会社(浜松) 詳細不明
INABA


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
INABA イナバ

製造:スワン楽器製造KK(浜松市)
製造:稲葉楽器製造株式会社/稲葉ピアノ製作所(浜松市和田町)
発売元:稲葉ピアノ株式会社/イナバピアノ(東京都渋谷区道元坂上)

東京都渋谷区道玄坂上にある稲葉綱雄氏経営のイナバピアノが、
実弟の稲葉亮氏の経営するスワン楽器に作らせたもの。
終戦後の何もない時代にバラックの中からピアノ研究を開始し、
稲葉兄弟の名をつけた自信作である。浜松市和田町228の
稲葉楽器製造株式会社で作られていた。
INBAL
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
インバル イスラエル 詳細不明 
IRMANN イルマン 松本楽器製造株式会社
IRMBACH
このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
ロシア(旧ソ連製) 詳細不明
IRMLER
IRMLER, J.G.


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イルムラー IRMLER, J.G. 製造:ドイツ・ライプツィヒ
現在はブリュートナーのセカンドブランド。

メンデルスゾーンなどの一流の演奏家や作曲家がイルムラーのグランドピアノを弾いたとされる。
また、イルムラーピアノは数々の素晴らしい賞を受賞したり、ヨーロッパ各地の王室御用達楽器に選ばれるなど、
イルムラー社はドイツにおける最高ランクのピアノメーカーと評されるようになった。
現在は、コスト削減のため、組み立てをポーランド国内で行い最終調整をライプツィヒの
ブリュートナー工場で行っているピアノとのこと。

<歴史>
ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラーは、ウィーンのピアノマイスターたちのもとで
ピアノ製作を学んだ。そして1818年にドイツへ戻ると、当時のヨーロッパ文化の中心地であるライプツィヒに
会社を設立し、 非常に高い品質のグランドピアノ、およびスクエアピアノ、アップライトピアノを製作した。
イルムラーはとても小さな店から始まったが、1857年にイルムラーが亡くなる頃には世界中でイルムラー社の
ピアノが販売されるようになっていたという。
イルムラーの後を継いだのは、ピアノ製作の教育を受けていた息子のオットーとオズヴァルトだった。
イルムラー社は北米への輸出や国内市場で着実に売り上げを伸ばしていった。
ところが、他のドイツメーカーに徐々に押されるようになり、最先端のアイディアを取り入れた攻めのセールスを
展開するように迫られた。1861年、イルムラー社は工場に蒸気駆動機械を導入する。
そしてその年のうちに、オットーは工場の経営を弟に託し、この世を去った。
その後の成功により、イルムラー社はドイツにおける最高品質のピアノメーカーとしての地位を確立し、
オーストリア、ヴュルテンベルク、スウェーデン、ルーマニアの王室から表彰された。
1905年にオズヴァルトが亡くなると、会社は有能な息子、エミールとオットーに委ねられた。
イルムラー社はその後、1950年代まで独立してピアノを生産していた。そしてイルムラーピアノは、
イルムラー・ヨーロッパというブランド名のもと、アジアとヨーロッパの工場で作られるようになり、
アメリカ向けピアノは、ジャーマン・ピアノ・インポーツ社が輸出している。

<附録>
イルムラーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1953年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J. G. イルムラー(J. G. Irmler)は、ザクセン・ライプツィヒのピアノ製造会社であった。
所有者のエミールおよびオットー・イルムラーは
オーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達称号を授与された。
1818年、ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラー(Johann Christian Gottlieb Irmler、
1790年2月11日–1857年12月10日)がライプツィヒでピアノ製造会社を創業した。
1842年、イルムラーはグランドピアノのための新たなアクションを考案した。
同年、イルムラーはザクセン国王から
große Goldene Sächsische Königliche Staatsmedaille
(ザクセン王室大金章)を授与された。
1943年、他のピアノメーカーと同様にイルムラー社も空襲の被害にあい、生産施設は完璧に破壊された。
第二次世界大戦の終戦後、イルムラー家は事業の再開を決断した。
しかし、ロシアの占領下でピアノ製作に適した建物を再建することは非常に難しかった。
家長の死去後、イルムラー家は西側に脱出した。
1953年、東ドイツ当局はイルムラー社の歴史を終わらせた。
1999年、イルムラーの名前が復活した。
2018年現在、Irmler Piano GmbHはブリュートナー社の関連会社であり、イルムラーブランドのピアノは
ブリュートナーが販売している。
Studioシリーズは主に中国の工場で組み立てられ、ドイツのブリュートナーの工場でハンマーが組込まれ、
検査や調整が行われる。このモデルは積層スプルース響板が使われている。
Professionalシリーズは、サミックのインドネシア工場製の部品とポーランド製の
キャビネットを使ってドイツで組み立てられる。
IRWIN & SON


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
IRWIN & SON PIANO COMPANY INC. アーウィン・アンド・サン
アメリカ ノースカロライナ州

このピアノもキュリエールピアノと同様、ノースカロライナで作られているピアノです。
ノースカロライナ州はアメリカ南東部の大西洋側に位置する州で、
高原や森林地帯が多く、木材が豊富なため家具やピアノのキャビネットの製造が
盛んに行われています。
社長のアーウィンは、ピアノ業界30年の経験者で、その間、エオリアン・アメリカン・
コーポレーションの販売促進部の重役などを務め、同時にウッド・アンド・ブルックス社
(ピアノのアクションとキーの製造をする会社)のセールスマネージャーその他を勤めており、
このアーウィンピアノを作り出してアメリカ全土に販売するようになったと言われています。
IVERS & POND


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
IVERS & POND PIANO CO. /Ivers & Pond
アイヴァース・アンド・ポンド アメリカ(テネシー州)

1880年にテネシー州に作られたピアノ工場で、その後アメリカでは最も近代的な設備の工場となる。
アイバース&ポンドは家庭用スピネット型からグランドに至るまでさまざまなピアノを作り、
キャビネット(外装)はかなり美しい。

アイヴァース&ポンド社は、マサチューセッツ州ボストンを拠点とし、
高品質なピアノを製造することで全米に知られるようになった会社である。
同社のピアノは、20世紀には何百もの音楽院や学校、何千もの家庭で使われていた。
同社は1880年にウィリアム・H・アイバースとハンデル・ポンドによって設立された。
工場はマサチューセッツ州ケンブリッジポートにあり、オフィスはボストンにあったが、
1945年にウィンター社の傘下に入るまではボストンにあった。
アイバース&ポンド社のシリアルナンバーは1983年まであり、
さらにウィンター&カンパニーやエオリアン・コーポレーションのシリアルナンバーも確認できる。

ベビーグランド、フルグランド、アップライト、プレイヤーピアノなど、
アイバース&ポンド社のピアノはまさに芸術品です。
その美しい構造と魅力的な音色は、ピアノ学習者だけでなく、プロの音楽家にも好まれた。
さらに、何度弾いても摩耗しない耐久性の高い楽器としても評価されていた。
また、ローズウッド、マホガニー、ウォールナットなどのエキゾチックな木材を使用し、
美しいヘッドボードを備えたものもあり、インテリアとしても美しい音色を奏でていた。

1959年にウインター(WINTER & CO.)は、エオリアン・アメリカン社と合併し、
社名をエオリアン・コーポレーションに変更していた間、Ivers & Pondは
ウィンター&カンパニーが製造していたブランド名の一つです
→詳しくはWINTERの項目へ
IZUTSU


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
イヅツ IZUTSU (IZUTSU&SONS)
井ヅツピアノ(井ヅツ楽器株式会社/ヰヅツ楽器株式会社) 社長:山田俊二氏
当時の住所:大阪市住吉区万代西

機種:高千穂(タカチホ)などがある
井ヅツピアノで発売した多数のブランドの一つ。

  上記Iから始まるブランドの中で、追記出来そうな事項や新情報を発見した場合、修正受付フォーム よりお気軽にお知らせ下さい。
どんな些細な情報でも構いませんので、広く皆様からのフィードバックをお待ちしております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

    

 

 


 

ピアノ銘柄ブランド
トレードマーク 紹介
& 知名度ランキング


  

メーカー/ブランド説明・会社沿革・歴史・製作者・特徴・音色・他 

J. & C. FISCHER →FISCHERの項目へ
J.B.CRAMER


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
J.B.Cramer クラーマー/クラマー

イギリス(ロンドン) 詳細不明
J .B. STREICHER →STREICHERの項目へ
J. B. WISZNIEWSKI J.B.Wiszniewski 詳細不明
J. ERBE EISENACH 詳細不明
J.G. DOERING


このピアノのトレードマーク画像を寄稿して頂ける方へ
J.G.DOERING YOKOHAMA
ジェー・ジー・ドーリング (ジェー・ジー・デーリング) J.G.DOERING'S PIANOS ORGANS

製造・販売:ドーリング商会(デーリング商会)(横浜)
横浜でピアノの輸入・加工・販売をしていて、
わが国におけるピアノ普及のパイオニア的存在だったドイツ人技術者、
J.G. ドーリングが、明治17年から明治22年にかけて販売したもの。
日本最古級のアップライトピアノ。

<参考>
J.G. DOERING(天使のピアノ)は、日本に現存する最古のアップライトピアノとして、
東京都国立市にある社会福祉法人滝乃川学園「石井亮一・筆子記念館」に保存されております。
これは1885年(明治18年)頃、横浜にあったデーリング商会が製造販売したものです。
ちなみに日本楽器(現ヤマハ)の創業が1900年(明治33年)ですのでいかに古いかが分かります。
「天使のピアノ」については滝乃川学園ホームーページに詳しく紹介されております →★
「天使のピアノ」の名称の由来は、上前板(上前パネル)中央部分、ガラスに焼き付けられた
2人の幼児を抱いた天使が描かれているからと言われております。
この「天使のピアノ」は石井筆子の嫁入り道具だったと伝えられています。
2003年(平成15年)には国立市の登録文化財に指定されました。

★★★
現存する日本最古の現存ピアノとしては山口県萩市の熊谷美術館にある「WILLIAM ROLFE & SONS」の方が
古いと考えられます(※こちらはアップライトピアノではなく、スクエアピアノです)
スクエアピアノとは四角い箱状でテーブルのような形状のピアノで、
グランドピアノが登場する前に主流だったピアノです。詳しくは「スクエアピアノ」で検索してみて下さい。
このピアノの詳しくは当ページ内の→WILLIAM ROLFE & SONSの項目へどうぞ。
(山口県の情報発信している解説ページへのリンクもここにあります)

<参考資料>
こちらはピアノではありませんが、J.G. DOERINGと銘板が入っているリードオルガンの写真です →★
このリードオルガンはジョージウッズ(GEORGE WOODS)というもので、BOSTONと銘が入っております。
このリードオルガン所有者様によりますと、このオルガンは曾祖母様から代々受け継がれているオルガンで、
当時カナダの宣教師から譲り受けたとのことです。おそらくJ.G.Doeringが輸入したものだろうとのことです。
このリードオルガンの写真は「山梨県北杜市塚川 三井家」様からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
J.G. IRMLER



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J.G.イルムラー  製造:ドイツ・ライプツィヒ
現在はブリュートナーのセカンドブランド。

メンデルスゾーンなどの一流の演奏家や作曲家がイルムラーのグランドピアノを弾いたとされる。
また、イルムラーピアノは数々の素晴らしい賞を受賞したり、ヨーロッパ各地の王室御用達楽器に選ばれるなど、
イルムラー社はドイツにおける最高ランクのピアノメーカーと評されるようになった。
現在は、コスト削減のため、組み立てをポーランド国内で行い最終調整をライプツィヒの
ブリュートナー工場で行っているピアノとのこと。

<歴史>
ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラーは、ウィーンのピアノマイスターたちのもとで
ピアノ製作を学んだ。そして1818年にドイツへ戻ると、当時のヨーロッパ文化の中心地であるライプツィヒに
会社を設立し、 非常に高い品質のグランドピアノ、およびスクエアピアノ、アップライトピアノを製作した。
イルムラーはとても小さな店から始まったが、1857年にイルムラーが亡くなる頃には世界中でイルムラー社の
ピアノが販売されるようになっていたという。
イルムラーの後を継いだのは、ピアノ製作の教育を受けていた息子のオットーとオズヴァルトだった。
イルムラー社は北米への輸出や国内市場で着実に売り上げを伸ばしていった。
ところが、他のドイツメーカーに徐々に押されるようになり、最先端のアイディアを取り入れた攻めのセールスを
展開するように迫られた。1861年、イルムラー社は工場に蒸気駆動機械を導入する。
そしてその年のうちに、オットーは工場の経営を弟に託し、この世を去った。
その後の成功により、イルムラー社はドイツにおける最高品質のピアノメーカーとしての地位を確立し、
オーストリア、ヴュルテンベルク、スウェーデン、ルーマニアの王室から表彰された。
1905年にオズヴァルトが亡くなると、会社は有能な息子、エミールとオットーに委ねられた。
イルムラー社はその後、1950年代まで独立してピアノを生産していた。そしてイルムラーピアノは、
イルムラー・ヨーロッパというブランド名のもと、アジアとヨーロッパの工場で作られるようになり、
アメリカ向けピアノは、ジャーマン・ピアノ・インポーツ社が輸出している。

<附録>
イルムラーピアノ 製造番号/製造年代 対照表(1850年~1953年) →★

<以下、ウィキペディアより引用抜粋>
J. G. イルムラー(J. G. Irmler)は、ザクセン・ライプツィヒのピアノ製造会社であった。
所有者のエミールおよびオットー・イルムラーはオーストリア=ハンガリー帝国帝室・王室御用達称号を授与。
1818年、ヨハン・クリスティアン・ゴットリープ・イルムラー(Johann Christian Gottlieb Irmler、
1790年2月11日–1857年12月10日)がライプツィヒでピアノ製造会社を創業した。
1842年、イルムラーはグランドピアノのための新たなアクションを考案した。
同年、イルムラーはザクセン国王からgroße Goldene Sächsische Königliche Staatsmedaille
(ザクセン王室大金章)を授与された。
1943年、他のピアノメーカーと同様にイルムラー社も空襲の被害にあい、生産施設は完璧に破壊された。
第二次世界大戦の終戦後、イルムラー家は事業の再開を決断した。
しかし、ロシアの占領下でピアノ製作に適した建物を再建することは非常に難しかった。
家長の死去後、イルムラー家は西側に脱出した。
1953年、東ドイツ当局はイルムラー社の歴史を終わらせた。
1999年、イルムラーの名前が復活した。
2018年現在、Irmler Piano GmbHはブリュートナー社の関連会社であり、イルムラーブランドのピアノは
ブリュートナーが販売している。
Studioシリーズは主に中国の工場で組み立てられ、ドイツのブリュートナーの工場でハンマーが組込まれ、
検査や調整が行われる。このモデルは積層スプルース響板が使われている。
Professionalシリーズは、サミックのインドネシア工場製の部品とポーランド製のキャビネットを使って
ドイツで組み立てられる。

トレードマーク画像は「匿名希望様」からご寄稿頂きました。ありがとうございます!
J. HEINTZMANN SOHN 詳細不明
J. KELLER
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ジェイ・ケラー 松本ピアノ工場/H. Matsumoto (東京月島)

J.& J. HOPKINSON

J.& J. HOPKINSON

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ホプキンソン  ホプキンソンピアノ社 1835年創業 イギリス(ロンドン)

ジョン・ホプキンソンによって設立
音楽出版社から出発したピアノ製造メーカーで、
1990年ベントリー社によって買収

J. L. HUDSON J. L. HUDSON CO.
アメリカ(DETROIT/ミシガン州デトロイト) その他詳細不明
J. LARY
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フランス(パリ) 詳細不明
J. OOR
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ベルギー(BRUXELLES ブリュッセル) 詳細不明
J.S. GREIFEN




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J.S.GREIFEN (GREIFEN)
ジェイ・エス・グライフェン/ジェイ・エス・グライフン

詳細不明

※GREIFENとはドイツ語で「~をつかむ」、「~をつかまえる」という意味
まくり(蓋)部分の銘柄マーク →★

※画像はnosuke様からご提供頂きました。ありがとうございます!
J. SCHILLER →SCHILLER J. の項目へ
JACINTO
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ハシント フィリピン 詳細不明
JACOB BROTHERS
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Jacob Brothers Piano Company アメリカ(ニューヨークとボストン) 創業1878年

<ジェイコブ・ブラザーズ・ピアノ・カンパニーの歴史>
1878年、Jacob Brothersはニューヨークとボストンに設立され、
1905年までPeek & Sons Piano Companyが製造したピアノを販売していた。
1905年以降は、マサチューセッツ州に工場を設立し、ピアノの小売と卸売りを行っていました。
1905年以降、ジェイコブ・ブラザーズはマサチューセッツ州に工場を設立し、ピアノの小売と卸売を行った。
また、オイタープ社、ジェームズ・アンド・ホルストローム社、ニルソン社、オペラ・ピアノ・カンパニー、
ピーク・アンド・サンズ社、プレミア・ピアノ・カンパニーなど、アメリカの有名企業のピアノを製造した。
1946年以降、ジェイコブ・ブラザーズのピアノの製造はマチューシェク・ピアノ・カンパニーに引き継がれ、
1955年頃を境に、廃業したか買収されたかの可能性があり、それ以降の記述はない。
ピアノの製造が主な業務であったが、アメリカで唯一のピアノケース工場を立ち上げたことでも知られており、
ピアノのケースや外装部品をあらかじめ製造して他のメーカーに出荷していた。

ジェイコブ・ブラザーズのピアノは、耐久性に優れた良質な楽器で、ピアノやプレーヤー・ピアノ等がある。
1893年のコロンブス万国博覧会で賞を受賞したのをはじめ、数々の賞を受賞している。
ジェイコブ・ブラザーズのピアノが当時有名だったモデルには、Euterpe、James & Holmstrom、
Nilson 7 Co.、Opera、Peek & Son、Premierなどがある。
ジェイコブ・ブラザーズのピアノのシリアルナンバーは、ピーク&サンのファクトリーナンバーである。
JACOB DOLL
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J. ドール (アメリカ・ニューヨーク) 詳細不明
JACKSON & SONS



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ジャクソン&サンズ/ジャクソンアンドサンズ

東日本ピアノ製造(株)浜松市
株式会社 バロック

ジャクソン・アンド・サンズのまくり(蓋部分)の銘柄ブランドマーク →★  ピアノ内部写真 →★
これらの写真はすべて「匿名希望様」からご寄稿頂きました。